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第2話 あの夏の始まりに、君がいた
ミーティングが終わったあと、空たちはスタッフTシャツに着替え、スタッフ用の通用口から園内へと歩き出した。
開園前の静かな遊園地。観覧車はまだ止まったままで、風の音と遠くの鳥の声だけが耳に届く。
お化け屋敷は、園内でも一番奥にある。
メリーゴーラウンドやアスレチックゾーン、プールの建物をぐるりと回って、ようやくたどり着く距離だ。
「……お化け屋敷、初めてなんすか?」
ふいに空が口を開いた。横を歩いていた黒川が、少し驚いたように空を見た。
返事はすぐに返ってこなかったが、やがて短く「うん」と頷く。
「そうなんや。てっきり、いろいろ経験済みなんかと思ってました」
「プールがメインやったからなぁ。大きいアトラクションは基本社員さんらが動かしとるし。小さいのは何個か担当したけど、お化け屋敷はやらんかったんよな。中、どうなってるんか楽しみ」
空はちょっとだけ、うれしくなった。
黒川さんも、知らないことがあるんだ。
そんな当たり前のことが、なんだかすごく親近感に変わった。
百八十センチはありそうな長身に、無駄のない姿勢。
髪も整っているのに、どこか自然体で、気取った感じがない。
(都会の人って、こういう雰囲気なんかな……)
そんなことをぼんやり思いながら、空は横顔に目をやる。
黒川が着ると、あの真っ黄色のスタッフTシャツですら不思議とサマになる。
派手な色のはずなのに、浮かない。むしろ馴染んで見える。
制服じゃなくて、誰かが選んだ“私服”みたいな余裕があった。
同じものを着ているのに、まるで違う世界の人みたいだ。
立っているだけで目を引くって、こういう人のことを言うんやろな……と、しみじみ思った。
一方の空は、ちょうど百七十センチ。
背が高いほうでもなく、かといって低いわけでもない。
でも、隣に立つとどうしても“ちっちゃいほう”に見えてしまうのは、
体の線が細いせいもある気がした。
髪は、少しだけ伸ばしはじめたところだった。
今まではずっと短くて、切るたびに「さっぱりしてんな」って言われてたけど……
最近になって、おしゃれとか見た目とか、
そういうのがちょっとだけ気になってきた。
ワックスの使い方も、動画で見ながらなんとか覚えた。
でもやっぱり、うまくキマってるのかは自信がない。
(並んだら、やっぱちっちゃく見えるんかな……)
そう思った自分がなんだかちょっと情けなくて、
空は、小さく笑ってごまかした。
「……春川、って言った?」
ふいに声がした。思わず空がびくっとする。
「う、うん。春川空。みんなそらって呼んでる。から……その黒川さんもそう呼んで」
「空(そら)か。……いい名前やな」
何気ない一言だった。けれど、それだけで。
心臓が、跳ねた。
「……ありがとう。なんか照れる……」
「じゃあ俺のことは啓太朗な」
「いやいや、それは無理っすよ。めっちゃ年上っすよね?」
「大学三年だね。二十一歳」
「めっちゃ大人やん!でも……啓太朗さんって呼んでいいですか?」
「いいよ。ふふ…照れるなぁ」
啓太朗はそれ以上何も言わず、また静かに前を向いて歩いていく。
けれど、そらの胸の奥では、名前を呼ばれた余韻が、ずっと残っていた。
開園の音楽が鳴り、サンサンパークが動き出す。
空も衣装に着替え、お化け屋敷の中盤エリアへと入った。
館内は開園前から薄暗く、空調の音が微かに響いている。
——ああ、この空気、懐かしいな。
薄明かりに照らされた通路。慣れた動線。
それでも、今年は違う。
頭の片隅に、ずっと“黒川啓太朗”の存在が残っていた。
客入りが始まってしばらくすると、小さな子どもを連れた親子が、途中で泣き出してしまった。
「すみません……ちょっと無理みたいで……」
「大丈夫ですよ! すぐに出口案内しますんで!」
そらは慣れた手つきで非常口側へ誘導しようとしたとき——
ちょうど、別ルートから戻ってきた誰かと出くわした。
「……こっちのが近いで」
低くて静かな声。照明の隙間に浮かび上がった、啓太朗の横顔だった。
(えっ……)
一瞬、すれ違うだけの距離。
暗闇の中で、ふいに距離が縮まったその瞬間——
ふわっと、シトラスの香りが鼻をかすめた。
(なに、今の……香水? ……めっちゃいい匂い)
すれ違いざま、ほんの一瞬だけ視線が交差する。
互いに言葉を交わすことはなかった。
けれど、空の鼓動だけが、やけに大きくなっていた。
(なんでやろ。気になって、仕方がない……)
すれ違いざまの香りと視線の余韻を抱えたまま、そらは静かに親子を非常口まで導いた。
バイト終わり、お化け屋敷の控室にメンバーが集まりはじめる。
スタッフTシャツを脱いで私服姿になった男の子たちが、口々に言う。
「今日、みんなで飯行かへん? 歓迎会ってか、決起集会?」
「お化け屋敷組だけで、打ち上げっぽい感じのやつ!」
その場の空気がふわっと盛り上がる中、そらも自然と頷いてた。
初日でまだ緊張は残ってるけど、雰囲気は悪くない。
何より──
あの人のことを、もっと知りたいって思ってた。
「黒川さんも来ますよね?」
誰かが言って、そらもつい期待を込めてそっちを見てしまう。
でも啓太朗は、ゆっくりとタオルを首にかけながら、穏やかな笑みを浮かべて首を横に振った。
「今日はやめとくわ。こっち帰ってきたばっかりやし、ちょっと家族の時間作りたいねん」
「そっかー、残念やけど……しゃーないな!また今度!」
断ったのに、誰もイヤな顔をしない。
むしろ「さすがやな」「大人やな〜」って、ちょっと感心された空気になる。
それがなんだか、ますます遠く感じた。
居酒屋についた頃には、すっかり夜も更けていた。
注文の品がテーブルに並び始め、ジュースのグラスを手にした誰かが話題を変える。
「てかさ、黒川さんって前からあの感じなん?」
「うん、昔っから落ち着いてたよな。高三んときからバイトリーダーやし」
そらの耳が、自然とそっちに傾いた。
「うち、中学一緒やけど、あの人いま東京の大学やで。かなり賢いとこ。ちなみに高校は西校!つまり、市内トップの秀才ってことよ」
「ガチの天才やん」
「なんか家もすごいらしいで。地主とかで、土地いっぱい持ってるって」
「お兄さんがめっちゃ優秀で、大手ゼネコンに就職したとか……」
「でも黒川さんは、あんまそういうの気にせん感じよな。すごい人やのに、変に偉そうにせぇへんし」
「モテそうやなあ…」
ポロッと誰かが漏らして、別の子が笑いながら言い返す。
「実際モテとるわ!バイトの子に告白されとったし、お客さんに声かけられたって聞いたことあるもん」
「え、マジで?それでどうしたん?」
「全部、やんわり断ってるらしいで。きれいな断り方するってさ」
──やんわり、か。
そらはグラスの氷をじっと見ながら、その言葉を繰り返した。
初日でちょっと話しただけなのに、
その人のことばっかり気になってる自分が、ちょっと恥ずかしい。
でも、気になって仕方ないのは事実で。
(……なんやろ、俺)
なんとなく、胸の奥がざわつく。
そのとき、横から肘で軽くつつかれる。
「そらぁー?おまえ、今日めっちゃ見てたやろ」
「へっ? な、なにを?」
「ごまかすなって。黒川さんのこと」
そう言って、にやっと笑ったのは、涼だった。
幼なじみって、なんだかんだで全部バレる。
何を考えてるか、口にしなくてもだいたい察されるし、どこでごまかそうとしてるかも、すぐに見抜かれる。
涼は、家が近くて幼稚園から高校まで全て一緒だ。
だから、そらの“嘘の顔”にも“本音の沈黙”にも、もう何十回も付き合ってきた相手だった。
だから、こういうときに隠すのは無理。
バレて当然。ツッコまれてなんぼ。
でも一応ごまかしてみる……
「……いや、見てへんし」
「うっそやん。そらの“気になってます顔”、小学生のころから見飽きてるわ」
そらは思わずグラスを両手で持ち直し、ちょっとだけうつむいた。
涼がからかうように笑いながらも、どこか優しい声で言う。
「まあ、でもわかるで。たしかに黒川さんはカッコええ。なんか大人って感じやし」
「……うん」
「でもな、モテる人がみんな手ぇ届かんわけちゃうし。それに、おまえ、昔から好きな物には一直線やん?それ、俺ちょっと好きやで」
「何その言い方、きもっ!」
「うるさいわ。おまえがその気なら応援したるーゆうてんのに。お前に浮ついた話がなかったんはそーゆーことやってんなぁ。ま、地元の女はみんな気ぃ強いしなぁ。そらくんは、優しい歳上男子が好みでしたか」
「りょう……色々ツッコミたいけど……とりあえずそれ、地元の女全員敵に回したで……」
「いやいや、愛ゆえのツッコミやん。ご近所さん全員に土下座しとくわ」
涼はそう言って、からから笑った。
からかいながらも、どこか“ちゃんと見てくれてる”感じがする。
それがちょっとだけ、くすぐったいような、うれしいような。
涼の言葉が、そらの胸の中でほんの少し熱を持った。
──きっと、まだ始まったばかりだ。
それでも、こんなふうに気持ちが動くのって、
思ってたよりずっと、まぶしい。
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