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第6話

 朝だ。 「うぅ……」  オレは重たい瞼を開け、ぼんやりと天井を見上げた。なんだこの天井は? こんなド派手な装飾がされた天井、実家にはなかった気が……。  あ、そうだった。ここは王宮だ。オレの新しい部屋。王子様の「婚約者」という身分に与えられた、とんでもなく豪華な部屋。 「ちくしょう、ぜんぜん眠れなかった……」  ベッドから体を起こして、オレは顔をこすった。昨夜は両親が帰った後、この部屋の豪華さに圧倒されて、全然寝付けなかったんだ。あまりにふかふかで柔らかいベッドに、体が沈み込んでいく感覚が妙に落ち着かなくて。  騎士団の宿舎では、みんな同じ硬いベッドで雑魚寝してたからな。あの硬さに慣れた体には、このふわふわベッドはかえって不眠の原因になるらしい。笑える。  対して両親は昨日、この部屋を見て大喜びだった。特に母さんなんて「セリル、あなた本当に幸せ者ね! この部屋を見れば、レオンハルト殿下があなたを大切にするつもりだって分かるわ!」って言ってたっけ。 (まあ、真実はただの見せかけの婚約者ってオチなんだけどね……) 「お目覚めですか、セリル様」  ノックの音と共に、侍女が部屋に入ってきた。侍女がいるのは驚かないけど、朝からこんな風に仕えられるのはなんだか居心地が悪い。実家じゃ、こんな仰々しい仕える人なんていなかったからな。 「朝食をお持ちしました。お召し替えの準備もできております」  彼女は丁寧に頭を下げながら、そう言った。その表情は完璧に作られた笑顔。でも、オレを直接見ることはない。視線はいつも少し逸れている。  ああ、やっぱりな。  オレは最初から分かってた。オメガの男がレオン殿下の婚約者だなんて、宮廷の人々は内心不満に思ってるはずだって。でも別にいいさ。どうせこれは見せかけなんだし、彼らの視線なんて気にしない。オレは騎士だった頃から、人の目なんて気にしたことなかったしな。 「レオンハルト殿下が、朝食後にお私室へとお呼びです」  侍女の言葉に、オレは首を傾げた。 「今日から? 早いな……」  侍女はオレのぼやきには答えず、衣装部屋へと向かった。しばらくして彼女が持ってきたのは…… 「おお!」  思わず声が上がった。それは、オレが騎士団にいた頃の制服によく似ていた。ただし、素材は明らかに高級で、細部に控えめながらも美しい刺繍が施されている。騎士の制服っぽいのに、どこか気品が漂う不思議な衣装だった。 「これ、レオン殿下が用意してくれたの?」 「はい。殿下の特別な指示でございます」  動きやすそうだな、と思った。やはりレオン殿下のことだ。オレが貴族の礼服より騎士の制服の方が落ち着くことを知っているんだろう。ちょっとだけ胸が温かくなった。  朝食を済ませ、新しい衣装に着替えると、オレはひとまず鏡の前に立った。 「おー、悪くないな」  実際、スタイルはいいと思う。騎士の衣装の実用性と、宮廷の高貴さがうまく融合している。なによりパンツスタイルで動きやすいのが助かる。正直、昨日の礼服は息が詰まりそうだった。 「おいでくださいませ」  別の侍従が現れ、オレをレオン殿下の私室へと案内し始めた。  廊下を歩きながら、オレは周囲の視線を感じ取った。すれ違う貴族や使用人たちは表向きは敬意を払うけど、その視線の奥には好奇心と……軽蔑? が混ざっているのが分かる。 「あれが噂のオメガの男か……」 「王子様の婚約者だって? 冗談じゃない……」 「騎士団から追い出されたくせに……」  小声で囁かれる言葉が、断片的に耳に入ってくる。ま、かねがね予想通りだ。オレは肩をすくめた。  まあこんなもんだろう。オメガになった瞬間から、オレはこういう目で見られるだろうことを覚悟していた。ましてや王子の婚約者だなんて。噂になって当然だ。  俺は心の中で「気にするな」と自分に言い聞かせた。オレはオレだ。第二性がどうなろうと、オレの本質は変わらないのだから。 「到着しました」  侍従がノックし、扉が開いた。  ……う、なんだかドキドキしてきた。  レオン殿下の私室は、彼の執務室と同じくらい整然としていた。書棚の本は大きさ順に並べられ、机の上の書類はきちんと分類され、ペンのインクは色ごとに整理されている。窓からは朝日が差し込み、部屋全体が穏やかな光に包まれていた。  なんだか……居心地がいい。  オレは少しほっとした。この部屋には彼の匂いがする。オレが騎士だった頃、一緒に過ごした時間の匂い。何か懐かしくて、心が落ち着く。 「入れ」  扉の向こうからレオン殿下の声がした。オレは軽く息を吸い込んで、扉を開けた。 「おはようございます、殿下」  レオン殿下は机に向かって何かを書いていた。彼は羽ペンを置き、顔を上げた。 「セリル。寝られたか?」  思いがけない質問に、オレは少し驚いた。 「正直、あんまり……あの部屋、大きすぎて落ち着かなくて」  思わず本音が出た。レオン殿下は小さく頷いた。 「そうか。すまない。もっと配慮すべきだった」 「いやいや、気にしないでください! オレのほうこそ、あんな贅沢な部屋に文句言うなんてすみません」  慌てて謝ると、レオン殿下は軽く手を振った。 「遠慮は無用だ。お前と私の関係は上司と部下ではなくなった。もっと……対等な立場だ」  彼の言葉に、オレは首を傾げた。対等? 王族と下級貴族のオメガが? ありえないだろ。でも口に出しては言わない。 「で、今日はなんの用ですか?」 「二週間後のことだ」  レオン殿下は立ち上がり、窓際に歩み寄った。彼の背中は相変わらず性格を表したように真っ直ぐだ。 「王宮で大きなパーティが開催される。貴族や外国の要人たちが集まる」 「ああ、護衛として参加すればいいんですね? 任せてください!」  オレは元気よく答えた。やっと騎士らしい仕事ができる! と嬉しくなった。 「違う」  レオン殿下が振り返った。彼の表情は真剣だ。 「お前は私の婚約者として、そこで正式に公表する」 「え……」  オレは言葉を失った。婚約者として? 公表? つまり、みんなの前で……? 「セリル、一つ聞きたい。貴族としての礼儀作法や、上流貴族たちについて、どれくらい知識がある?」  突然の質問に、オレは首をかしげた。 「え? いや……逆に殿下、オレに礼儀作法が期待できると思いますか?」  レオン殿下は少し困ったように眉をひそめた。 「……お前は一応、貴族だろう。両親から何か教わらなかったのか?」 「あー、それが」  オレは頭をかいた。 「母は最初のうちは頑張って教えてくれたんですけど、オレがあまりに覚えが悪くて、最終的に『もういい! アーサーに期待する!』って匙を投げちゃったんですよね……」 「そうか……」  レオン殿下は深いため息をついた。な、なんか恥ずかしいな。  彼は立ち上がり、部屋の隅にあるベルを鳴らした。すぐに扉がノックされ、見覚えのある人物が入ってくる。 「お呼びでしょうか、殿下」  現れたのは、いつもレオン殿下の傍にいる執事だった。50代半ばの厳格な表情の男性。整った灰色の髪と口ひげ、まっすぐな姿勢と引き締まった体つき。彼の立ち居振る舞いからは、かつて彼が優秀な軍人だったであろうことが窺える。 「セリル、彼はエドガー・ハイネ。私の執事であり、かつては優秀な王宮騎士でもあった人物だ」 「あ、えっと……セリル・グランツです」  オレは丁寧に挨拶をした。対してエドガーはただ軽く頷いただけ。その視線から彼が自分を歓迎していないことは容易に見て取れる。 「エドガーが今後、お前に必要な教育を施す。彼の言うことは私の命令と思ってくれ」  レオン殿下はそう言うと、机に戻った。 「すまない、私はこれから公務がある。詳細はエドガーから聞いてくれ」  そう言って、レオン殿下は書類をまとめると、部屋を出て行ってしまった。 「え? ちょっと待って……」  オレの声は届かなかった。  残されたのは、オレとエドガーの二人。沈黙が流れる。 「……あの、よろしくお願いします?」  オレは気まずく笑みを浮かべた。  エドガーはオレをじっと見つめると、ため息をついた。 「セリル殿。私があなたに教えるべきことは山のようにある。宮廷マナー、貴族の系図、政治的な立ち回り方、そして何より——王子の婚約者としての振る舞い方だ」  その声には、明らかな不満が混じっていた。 「正直に申し上げよう。あなたのような者が王子の伴侶になるなど、私には理解できない。しかし、殿下のご命令は絶対だ」  オレは苦笑した。当然とはいえあまりにも歓迎されてない。 「正直、オレも理解できませんよ。でも、これは『見せかけ』の婚約です。あなたもそれはご存知なんですよね?」  エドガーの表情がわずかに変わった。 「──もちろんだ。だからこそ、あなたの失態で王子に恥をかかせるわけにはいかない」  そう言うと、エドガーはラインハルトの書棚から分厚い本を何冊も取り出し始めた。 「まずは基本的な宮廷作法から始めよう。貴族としての所作、会話の作法、マナー……」  オレの顔から血の気が引いた。勉強? マジで? オレは剣を振るって戦うのは得意だけど、こういう座学は本当に苦手なんだが……。 「ちょ、ちょっと待ってください。オレ、もともと騎士として……」 「あなたはもう騎士ではない。王子様の婚約者だ」  エドガーの厳しい言葉に、オレは何も言い返すことができなかった。

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