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第7話
「あらためて、今の王妃様のお名前とご出身の家は?」
「えっと……イレーネ殿下です。ご出身は北部の名門、ローゼンクランツ家。三代前から王家と婚姻関係を結んでおり……」
オレは必死に記憶を絞り出した。目の前では、エドガーが厳しい視線を向けている。
この五日間、オレは朝から晩まで勉強尽くしだった。で、今は貴族の名前と家系図を叩き込まれいる。正直、もう頭がパンクしそう。
「主要な十二家の当主の名前は?」
またかよ……。オレは内心で溜息をついた。
「ハーヴェイ伯爵、ローゼンクランツ公爵、ミュラー男爵……うーん……」
「続けて」
「ブランシュタイン侯爵、フォルクナー伯爵……」
オレは必死に思い出そうとするけど、残りがどうしても出てこない。ダメだ、全然思い出せない。こういうの本当に苦手なんだよな。
「覚えられないのですか? これは基本中の基本です」
エドガーのため息が重い。
「すみません。オレ、こういうの苦手で……」
オレは肩を落とした。こんなに頑張っているのに、なかなか覚えられないのが悔しい。昔から暗記は苦手だったんだよな。剣の使い方とか、体で覚えることなら得意なのに。
「もう今日はここまでにしましょう。明日また続きをやります」
エドガーは冷たい表情で、分厚い家系図の本を閉じた。その眼差しには明らかな失望が見て取れる。
「マジで終わり? ……助かった、やっと終わったぁ」
オレは首を回しながら伸びをした。エドガーは無表情を保ったまま、厳しい視線を向けてくる。
「貴族の名前一つ覚えられないようでは、パーティで恥をさらすだけです。王子様の評判に関わる問題だということをお忘れなく」
「はいはい、わかってますって」
オレは椅子から立ち上がり、窓際に歩み寄った。王都の美しい景色が広がっている。騎士だった頃は、あの空の下を自由に飛び回っていたのに。この広い部屋は豪華だけど、オレにとっては金ピカの牢獄みたいなもんだ。かなり息苦しい。
ふと思いついて、エドガーに声をかけた。
「あ、そういえばエドガーさん」
「なんでしょう?」
まだエドガーは部屋を出ようとしていない。手元の書類を整理しながら、冷ややかに返事をした。
「レオン殿下、最近お会いしてないんですけど」
パーティの話を聞かされてから、もうかれこれ五日が経つけど、彼とは一度も顔を合わせていない。最初の日に「見せかけの婚約」の話をされて以来、レオン殿下はオレの様子を一度も見に来ていないことになる。
その質問をしたとたん、エドガーの表情がわずかに変化した。
「殿下に会いたいですか?」
その問いかけの口調は、これまでの厳しいものとは明らかに違っていた。少し優しさが混じっている。
「え? いや、そういうわけじゃ……」
オレは慌てて否定したけど、なんか嘘くさい。
「……ただ、婚約者のフリをしてるのに、全然会わないのは変だなーって思って」
これじゃ、本当にただの仕事上の付き合いじゃん。
まあ、そりゃそうなんだけど。そういう面倒なことをしなくていい「見せかけ」の相手として選ばれたのがオレなんだから。当然の扱いとも言える。
でも、正直ちょっと寂しいかも。騎士時代はほぼ毎日顔を合わせていたのに。見せかけとはいえこんなに勉強とか頑張ってるんだから、少しは様子を見に来てくれてもいいとは思うぞ。
「レオン殿下は忙しいんですか?」
エドガーはその質問にわずかに表情を和らげた。
「当然です。殿下は王族としての多くの責務を抱えておられます。特に最近は……」
エドガーは少し言葉を濁した。何か言いづらいことでもあるのか?
「最近は?」
「特に最近は、貴方と婚約されたことで、さらに忙しくなっておられます」
「え、オレのせい?」
オレは思わず声を上げた。
エドガーはため息をついた。厳しい表情に戻りながらも、その声音には不思議と温かみがあった。
「詳しく話すべきかどうか迷いますが……あなたもそろそろ状況を理解しておいた方がいいでしょう」
そう言うと、エドガーは窓際に歩み寄って、王都の景色を眺めながら話し始めた。
「レオンハルト殿下は、今、非常に微妙な立場にあります」
「微妙な立場?」
「はい。ご存知の通り、殿下は第三王子です。本来なら王位継承権は低いはずでした」
オレは頷いた。そりゃそうだろう。王様には三人の息子がいるんだから、三番目の王子が王位を狙うなんて普通はあり得ない。
「しかし、殿下がアルファであること、また軍功があり民からの支持が厚いことから、最近では王位継承争いに巻き込まれています」
「えっ!?」
それは初耳だ。レオン殿下が王位継承争いに? オレの知っている彼は、そんなことほとんど興味なさそうだったのに。
エドガーは険しい表情で続けた。
「第一王子はベータです。第二王子はアルファですが、名声で殿下に劣ります。そのため、宮廷内では複雑な駆け引きが繰り広げられているのです」
なるほど、第二性が王位継承関わっているのか。
思えば、この世界の仕組みってけっこう複雑なんだよな。
500年前に起きた「大変動」という出来事で、人間に「第二性」と呼ばれる特性が現れたんだ。アルファ、ベータ、オメガの三種類。
特にこのエルクレスト王国では第二性が重視されていて、アルファは支配者として、ベータは実務家として、オメガは……まあ、下に見られるというか。特に男性のオメガは珍しいから、オレみたいなのは本当に肩身が狭い。
王族に関しては特にアルファであることが望ましいとされていて、歴代の王はほとんどアルファだった。だからレオン殿下がアルファだというのは、王位継承って部分で考えると、確かに大きいな。
「そんな中で、殿下がオメガの貴方と婚約したことで、状況はさらに複雑になっているのです」
エドガーの言葉に、オレは考え込んだ。そうか、下級貴族で加えてオメガであるオレみたいな奴との婚約は、彼の立場を危うくしかねないのか。
「でも、見せかけの婚約なんですよね? それなら問題ないんじゃ……」
「見せかけであれ、外からはそうは見えません。殿下の婚約者としてのあなたの言動は、すべて殿下の評価に繋がるのです」
エドガーは厳しい口調で言い切った。なるほど。だからエドガーがオレにやたら厳しく礼儀作法を教えているんだな。
「じゃあ、どうして……」
言葉に詰まる。どうして、そんな面倒な時期に、オレみたいな者と婚約したんだろう? いくら見せかけとはいえ、こんな状況で余計な問題を増やすなんて、レオン殿下らしくない。
「……レオン殿下は、どうしてオレなんかと婚約したんでしょうか?」
エドガーはオレの質問に、複雑な表情を浮かべた。そして少し間を置いてから、いつもよりも穏やかな口調で答えた。
「恐らく、貴方に元の騎士に近い立場を用意するためでしょうね。今も貴方を護衛騎士という立場にするため、様々な所にかけあっているところです」
「え……」
エドガーの言葉が予想外過ぎて、オレは言葉を失った。オレを騎士に近い立場にするために、殿下がそんな面倒そうなことをしてくれていたなんて……
エドガーは珍しく真っ直ぐにオレの目を見て、言葉を続けた。
「殿下は『オメガは騎士になれない』という古い規則を変えようと動いています。簡単なことではありませんが、『婚約者の特別な立場』という形で突破口を見いだそうとしているのです」
エドガーの口調はいつもの厳しさが薄れ、どこか感慨深げだった。
「殿下は表情に出さないだけで、情に厚い方です。特に貴方に対しては……」
エドガーは言葉を途中で切った。目が少し細められ、何か言いたいことがあるようだった。でも、すぐに厳格な表情に戻る。
「……まあ、それ以上は殿下ご自身から聞くべきでしょう」
エドガーの言葉の続きは気になったが、それを深追いするのはやめた。レオン殿下が自分のために動いてくれていると知ってしまった以上、オレも頑張らなくては。
「分かりました」
オレは姿勢を正して、決意を新たにした。
「エドガーさん、もう一度教えてください。ちゃんと覚えますから」
エドガーは明らかに驚いたような表情をしたが、すぐに普段の厳格な表情に戻った。
「その姿勢は良いことです。では、もう少し続けましょうか」
エドガーは再び家系図の本を開き、厳しい表情で教え始めた。
でも、その声音がわずかに優しくなった気がするのは、きっとオレの気のせいではないだろう。
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