2 / 4

第2話※キスのみ

   2  皇くんが住み込みで働くようになって数か月、驚くほど快適だ。毎日三食、バランスのいい食事が出てくるし、寂しがり屋のアレクにとって、日中遊び相手がいるおかげか、性格がより穏やかになってきた。 「ただいま~! アレク~、皇くん……あれ?」  呼びかけても、反応がない。いつもなら、一目散に駆けてくるアレクの足跡すら聞こえてこない。だが、散歩のリードも、皇くんの靴もそのままだ。 「いないの~?」 「せんせっ! し~~~っ!」 「え」  リビングに入るなり、皇くんがひどく焦った様子で人差し指をつくり、しきりに静かにしてよとジェスチャーをしてくる。よく見ると、リビングのソファで、彼の膝枕で、気持ちよさそうに眠っているアレクが見えた。 「え、うそ、ねてるの?」  ボクはソファの後ろにまわり、彼に小声で声をかける。 「うん。耳掃除が気持ちよかったみたい」 「すごい。さすがドッグトレーナー」 「だろ? 俺もびっくり」 「ふふ」  そう話しながら、くぅくぅと寝息を立てているアレクをしばらくのぞき込み、顔を見合わせてまたほほ笑む。 (あ──)  金色の髪に、青い瞳──それがまた、ボクのほうへ近づいてくる──  ────ッ…… 「ぶわっ!?」 「わふっ!」  突然起き上がったアレクにべろりと舐められ、ボクは驚いて尻もちをついてしまう。 「いっったっ! も~アレクッ!」 「アハハッ! せんせ、あんた今っ、すっげー変な転び方してたっ!」  お腹を抱えて笑う皇くんを恨めし気に見つつ、ほっとしている自分に気づく。 (アレクのおかげで助かった。あのまま動かなかったら、今頃──)  だが、考える間もなく、興奮したアレクにのしかかられ、顔をべろべろと舐められてしまう。 「ちょっ、アレクっ、も~やめてって、皇くん! 助けてよっ」 「ハハッ、ほら、アレク、ボールで遊ぼうか、それ!」 「わふっ!」 「いいよ、いいよ~! その調子、はいご褒美!」  驚いた。アレクは興奮したらなかなか言う事を聞かないのに、彼は他の遊びに切り替えて、見事にボクからアレクを引き離してくれた。 「……すごいね。キミを雇って、本当に良かったよ」 「ハハッ。相性がいいのもあるよ」  そう言ってはにかむように笑った時の白い歯がまぶしい。 「ところで、いつまで床に寝てんの?」  そう言って、ボクの方に手を伸ばしてくれる。 「あ、ありがと──」  ──……っ…… (──え……?) 「先生、夕飯出来てるよ」 「え──? あ、うん……」  キス、された……今── 「先生! ご飯、食べよ?」 「あ、う、うん」  気のせいかと思うくらい、彼の態度はいつも通りだ。 (された……よね? ちゅって、やわらかいのが──ッ……)  ボクは記憶をリピートしかけてやめる。今の生活を、壊したくない。 「こ、これすごい美味しい! なんていう料理?」 「鶏むね肉のチャーシューだよ。味付けして、圧力鍋でやわらかくしたんだ」 「へ、へえ~!」  おかしなテンションだったのは、バレバレだったと思う。でもボクは、彼が何も言ってこないことをいいことに、気づかないフリをしてしまった。 「じゃあ、行ってきます」 「うん。あ、ほこり、ついてる」  そう言って、彼がボクの髪に触れる。 「──っ……」 「ほら、ね?」 「あ、ありがとう」  目をそらしてしまった。彼の視線が、どことなく身体にまとわりつくようで、最近、居心地が悪い──。 あのキスから一週間──これ以上、距離を縮めてほしくない。 「あ、そうだ。今日はアレクと一緒にドッグランに行ってくるから、夕飯作るの遅くなるかも」 その言葉に、アレクがバッと二本足で立ち上がり、前足で早く早くと催促するように、皇くんの胸をかく。 「ハハッ、すぐ行くから、待ってろって」 「わふっ!」 その様子に、ボクはほっとする。愛犬のアレクが間に入ってくれるおかげで、居心地の悪さが和らぐ。 「ふふ、嬉しそう。あ、せっかくだから、夕飯を作る仕事は無しにして、一緒に贅沢な出前でも取らない?」 「まじ!? 賛成っ!」 「楽しみだね」  幸せなんだ。今がすごく。ここから何一つ、足したり引いたりしたくない──。 それなのに、まさかあんなことになるなんて、神様は、この世にいないのだろうか──。  午後の診察を終え、そろそろ帰る支度をしようという時だった。 「あ、あのっ、心堂先生っ! 皇くんからお電話です。なんか、様子が──」  いつも明るい彼女の顔が青ざめている。ただ事ではない雰囲気に、ボクは急いで電話を代わる。 「せんせっ……ごめ、ごめんなさいっ……」 「皇くん? どうしたの?」 「アレクがっ……おれ、俺のせいで──ぅああああああっ! あぁあああぁああ!」 「──…………っ」  嗚咽と慟哭と、心が引き裂かれるような悲痛な叫びに、ボクは足元から崩れ落ちた。  アレクが、 ……死んだ──?  何をどう行動したのかわからない。気づいたら、警察署でアレクの遺体と対面していた。警察の話では、酔っ払いの対向車が、彼らの乗る車に突っ込んで来たらしい。 「…………」 見た目はキレイで、まるで生きているようだ。ボクはその頭をそっと撫でる。後ろで、すすり泣く声が響く。 「せんせぃっ……ごめんっ、ご、めんっ」 「……して……」  この時ボクは、言ってはいけないことを言った。 「……どうしてキミが無事で、アレクがいないの?」 「──ッツ!!」  見なくても分かる。彼の全身が強張り、罪悪感に押し潰されそうな顔をしているに違いない。それなのにボクは、目の前のアレクの方が大事だった。 「あれくっ……なんでっ……」  あまりにも大きなショックは、涙すら出ないようだ。ボクはただ、アレクの上に覆いかぶさり、声にならない声を上げた。 「ッツ──ッ!」  その時だ。  キキーーーーーーーーッ!  ドンッ!  車が何かにぶつかるような激しい衝撃音が部屋を揺らし、ボクは咄嗟に後ろを振り返る。 皇くんがいない。 途端に騒がしくなる警察署前に、ボクは胸騒ぎを覚え、矢も楯もたまらず飛び出した。 「人が轢かれたッ」 「こいつが、急に飛び出してきてっ!」 「──ッツ……」  どうしてこうも嫌なことばかり続くのだろうか──暗闇でもわかる美しい金髪が、真っ赤な血に染まっている。 「すめっ、皇くんっ!」 「下がってください! 下がって!」 「皇くんっ!! どうしてっ! なんでっ!」  半ばパニックになりながら、しゃがれた声で叫ぶ。だが警察官に止められ、駆け寄ることもできない。 「あぁっ、あーーーーーーーーーっ!」 ボクは後悔と怒りと、立て続けに起きた不幸に、訳も分からず叫び続けていた。 「アレクー! ただいまー!」  だが足音が聞こえない。いつもなら、すぐに駆けてくるのに──。ああ、そうか。また皇くんの耳掃除で寝てるんだな──ボクは忍び足でリビングに向かう。 「皇くん? アレク? アレ……」  真っ暗なリビングに、ふいに言いようのない喪失感がボクを襲う。  ああ、そうだ。   アレクはさっき、 死んだんじゃないか──。  ボクはぼう然としたまま皇くんの着替えをとり、彼の入院している病院へ戻る。 彼の無事を、望んでいるかどうかも、わからないまま──。  暗い病室で、皇くんが静かに目を覚ます。 「……っ?」 「起きた? 良かったね。打撲と骨折だって」  自分でも驚くほど、抑揚のない声が出た。 「!? せんせっ──痛ッっつ!」 「無理しない方がいい。しばらく入院だそうだから」  そう言って当面の着替えを差し出し、椅子から立ち上がって、彼に背を向ける。 「先生っ! ごめんっ! 俺がっ、俺が、アレクをドッグランに連れて行かなければ──」 「……引っ越し先が決まったら教えて。残りの荷物は、宅配で送るから」 「!? い、嫌だっ! 先生ッ! 俺を捨てないでっ! 俺には、あんたしかいないんだっ! 先生待って! せんせえっ!」  点滴の管がついたままベッドから転げ落ち、喉を引き絞ったような声でボクに縋りついてくる。 「心堂先生、俺にはあんただけなんだっ、あんたが俺を救ってくれたっ! だから──」 「……ボクにも、アレクだけだった」 「──……ッ……」  その瞬間、彼はゆっくりと崩れ落ちていった──。  最低だ。彼は悪くないのに、分かっているのに、どうすることもできなかった。 「アレクッ……」  真っ暗な部屋で膝を抱え、ボクは泣いた。アレクがいつも使っていたかわいい水飲みや、ボール、その横にはいつも皇くんがいて、二人は本当の兄弟みたいに仲が良かった。 「っつく、ひぐっ……ぅう」  皇くんを手放したくなかった。だがそれ以上に、彼といるとアレクのことを思い出して辛い。 「ぅっ……ァアッ、ぅあ~ぁあ~~っ!」  だがそれから一か月経っても、二か月経っても、心に空いた穴は、埋まってはくれなかった──。 「心堂先生? 大丈夫ですか?」 「あ、ご、ごめん」  アレクの死から三ヶ月が経とうとしている。それなのに、気持ちは沈んだままで、最近では仕事中にぼうっとすることが多くなってしまった。なんとか業務はこなせているとはいえ、まわりに気を遣わせてしまっているのが心苦しい。 「やっぱりもう少し、休まれたほうが……」 「いや、仕事してるほうが、気が紛れるから」 「それなら、いいですけど……」  心配そうな看護師に、ボクは力なくほほ笑んだ。 ぼんやりとした足取りで家に戻ると、玄関の前に人が倒れているのを見つける。ぼさぼさの髪に、ぼろぼろの服──一瞬、誰なのかわからなかった。だがその髪色と体躯にハッとして、ボクは急いで駆け寄った。 「!? 皇くん!?」  近くで見て、ボクはさらに驚かされる。顔や体に切り傷やすり傷、青あざまであったのだ。 「ひどいケガッ、どうしてっ」  ボクの声に、彼がゆっくりと目を開ける。 「あ、せんせ……父さんと母さんに連れ戻されて……殴られた」 「ご両親に!? けい、警察に連絡をっ」  だが彼は力なく首を横にふる。 「いい。外面いいから、誤魔化されるだけ。それよりも、中に入れてよ」 「……わかった」 「っつ!」 「痛い? ひどいね。本当に、どうしてこんな……」  ベッドに寝かせ、救急箱で手当てをはじめる。だが、口の中も切っているし、服をめくれば、青あざがそこら中にあって、絆創膏も包帯も、あっという間になくなってしまいそうだ。 「……俺が入院してること、どこからか聞きつけて来て、男と暮らしてたんだろうって、大騒ぎで……家の敷地に離れがあるんだけど、そこでお祓いだなんだで、この有様──財布も携帯も取られちゃって」  かける言葉が見つからない。まさか、そこまでひどい両親だったとは──。 「ごめん、先生──」 「え?」 「行くとこなくて、迷惑かけるって分かってたんだけど──」 「──……」  ボクはぱたんと、救急箱を閉じる。 「──キミはもう、立派な大人だ。当面の生活費ならボクが出すから、遠くに逃げればいい」  だが彼は首を縦に振らず、それどころか心配そうにボクを見上げる。 「……心堂先生、最近眠れてる?」 「…………」 「アレクのこと、まだ忘れられないよね」 「ッツ──だったら、なに? キミがいたら余計ッ」  知ったふうな口を聞かれて、ボクは苛立ちを隠せない。 「俺があんたの犬になる」 「……──え?」  一瞬、何を言われたのか分からなかった。だが、彼の瞳は真剣そのもので、ボクの腕を強く掴んで揺さぶってくる。 「先生、俺はあんたに〝治す必要なんかない〟って言われたとき、すごく嬉しかった! このままでいいんって、初めて思えた! だから、俺にはあんたがいない人生なんて考えられない! あんただってそうだろ!? アレクがいない人生に、あんたは耐えられるのかよっ!」 「な、にを、バカなこと……傷は、いつか癒える……に、きまって……」  いつも患者に説いてきたことだ。傷はいつか癒える──それなのに、自分のことになると、こんなにも先が見えなくなるものなのか──。 「心堂先生、俺に催眠術をかけてよ。あんたの犬にしてくれよっ! 俺なら、アレクになれるっ!」  青あざだらけの顔で、泣きながら彼が縋ってくる。もし、断ったら、彼はまた、家族に連れ戻されてしまうだろうか──いや、そうなるよりも前に、また、車の前にふらりと出て行ってしまうかもしれない──。 真っ赤な血に染まる金髪、動かない身体── ゾクっと、背筋に悪寒が走る── 「ッツ……」 アレクだけでなく、彼まで失ってしまったら、ボクはこれから先、どうやって生きていけばいい? 「せんせい、おねがぃ、そばに、いさせてっ」 「……わかった……」  ボクはゆっくりと彼を見る。 「アレクの分まで、ボクのそばにいて」 「うん、うん、いる。絶対に離れない!」  そう言ってボクの唇に、彼の唇が触れる。甘く、痺れるような毒が、体中を犯した。

ともだちにシェアしよう!