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第35話

 扉を開くと、そこには予想しなかった光景が広がっていた。 「……え?」  そこは豪奢な調度品が並ぶ宮殿の部屋とは異なり、どこか懐かしい雰囲気の空間が広がっていた。  大きな窓からは暖かな陽光が差し込み、木製の床を柔らかく照らしている。壁は白とベージュの優しい色調で、装飾は控えめながらもセンスの良いものが並んでいる。部屋の中央には丸いテーブルとソファが置かれ、窓際には小さな読書スペースもある。  オレが以前住んでいた騎士団の宿舎を思わせる実用的な家具の数々だ。でも、騎士団宿舎と違って清潔感があり、とても居心地が良さそうだ。 「ここは……」  言葉を探していると、部屋の奥から人影が現れた。——レオン殿下だ。  しかし、目の前に立つ人物が本当にレオン殿下なのか、一瞬疑ってしまった。  いつも見慣れた軍服でも、たまに見かける簡素な普段着でもない。絹のような素材で仕立てられた深い青色の礼服に身を包み、その上から金の刺繍が施された純白のマントが肩から優雅に掛けられている。金髪は普段よりも丁寧に整えられ、普段以上に品のある雰囲気を添えていた。  ……これが、結婚式を控えた王族の正装なのか。 「セリル、おかえり」  久しぶりにレオンの声を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。会いたかった。本当に会いたかった。その気持ちがあふれ出して、言葉が喉につまる。 「あ、その……オレ、戻ってきました……」  なんて間の抜けた台詞だ。もっとかっこよく言いたかったのに、緊張していい言葉が思い浮かばない。  レオンはそんなオレの様子を見て、柔らかな微笑みを浮かべると、すっと近づいてきた。そして、静かにオレのことをぎゅっと抱きしめる。 「会いたかった」  彼の腕の中で、オレは固まってしまった。彼の体温、匂い、心臓の鼓動、すべてが懐かしくて、温かくて。 「会いたかった、セリル」  もう一度繰り返されたその言葉に、オレの固まっていた体の緊張がほどけていく。気づけば、オレも両腕をレオンの背中に回していた。 「……オレも、会いたかったです」  恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながらも、素直な気持ちを伝えた。すると彼の腕に込められる力が少し強くなった気がした。  しばらくの間、オレたちは言葉を交わさず、ただお互いを抱きしめていた。レオンの胸に頬をつけていると、彼の心臓の鼓動が聞こえる。それはオレの鼓動と同じように、早く強く打っていた。  やがて、レオンがゆっくりとオレの体を離した。だけど、完全には手を離さず、オレの肩に置いたままだ。 「あの、レオン殿下……」  一呼吸置いて、オレは周囲を見渡し、疑問を口にした。 「ここって、何の部屋なんですか?」  レオンは周囲を見回しながら答えた。 「私たちの部屋だ」 「オレたちの……部屋?」 「そうだ。私たちがこれから住む部屋として、ここを新しく用意させた。……お前は、前の部屋は豪華すぎて落ち着かないと言っていたからな。もっとお前が居心地良く過ごせる場所を作りたかった」  そんな細かいことまで覚えていてくれたのか。オレがつい漏らしてしまった感想を、レオン殿下はちゃんと心に留めておいてくれたんだ。 「……気に入ったか?」  そっと尋ねてくるレオン殿下の声には、かすかな不安がにじんでいた。どこまでも完璧にこなしていく彼が、こんな表情を見せるなんて。  それだけで、彼がオレと共に過ごす部屋をどれほど大切に思ってくれていたのかが伝わってくる。 「気に入ったも何も、最高じゃないですか! ここなら前の部屋より落ち着いて過ごせそうです。色々と考えてくださってありがとうございます!」 「そうか。……それならば良かった」  レオンの顔に安堵の色が浮かぶ。そんな彼の表情を見るのも、なんだかとても嬉しい。  ——ゴホン。  突然、背後から咳払いの音が聞こえた。振り返ると、エドガーが立っていた。 「!!」  オレは慌ててレオンから離れた。そうだ、エドガーがずっと後ろにいたことをすっかり忘れていた。彼の目の前でこんなイチャついた真似をするなんて……。 「お二人とも仲睦まじいことは結構ですが」  エドガーはいつもの厳格な調子で言った。だが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。 「今は結婚式の準備で時間がありません。とにかく、今はセリル殿のお召し物を変えるところから進めさせていただきます」  レオン殿下は軽く頷いた。 「わかった。頼む」 「それでは失礼します。セリル殿、こちらへどうぞ」  エドガーはオレを促し、部屋の外へと案内し始めた。オレは慌てて彼の後についていく。  エドガーに続いて歩いていると、王宮の別の階へと案内された。 「セリル殿、こちらです」  エドガーが扉を開けると、そこには数人の召使いたちが待機していた。どうやらここは衣装部屋のようだ。部屋の中央にあるマネキンには、目を引く見事な衣装が掛けられている。 「これは……」  オレの言葉が途切れる。それは純白のタキシードだった。しかも、ただの白いタキシードではない。服のあちこちに精巧な刺繍が施され、袖口や襟元にはレースが控えめながらも上品に配置されている。胸元には王家の紋章──王族にしか許されぬその印が、しっかりと縫い込まれていた。 「これを、オレが……着るんですか?」 「はい。レオンハルト殿下ご自身がデザインを監修された特別なお召し物です」  レオン殿下がこの衣装を? 彼がわざわざデザインを監修したと聞くと、ますます特別な衣装に思えてくるから不思議だ。 「でも、その前に」  エドガーが手を叩くと、部屋の奥から別の女性たちが現れた。彼女たちの手には、オレには見慣れないブラシや絵の具のパレットのようなものが握られている。 「化粧係の者たちです。結婚式に向けて、まずはお顔を整えさせていただきます」 「は? 化粧……?」  思わず声が裏返る。 オレは一歩、無意識に後ずさった。化粧なんて、生まれてこのかたしたことがない。 「ち、ちょっと待ってください。オレが化粧なんて……」 「結婚式ですから、化粧は当然していただきます」  化粧係の女性たちが、口を揃えてきっぱりと言い放った。その迫力に、思わず口をつぐむ。有無を言わせない圧を感じる。  諦め半分、戸惑い半分で立ち尽くしていると、一人の女性が椅子を指し示した。……逃げられそうもない。  観念して、オレはそっと腰を下ろした。するとすぐに、彼女たちは手際よく動き始める。   ブラシで頬を撫でられ、何かを肌にのせられていく感触──くすぐったくもあり、不思議な感覚だ。塗られているというより、整えられているって感じか。  初めは緊張して体がこわばっていたが、やがて心地よい手の動きに身を預けるようになっていた。  どれくらい時間が経ったのか、ようやく彼女たちの手が止まった。  そっと差し出された手鏡を受け取り、覗き込む。   映っているのは、確かにオレだ。けれど──いつもより肌がなめらかに見えて、目元が自然に際立っている。不思議と、化粧をしているという違和感はない。 むしろ、少しだけ自分に自信が持てそうな顔になってる感じだ。 「これなら……まあ、悪くない、かも」  ポツリと漏らした言葉に、化粧係の女性たちは顔をほころばせた。 「ご満足いただけてよかったです」  女性たちが笑顔で答える。やはりプロは違うな。男であるオレに合わせた妥協のない技術に感心する。 「では、次はお召し物の着替えです」  エドガーが前に出てきた。 「じ、自分で着替えますよ」 「いえ、この衣装はとても繊細な作りになっております。傷つけないよう、我々がお手伝いします」  オレは最初こそ渋ったものの、その衣装の精巧さを目にして考えを改めた。これだけレースや刺繍が施されていると、うっかり引っ掛けて破ってしまう恐れもある。 「……わかりました。お願いします」  こうして、召使いたちの手によって衣装が一枚一枚丁寧に着せられていく。シャツの生地はオレが今まで触れたどんな布地よりも柔らかく、肌触りが良かった。ベストも、ジャケットも、すべてがピタリとオレの体に合っている。 「完成しました。鏡をご覧ください」  大きな姿見の前に立つと、オレはその姿に息を呑んだ。  鏡に映っているのは、間違いなくオレだ。だが、いつもの粗野な騎士の姿ではなく、まるでどこかの貴族の貴公子のような姿になっていた。真っ白なタキシードは体にぴったり合い、胸元の刺繍が優雅さを強調している。 「うわぁ、オレがオレじゃないみたいだ……」 「お似合いですよ」  エドガーが珍しく笑顔で褒めてくれた。  そのとき、部屋のドアがノックされた。振り返ると、そこにはレオンが立っていた。 「……セリル。よく似合っている」  レオンが一歩近づいて言った。その眼差しに、オレは思わず目を伏せてしまう。 「あ、ありがとうございます。レオン殿下もお似合いですよ。その姿、すごく……」 「レオン、だ」  レオンが言葉を遮った。その表情には何かを訴えるような色があった。 「レオン殿下ではなく、レオンと呼んでほしい」 「あ……」  そういえば、彼はいつかの夜に「レオンと呼んでほしい」と言っていたことを思い出す。今までずっと敬称をつけてたけど、これからオレたちは結婚するんだから、殿下なんて呼び方を続けるわけにはいかない。  オレは内心緊張するのを抑えながら、ゆっくりと彼の名を呼んでみた。 「……レオン」  思い切ってそう呼んだ瞬間、普段はあまり感情を見せることのないレオンの表情が、ふっとほどけた。口元がやわらかく綻び、目元にはあたたかな光が宿る。その瞳が真っすぐオレを見つめて、なんとも幸せそうに微笑んだ。 「セリル」  その表情を見て、オレは思った。  (——ああ、レオンのこんな顔を見られるなら、結婚して良かった) 「さあ、式はこれからだ」  レオンがオレの手を取って言った。彼の手は大きく、しっかりとしていて頼もしい。オレはその手に自分の手を重ね、しっかりと握り返した。 「うん、行こう」  新しい人生の始まりに向けて、レオンと歩き出すオレの心は、不思議なほど穏やかだった。かつての騎士であり、今は王子の伴侶となるオレ。人生がこんな風に変わるなんて想像すらしていなかったけど、この温かな手の感触が、これからの人生も確かなものにしてくれる気がした。

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