53 / 60
第53話 そして、夏は君と始まる
歩き出してすぐ、啓太朗がふいに口を開く。
「次会えるのは……夏休みやな。きっと。
サンサンパークのバイトの時かな」
「そうっすね。でも……俺、受験なんで、多分去年みたいには入れないっす」
「いいよ、俺がそらに会いに行く。
勉強の邪魔はせん程度に……今年の夏はたくさん会お」
横顔のまま、啓太朗が少し笑って続けた。
「まだちょっと昼は難しいけどな。夜、いろんなとこ行こうか」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……はい」
短く返事をしながら、視界が少し滲んだ。
(……楽しみやけど、次会えるのは夏休みか……)
現実味を帯びたその距離が、ほんの少し切なかった。
駅前のロータリーに近づくと、改札口から漏れるアナウンスが耳に入ってくる。
スーツ姿の会社員や、買い物袋を提げた人たちが行き交い、足音と話し声が混ざり合う。
さっきまでの柔らかい時間が、少しずつ現実の喧騒に溶けていくのを感じた。
「長いっすね……夏休みまで……」
「うん……そやな………」
言葉と一緒に、頭をぽんぽんと撫でられる。
その手の温もりに、少しだけ目の奥が熱くなる。
「俺はめっちゃ楽しみにしとるよ。今年の夏は、きっといつもと違うやろから」
その声を胸にしまい込むようにして、そらは改札を通った。
振り返ると、啓太朗はまだその場に立って、手を軽く上げて見送ってくれていた。
ホームに降り立つと、胸の奥にぐっと熱いものがこみ上げてくる。
視界が滲みそうになり、そらは唇をきゅっと結んで必死にこらえた。
そのとき、ポケットの中でスマホが小さく震える。
画面を覗くと、そこには短く――「勉強、頑張れ」の文字。
たったそれだけなのに、押し込めていた感情がほどけて、涙がぽろりと落ちた。
ホームに響くアナウンスが「まもなく電車が参ります」と告げる。
そらは涙を拭い、深く息を吸った。
そして、もう一度前を向く。
「……よし、頑張ろう」
小さくつぶやいた声は、胸の奥で確かに力を持って響いた。
蝉の声が降りそそぐ、夏真っ盛りの午後。
控え室の扉を開けた瞬間、むっとする熱気と、漂う汗と香水の混ざった匂いが押し寄せる。
中では、いつもと変わらないメンバーが揃っていた。
ソファや椅子、ロッカーの前に腰を下ろし、
Tシャツの裾をつまんで汗ばむ肌に風を送り込み、
喉を冷たい水で満たす音があちこちで響く。
笑い声や冗談が交じり合い、
控え室は、夏の午後そのものを閉じ込めたかのように、
熱とざわめきで揺れていた。
その賑わいの中で、ひときわ目を引く影があった。
ドアを押し開けて入ってきたのは、啓太朗だった。
Tシャツに細身のジーンズという何気ない格好なのに、
どこか都会の風を連れてきたような洗練がある。
視線の先、そらの目がぱちりと見開かれた。
啓太朗もすぐにそれに気づき、
口もとにゆるやかな笑みを浮かべる。
「……久しぶり」
その一言は、笑い声や喧騒よりも真っ直ぐに、
そらの胸に届いた。
たったそれだけの言葉なのに、ずっと胸の奥で固まっていた何かが、一気に溶けていく。
あの日の駅のホームでこぼれた涙も、夜の帰り道に飲み込んだ寂しさも、
今、この笑顔で全部、報われた気がした。
――今年の夏は、去年と違う。
きっと、また忘れられない夏になる。
fin……
ともだちにシェアしよう!

