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第2話※キスのみ
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皇くんが住み込みで働くようになって数か月、驚くほど快適だ。毎日三食、バランスのいい食事が出てくるし、寂しがり屋のアレクにとって、日中遊び相手がいるおかげか、性格がより穏やかになってきた。
「ただいま~! アレク~、皇くん……あれ?」
呼びかけても、反応がない。いつもなら、一目散に駆けてくるアレクの足跡すら聞こえてこない。だが、散歩のリードも、皇くんの靴もそのままだ。
「いないの~?」
「せんせっ! し~~~っ!」
「え」
リビングに入るなり、皇くんがひどく焦った様子で人差し指をつくり、しきりに静かにしてよとジェスチャーをしてくる。よく見ると、リビングのソファで、彼の膝枕で、気持ちよさそうに眠っているアレクが見えた。
「え、うそ、ねてるの?」
ボクはソファの後ろにまわり、彼に小声で声をかける。
「うん。耳掃除が気持ちよかったみたい」
「すごい。さすがドッグトレーナー」
「だろ? 俺もびっくり」
「ふふ」
そう話しながら、くぅくぅと寝息を立てているアレクをしばらくのぞき込み、顔を見合わせてまたほほ笑む。
(あ──)
金色の髪に、青い瞳──それがまた、ボクのほうへ近づいてくる──
────ッ……
「ぶわっ!?」
「わふっ!」
突然起き上がったアレクにべろりと舐められ、ボクは驚いて尻もちをついてしまう。
「いっったっ! も~アレクッ!」
「アハハッ! せんせ、あんた今っ、すっげー変な転び方してたっ!」
お腹を抱えて笑う皇くんを恨めし気に見つつ、ほっとしている自分に気づく。
(アレクのおかげで助かった。あのまま動かなかったら、今頃──)
だが、考える間もなく、興奮したアレクにのしかかられ、顔をべろべろと舐められてしまう。
「ちょっ、アレクっ、も~やめてって、皇くん! 助けてよっ」
「ハハッ、ほら、アレク、ボールで遊ぼうか、それ!」
「わふっ!」
「いいよ、いいよ~! その調子、はいご褒美!」
驚いた。アレクは興奮したらなかなか言う事を聞かないのに、彼は他の遊びに切り替えて、見事にボクからアレクを引き離してくれた。
「……すごいね。キミを雇って、本当に良かったよ」
「ハハッ。相性がいいのもあるよ」
そう言ってはにかむように笑った時の白い歯がまぶしい。
「ところで、いつまで床に寝てんの?」
そう言って、ボクの方に手を伸ばしてくれる。
「あ、ありがと──」
──……っ……
(──え……?)
「先生、夕飯出来てるよ」
「え──? あ、うん……」
キス、された……今──
「先生! ご飯、食べよ?」
「あ、う、うん」
気のせいかと思うくらい、彼の態度はいつも通りだ。
(された……よね? ちゅって、やわらかいのが──ッ……)
ボクは記憶をリピートしかけてやめる。今の生活を、壊したくない。
「こ、これすごい美味しい! なんていう料理?」
「鶏むね肉のチャーシューだよ。味付けして、圧力鍋でやわらかくしたんだ」
「へ、へえ~!」
おかしなテンションだったのは、バレバレだったと思う。でもボクは、彼が何も言ってこないことをいいことに、気づかないフリをしてしまった。
「じゃあ、行ってきます」
「うん。あ、ほこり、ついてる」
そう言って、彼がボクの髪に触れる。
「──っ……」
「ほら、ね?」
「あ、ありがとう」
目をそらしてしまった。彼の視線が、どことなく身体にまとわりつくようで、最近、居心地が悪い──。
あのキスから一週間──これ以上、距離を縮めてほしくない。
「あ、そうだ。今日はアレクと一緒にドッグランに行ってくるから、夕飯作るの遅くなるかも」
その言葉に、アレクがバッと二本足で立ち上がり、前足で早く早くと催促するように、皇くんの胸をかく。
「ハハッ、すぐ行くから、待ってろって」
「わふっ!」
その様子に、ボクはほっとする。愛犬のアレクが間に入ってくれるおかげで、居心地の悪さが和らぐ。
「ふふ、嬉しそう。あ、せっかくだから、夕飯を作る仕事は無しにして、一緒に贅沢な出前でも取らない?」
「まじ!? 賛成っ!」
「楽しみだね」
幸せなんだ。今がすごく。ここから何一つ、足したり引いたりしたくない──。
それなのに、まさかあんなことになるなんて、神様は、この世にいないのだろうか──。
午後の診察を終え、そろそろ帰る支度をしようという時だった。
「あ、あのっ、心堂先生っ! 皇くんからお電話です。なんか、様子が──」
いつも明るい彼女の顔が青ざめている。ただ事ではない雰囲気に、ボクは急いで電話を代わる。
「せんせっ……ごめ、ごめんなさいっ……」
「皇くん? どうしたの?」
「アレクがっ……おれ、俺のせいで──ぅああああああっ! あぁあああぁああ!」
「──…………っ」
嗚咽と慟哭と、心が引き裂かれるような悲痛な叫びに、ボクは足元から崩れ落ちた。
アレクが、
……死んだ──?
何をどう行動したのかわからない。気づいたら、警察署でアレクの遺体と対面していた。警察の話では、酔っ払いの対向車が、彼らの乗る車に突っ込んで来たらしい。
「…………」
見た目はキレイで、まるで生きているようだ。ボクはその頭をそっと撫でる。後ろで、すすり泣く声が響く。
「せんせぃっ……ごめんっ、ご、めんっ」
「……して……」
この時ボクは、言ってはいけないことを言った。
「……どうしてキミが無事で、アレクがいないの?」
「──ッツ!!」
見なくても分かる。彼の全身が強張り、罪悪感に押し潰されそうな顔をしているに違いない。それなのにボクは、目の前のアレクの方が大事だった。
「あれくっ……なんでっ……」
あまりにも大きなショックは、涙すら出ないようだ。ボクはただ、アレクの上に覆いかぶさり、声にならない声を上げた。
「ッツ──ッ!」
その時だ。
キキーーーーーーーーッ!
ドンッ!
車が何かにぶつかるような激しい衝撃音が部屋を揺らし、ボクは咄嗟に後ろを振り返る。
皇くんがいない。
途端に騒がしくなる警察署前に、ボクは胸騒ぎを覚え、矢も楯もたまらず飛び出した。
「人が轢かれたッ」
「こいつが、急に飛び出してきてっ!」
「──ッツ……」
どうしてこうも嫌なことばかり続くのだろうか──暗闇でもわかる美しい金髪が、真っ赤な血に染まっている。
「すめっ、皇くんっ!」
「下がってください! 下がって!」
「皇くんっ!! どうしてっ! なんでっ!」
半ばパニックになりながら、しゃがれた声で叫ぶ。だが警察官に止められ、駆け寄ることもできない。
「あぁっ、あーーーーーーーーーっ!」
ボクは後悔と怒りと、立て続けに起きた不幸に、訳も分からず叫び続けていた。
「アレクー! ただいまー!」
だが足音が聞こえない。いつもなら、すぐに駆けてくるのに──。ああ、そうか。また皇くんの耳掃除で寝てるんだな──ボクは忍び足でリビングに向かう。
「皇くん? アレク? アレ……」
真っ暗なリビングに、ふいに言いようのない喪失感がボクを襲う。
ああ、そうだ。
アレクはさっき、
死んだんじゃないか──。
ボクはぼう然としたまま皇くんの着替えをとり、彼の入院している病院へ戻る。
彼の無事を、望んでいるかどうかも、わからないまま──。
暗い病室で、皇くんが静かに目を覚ます。
「……っ?」
「起きた? 良かったね。打撲と骨折だって」
自分でも驚くほど、抑揚のない声が出た。
「!? せんせっ──痛ッっつ!」
「無理しない方がいい。しばらく入院だそうだから」
そう言って当面の着替えを差し出し、椅子から立ち上がって、彼に背を向ける。
「先生っ! ごめんっ! 俺がっ、俺が、アレクをドッグランに連れて行かなければ──」
「……引っ越し先が決まったら教えて。残りの荷物は、宅配で送るから」
「!? い、嫌だっ! 先生ッ! 俺を捨てないでっ! 俺には、あんたしかいないんだっ! 先生待って! せんせえっ!」
点滴の管がついたままベッドから転げ落ち、喉を引き絞ったような声でボクに縋りついてくる。
「心堂先生、俺にはあんただけなんだっ、あんたが俺を救ってくれたっ! だから──」
「……ボクにも、アレクだけだった」
「──……ッ……」
その瞬間、彼はゆっくりと崩れ落ちていった──。
最低だ。彼は悪くないのに、分かっているのに、どうすることもできなかった。
「アレクッ……」
真っ暗な部屋で膝を抱え、ボクは泣いた。アレクがいつも使っていたかわいい水飲みや、ボール、その横にはいつも皇くんがいて、二人は本当の兄弟みたいに仲が良かった。
「っつく、ひぐっ……ぅう」
皇くんを手放したくなかった。だがそれ以上に、彼といるとアレクのことを思い出して辛い。
「ぅっ……ァアッ、ぅあ~ぁあ~~っ!」
だがそれから一か月経っても、二か月経っても、心に空いた穴は、埋まってはくれなかった──。
「心堂先生? 大丈夫ですか?」
「あ、ご、ごめん」
アレクの死から三ヶ月が経とうとしている。それなのに、気持ちは沈んだままで、最近では仕事中にぼうっとすることが多くなってしまった。なんとか業務はこなせているとはいえ、まわりに気を遣わせてしまっているのが心苦しい。
「やっぱりもう少し、休まれたほうが……」
「いや、仕事してるほうが、気が紛れるから」
「それなら、いいですけど……」
心配そうな看護師に、ボクは力なくほほ笑んだ。
ぼんやりとした足取りで家に戻ると、玄関の前に人が倒れているのを見つける。ぼさぼさの髪に、ぼろぼろの服──一瞬、誰なのかわからなかった。だがその髪色と体躯にハッとして、ボクは急いで駆け寄った。
「!? 皇くん!?」
近くで見て、ボクはさらに驚かされる。顔や体に切り傷やすり傷、青あざまであったのだ。
「ひどいケガッ、どうしてっ」
ボクの声に、彼がゆっくりと目を開ける。
「あ、せんせ……父さんと母さんに連れ戻されて……殴られた」
「ご両親に!? けい、警察に連絡をっ」
だが彼は力なく首を横にふる。
「いい。外面いいから、誤魔化されるだけ。それよりも、中に入れてよ」
「……わかった」
「っつ!」
「痛い? ひどいね。本当に、どうしてこんな……」
ベッドに寝かせ、救急箱で手当てをはじめる。だが、口の中も切っているし、服をめくれば、青あざがそこら中にあって、絆創膏も包帯も、あっという間になくなってしまいそうだ。
「……俺が入院してること、どこからか聞きつけて来て、男と暮らしてたんだろうって、大騒ぎで……家の敷地に離れがあるんだけど、そこでお祓いだなんだで、この有様──財布も携帯も取られちゃって」
かける言葉が見つからない。まさか、そこまでひどい両親だったとは──。
「ごめん、先生──」
「え?」
「行くとこなくて、迷惑かけるって分かってたんだけど──」
「──……」
ボクはぱたんと、救急箱を閉じる。
「──キミはもう、立派な大人だ。当面の生活費ならボクが出すから、遠くに逃げればいい」
だが彼は首を縦に振らず、それどころか心配そうにボクを見上げる。
「……心堂先生、最近眠れてる?」
「…………」
「アレクのこと、まだ忘れられないよね」
「ッツ──だったら、なに? キミがいたら余計ッ」
知ったふうな口を聞かれて、ボクは苛立ちを隠せない。
「俺があんたの犬になる」
「……──え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。だが、彼の瞳は真剣そのもので、ボクの腕を強く掴んで揺さぶってくる。
「先生、俺はあんたに〝治す必要なんかない〟って言われたとき、すごく嬉しかった! このままでいいんって、初めて思えた! だから、俺にはあんたがいない人生なんて考えられない! あんただってそうだろ!? アレクがいない人生に、あんたは耐えられるのかよっ!」
「な、にを、バカなこと……傷は、いつか癒える……に、きまって……」
いつも患者に説いてきたことだ。傷はいつか癒える──それなのに、自分のことになると、こんなにも先が見えなくなるものなのか──。
「心堂先生、俺に催眠術をかけてよ。あんたの犬にしてくれよっ! 俺なら、アレクになれるっ!」
青あざだらけの顔で、泣きながら彼が縋ってくる。もし、断ったら、彼はまた、家族に連れ戻されてしまうだろうか──いや、そうなるよりも前に、また、車の前にふらりと出て行ってしまうかもしれない──。
真っ赤な血に染まる金髪、動かない身体──
ゾクっと、背筋に悪寒が走る──
「ッツ……」
アレクだけでなく、彼まで失ってしまったら、ボクはこれから先、どうやって生きていけばいい?
「せんせい、おねがぃ、そばに、いさせてっ」
「……わかった……」
ボクはゆっくりと彼を見る。
「アレクの分まで、ボクのそばにいて」
「うん、うん、いる。絶対に離れない!」
そう言ってボクの唇に、彼の唇が触れる。甘く、痺れるような毒が、体中を犯した。
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