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第55話  Forever, You【SS】side~keitarou

初めて会ったあの日。 控え室に、一際幼くて元気な子がいた。 名前は――春川空。 春の川に、空。 「名は体を表す」ということわざがあるけれど、そらはまさにそのとおりだった。 桜が満開の河川敷で、お花見客が水色の空を仰ぎ、 桜のピンクとの対比に心を和ませる。 そらという存在は、そんな光景に似ている。 見ているだけで、胸の奥がやわらかく満たされていった。 それに比べて、黒川なんて名前はどうだ。 俺の心はまるで濁流――濁って荒れ狂い、今にも氾濫しそうで。 やはり、ことわざは侮れない。 シフトが重なるたび、小さく喜ぶ自分がいた。 ――あれは、きっと一目惚れだったのだと思う。 背伸びしておしゃれをしている姿。 全力でゾンビ役に打ち込む姿。 誰にでも分け隔てなく優しいところ。 笑うと右の八重歯がのぞいて、ますます幼く見えるところ。 挙げだすとキリがない。 そらに惹かれていく理由は、山ほどあった。 けれど――一番心を掴まれたのは、 自分にだけ向けられる表情だった。 伏し目がちで、声のトーンがわずかに落ちて。 うっすら頬を赤らめるその姿は、他の誰と話すときとも違っていた。 ……多分、自分に好意を持ってくれている。 そう思わずにはいられなかった。 可愛い。どうしようもなく、ひたすらに。 回を重ねるごとに、その想いは膨れ上がっていく。 抑えようとしても、もう止められない。 気づけば、そらを独り占めしたい衝動ばかりが募っていった。    「俺、啓太朗さんのこと……めっちゃ好きです」 波の音が、そらの声の余韻をさらうように静かに広がっていく。 「初めて会ったときから、ずっと、気になってて……なんかもう、これって、たぶん――初恋やなって思ってます」 夜景を見に行ったときに言われた、そらからの告白の言葉。 どうしてこんなに、まっすぐなんだろう。 そらに真剣に想われるなんて、どれだけ幸せなんだろう…… こんなに眩しくて、キラキラしたものに――本当に自分が触れていいのだろうか。 手を伸ばしたその瞬間、 ふいに脳裏に浮かんだのは父の顔だった。 まるで「お前には触れる資格なんてない」 と告げるように。 婿養子だった父は、母以上に世間体に厳しかった。 学校の成績はもちろん、習い事や友人関係にまで口を出してきた。 「みっともないことはするな」 「恥ずかしいことはするな」 「家にも他人にも迷惑をかけるな」 これが父の口癖だった。 四つ上の兄は極めて優秀だった。 あの時代錯誤な父でさえも、 文句のつけようがないほど品行方正で、 勉強にも運動にも長けていた。 そのおかげで、多少出来が悪くとも、俺はあまり口を出されずにすんでいた。 状況が変わったのは、 兄が東京の大学へ進学してからだ。 いつも盾になってくれていた兄がいなくなり、 父の矛先は俺へと向き始めた。 ――ちょうどその頃、恋人になったばかりのクラスメイトと部活帰り、一緒に下校していた。 初めて自分から好きになった子だったから、 天にも昇る思いで舞い上がっていた。 四月の午後七時ごろ。 あたりはもう薄暗く、 すれ違う人の顔も判別できない。 周囲に人影もない。 「今しかない」――そう思って、 勇気を振り絞って手を伸ばした。 一瞬、相手は驚いたように目を見開いたが、 すぐに笑顔になり、肩を寄せてくれた。 恋人になって初めてのミッション。 「手をつなぐ」を達成できた俺は、 ただただ幸せで……。 この後、自分に降りかかる出来事など、これっぽっちも想像していなかった。

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