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第1話 あの夏のはじまりに、君がいた

 朝の空気には、少しだけ涼しさが混じっていた。  けれど、すでにアスファルトはじんわりと熱を帯び始めている。  兵庫県の西側、山と海に挟まれた小さな地方都市にある遊園地「サンサンパーク」。  電車は一時間に一本、コンビニは駅前にひとつだけ。 でも空は広くて、夜になれば、星が綺麗に見える。  最寄駅からは車で二十分。 市の中心部を流れる川沿いの道を、北へひたすら進んでいく。  やがて看板が見えてきたら、そこから山道をさらに五分——。  そうして辿り着くのが、この町でいちばん賑わう、夏だけの“特別な場所”。  そのぶんアクセスは悪くて、夏季限定バイトの学生たちは、駅前から出るシャトルバスか、保護者の送迎でしか通えない。      バックヤードの裏口から中へ入ると、ひんやりとした空気に包まれる。春川空(はるかわそら)は肩をすくめて軽く息を吐いた。  夏限定のバイトが、今年も始まる。  控室のドアを開けると、すでに数人のバイト仲間が集まっていた。  「お化け屋敷」担当の短期バイトたち。夏だけの仕事だが、顔ぶれはどこか馴染み深い。  空は明るく「おはようございまーす!」と声をかけ、軽く手を振って控室に入った。  「空くん、今年も来たんやな」  「うん、よろしくお願いします!」  去年と同じ顔ぶれとの再会に笑顔を見せながら、空は荷物をいつもの場所に置いた。  壁に立てかけられた台本を手に取り、慣れた手つきでめくる。  同じ景色、同じ夏。だけど、何かが違う気がして、少し落ち着かない。  コン、と控室のドアが鳴る。  ふいに場の空気が変わるのを、空は肌で感じた。  ドアが開き、ひとりの青年が中に入ってくる。  「お疲れ様。今日からお化け屋敷の応援にも入ることになりました。よろしくお願いします」  声は落ち着いていて、どこか低く通る。  振り返った空の目に飛び込んできたのは、見慣れない誰かの姿だった。  髪は整えてあるがどこか自然体で、ゆるく下ろした前髪の奥から覗く瞳が印象的だった。  背が高く、姿勢も崩さず、無駄な動きのない所作。  ひと目で「大人だ」とわかる雰囲気をまとっていた。  ——見たことのない人だった。  空の胸が、わずかにざわついた。  「黒川啓太朗(くろかわけいたろう)です。サンサンパークでは高校の頃から働いていて、今年の夏で六年目になります。ずっとプールの方にいて、お化け屋敷は初めてなんですが、よろしくお願いします」  そう言って軽く頭を下げた彼に、周囲の空気が一気に変わる。  「え、黒川さん?まじ?」  「うわ、久しぶり! てかリーダー来んの?」  「心強いなー!」  周囲の反応を見れば、彼が“ただの新人”ではないことはすぐにわかった。  空だけが、その名前も存在も知らない。  ——黒川啓太朗。  胸の奥が、少しだけ苦しくなった。  息が詰まるような、けれどなぜか、目を逸らせない。  名前も、顔も、声も。初めて出会ったはずなのに、空の心は静かにかき乱されていた。  空は気づかれないように、そっと黒川の姿を横目で追っていた。  周囲は彼の登場に安心したようで、和やかに話が弾んでいる。  けれど、空の中には、どこか取り残されたような気持ちが残っていた。  (……なんやろ。知ってる人やないのに、気になって仕方ない)  黒川は端の椅子に静かに座り、控えめにメンバー表へ目を落としている。  決して怖そうな人ではない。むしろ、話しかけやすいような柔らかさすらある。  なのに、なぜか距離がある……そう感じた。  「今年のお化け屋敷、構成変わってるらしいで」  誰かがそう言って、簡単なミーティングが始まった。  リーダー役の社員がホワイトボードにメモを取りながら、各担当エリアを割り振っていく。  「春川くんは去年と一緒で中盤の驚かせ担当な。あの回転扉のところや」  「了解っす〜!」  空が元気よく返事をしたとき、黒川がちら、とそちらを見た。  ほんの一瞬、目が合った気がした。  (うわ、見てた……!)  心臓が跳ねたような感覚に、空は少しだけ息を呑んだ。  すぐに黒川は視線を戻したけれど、それだけで胸が熱くなる。  「黒川くんは入り口案内と緊急対応。初めてやけど、経験長いし、サポート頼むで」  「はい」  低く、短く返事をするその声も、どこか落ち着いていて耳に残る。  ミーティングは淡々と進んでいった。  空の視線は、どうしても黒川を追ってしまう。  その理由は、まだ自分でもうまく説明できなかった。

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