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 生前、異世界転生に対して強い憧れを持っていたのは覚えている。  もしも生まれ変われるのなら、来世はモテモテのイケメンになりたい。俺以外の全ての男性が滅亡している世界に行きたい。世の中全ての女性は俺のことが大好きで、年がら年中俺を求めてくれれば良い。一本しかない俺のペニスを求めて皆が寄ってくれば良い。俺のペニスが世界の中心となれば良い。そうして築いたハーレムの頂点で世界の全てを淫らに抱く、幸せな主人公になってみたい――……。  そんな妄想を密かに描く、清楚な童貞であったことを覚えている。  自分の死因は覚えていない。おそらく、今の俺が放り込まれたこの物語において、その情報は必要ないものなのだろう。重要なのは、『現代日本で童貞のまま死亡した男』という俺の前世と、『現代日本ではなさそうな場所に気付いたら俺は立っていた』という今の状況だ。死因など、童貞をこじらせたという事にでもしておけば良い。  つまり俺は、満を持して異世界転生を達成したのだ。  見たこともない色の葉や実をつけた木々が生い茂る森の中に佇みながら、俺は己の奥底から込み上げる歓びに震えた。  ついに来たのだ。俺の時代だ。俺がこの世の主人公だ。  興奮しながら目線を下げれば、スラッと伸びた両脚が見える。なんと長い脚なのだろう。この脚ならばきっと服屋さんでズボンを買っても裾上げなんて頼む必要がないだろう。むしろ裾が足りないかもしれない。困ったものだ。  ニヤける頬に手を添えると。柔らかく滑らかな感触が頬と手の両方を驚かせた。何事かと思い目の前に手をかざすと、透き通るように白いきめ細やかな肌を持ち、貝細工のように整った爪を先端に飾った細長い十本の指を携えた麗しい諸手がそこに見えた。  大変だ。どうにも俺は美しすぎるらしい。前世の俺の容姿がどのような物であったかは記憶にないが、己の脚の長さと手指の美しさを目にしただけでこんなにも気分が高揚しているということから、何となく察する事が出来る。今はもう、服屋さんでズボンを買ったら必ず裾上げを頼まねばならなかったのであろう前世の俺ではなくなったのだ。この世界の主人公として美しい容姿を手に入れた俺は、早くヒロインを探しに行きたいという気持ちと、俺という男がどれほどの美青年に生まれ変わったのか鏡を見て確認したいという気持ちとで、今にも駆けだしてしまいたいほどにはしゃいでいた。  この世界には何人のヒロインが俺を待っているのだろう。全てのヒロインと仲良くなりたい。ヒロインだけでなく、男友達も欲しい。俺のようなイケメンは、きっと老若男女全てに受け入れて貰えるだろう。  はしゃぐ心は期待に弾み、気付けば俺は鼻歌交じりに歩き出していた。自分がどこに向かっているか分からないが、どこへ向かおうとも世界は俺を歓迎してくれるに違いないという果てしない自信が一歩一歩に満ち満ちていた。たとえ森に住まう獣が飛び出して来ようとも、イケメンだから大丈夫という根拠のない安心感を抱いていた。クマだろうとイノシシだろうと、俺は全てを魅了できるに違いない。なぜなら俺はイケメンであり、この世界の主人公なのだから。  フンフンと歌いながら機嫌良く歩いていた俺は、周囲の景色を眺めながら(どうやらここは魔法の世界らしい)と徐々に自身の置かれた環境を把握しつつあった。  俺の鼻歌に合わせるようにさわさわと楽し気に枝葉を揺らす木々。絵本の世界でしか見た事のないような鮮やかで可愛らしいキノコ達。花びらの全てが炎や氷で構成されている花々に、玉虫色に煌めく水面を揺らす泉。天を仰げば箒に跨った人間達が飛んでいる姿が遠くの空に小さく見える。  魔法少女。素敵な四文字が頭の中に花火のように打ちあがる。  幾人もの魔法少女が俺を取り合う物語。魔法使いではないただの人間である俺を彼女たちは珍しがり、色々と体を調べられてしまうかもしれない。実験と称して良からぬイタズラをしようとしてくるかもしれない。俺はそんな彼女らに対して最初は少々戸惑いながらも徐々に親交を深めていき、やがて熱い恋が始まる。俺は彼女らを抱き寄せながら、優しく甘く皆に囁く。  君達に魔法をかけてあげるよ、俺の魔法のステッキでね――……。  ――生前の俺はなかなか気持ち悪い奴だったらしい。  うっとりとした気持ちで繰り広げていた想像の落ち所があまりにも酷い下ネタだった事に動揺した俺は我に返って立ち止まった。いくらイケメンでも、言って良い事と悪い事がある。魔法少女を口説くための台詞としてこれほどまでに最悪を極めた言葉を容易く想像する俺は、もしかすると童貞をこじらせて死んだというのもあながち嘘ではないのかもしれない。  俺は異世界転生をしたのだ。この世界の主人公なのだ。言葉に気を付けろ。童貞をしまえ。  そう厳しく自身を叱咤しながらキリリと姿勢を正して再び歩き出した俺は、ふと己の向かう先に小さな村の存在を見つけてアッと喜びの声を上げた。  あそこが俺の向かうべき場所だ。あそこから俺の物語は始まる。明るい未来の幕開けの気配に俺の心は踊り出し、自然と歩みも早まって行く。  早くこの世界を味わいたい。早く世界にチヤホヤされたい。  素直な欲求に背中を押されて足早に道を行く俺は、村の前を流れる川にかけられた橋の上で一度立ち止まって深呼吸をした。  はしゃぎすぎた心を落ち着かせ、しっかりと気持ちを引き締める。イケメンなので大丈夫だとは思うが、それでも第一印象は大事だろう。ニヤニヤとだらしなく緩んだ表情をリセットし、美しい顔立ちをより一層麗しく見せる表情を作っておきたい。  橋の下を緩やかに流れる川の水面は艶々と光を反射しており、覗き込めば鏡の代わりに用いる事が出来そうだった。俺は一つ咳払いをして、出来る限り凛々しく、そして涼し気な表情を作りつつそっと川を覗き込んだ。  ――俺は、大きな思い違いをしていた。  異世界転生を果たして別人に変身した俺が、己の肉体として視認していたのは、脚と手指だけだった。それらが全てスラリと長く美しい形を成していたため、未だ視認していない全ての箇所も自分が想像している通りに漏れなく美しい物だと錯覚したのだ。  それは都合の良い思い込みであり、簡単に言えば、早とちりであった。  想像し得る最も美麗なイケメンの顔を川の水面に探した俺は、どこにもそれが見つからない事に動揺した。覗き込んだ川の中で俺と目線を合せていたのは、いかにも根暗そうな男だった。病的に白く、眼の下に隈を作った男が、じっと俺を見つめていた。  水中に住まう魔物がこちらを見ているのかもしれないという可能性も考えたが、俺がニッコリと笑って見せれば根暗そうな男も同時に笑い、俺がおどけた表情を見せれば根暗そうな男も同時にふざけだすので、残念ながら水面に映る彼の姿は魔物ではなく、どうあがいても俺らしいと認めざるを得なかった。  俺はイケメンではなかった。  それは異世界転生に浮かれて心を躍らせていた俺にとって、あまりにも残酷な事実だった。イケメン主人公が美少女を侍らせてハーレムを作る、という俺の理想の異世界生活は開始を待たずして頓挫した。なぜなら、俺がイケメンではなかったからだ。  あまりのショックで川に落ちそうになりながらもなんとか踏みとどまり、橋の欄干に縋りながら目を閉じる。  俺はイケメンではなかった。ここが俺を主人公としたハーレム世界だというのも、俺の思い違いかもしれない。期待を打ち砕かれた俺は、既にこの世界の事がどうでも良くなっていた。  たぶん俺は、吸血鬼か何かだろう。顔色も悪かったし、目つきも悪かった。目の下の隈もすごかったし、最初に見た時は美しく思えた脚や手指も細長すぎて吸血鬼っぽい。  なーんだ、吸血鬼か。あーあ。思ったのと違うなあ。  がっくりと肩を落としながら再び目を開け、念のためにもう一度川の水面を覗き込む。しかしやはりそこに映るのはイケメンではなく、しょんぼりとした吸血鬼男の顔であり、俺は更にがっくりと落ち込んだ。  ここは魔法少女とのハーレムを築くための世界ではなかったのかもしれない。いや、そもそも俺がこの世界の主人公だというのも勘違いであったかもしれない。むしろ俺は、この世界においては悪役ポジションなのかもしれない。俺がこの村に辿りついたのは、つまり俺は吸血鬼としてこの村の人々を襲撃すべき役割を持っているのかもしれない。きっとそうだ。きっとそうに違いない。  ――正直に言えば、俺は自暴自棄になっていた。どうやら自分は敵キャラのようなので村を襲撃しよう、などという凶暴的な発想に至ったのも、完全に個人的なやつあたりだった。  欄干に縋りながらがっかりとしていた俺は立ち上がり、ゆっくりと村に向かって歩き出した。  願わくば、この世界の主人公が可愛い魔法少女でありますように。悪い吸血鬼である俺を、可愛く退治しに来てくれますように。  そう祈りながら村に一歩足を踏み入れた俺は、「いらっしゃい、お兄さん。旅の人かい?」とにこやかに声を掛けてきた青年に素早く飛び付き、一切の躊躇を見せることなくガブリと首筋に噛み付いた。  アアッと青年が驚きの声を上げる。周囲にいた他の村人達も驚き、バケモノでも見るような目で俺を見つめる。  ああ、そうだ。俺はバケモノだ。俺は吸血鬼だ。  俺は周囲の人々を威圧するつもりでニヤリと笑い、驚きに硬直する他の村人達に次々と飛びかかっては全員の首をガブガブと噛んだ。 「何をするんだ! 落ち着きなさい! アアッ!」 「やめてよお兄さん! アアッ!」 「なんのつもりだい! アアッ!」 「アアッ!」 「アアッ!」  俺に噛まれた村人達が、一人、また一人と悲鳴を上げてその場に倒れる。吸血鬼になったのは初めてなので、やり方が合っているのかは分からない。ただ、吸血鬼と言えば人間の首のあたりを噛んでニヤニヤしているイメージがあったので、俺は自分の想像する吸血鬼像に倣う形でせっせと村人の首を噛んではニヤニヤと笑って全力で吸血鬼らしくした。  吸血鬼として頑張りながら、俺は少々物足りなさを感じていた。  魔法少女に退治されたかった俺は、悪い吸血鬼を倒してくれそうな女性の姿を探していた。しかし現れる村人たちは皆男性ばかりであり、どこにも女性の姿が見えないのだ。俺は悪い吸血鬼なので遠慮なく民家にも突撃してみたが、屋内にいる村人も屋外にいる村人も、全員漏れなく成人男性ばかりだった。  女子供のいない村。力なく倒れる男性たちの無数の肉体が村中に転がる光景を前に、俺は不安になりつつあった。  何かがおかしい。漠然とした違和感。暴走した吸血鬼の急襲を受けて陥落した村人達を呆然と眺めていた俺は、背後に忍び寄る男の気配に気付く事が出来なかった。 「こらっ! くらえっ!」 「えっ?」  死屍累々の光景を前に立ち尽くしていた俺は、不意に後ろから大声で威嚇されて訳も分からず振り返った。するとその瞬間、顔面にバシャリと冷水を掛けられた。  頭を冷やすという行為は、本当に人間を冷静にさせるものらしい。暴走吸血鬼と化していた俺は急に人間としての理性を取り戻し、自身が犯してしまった罪を省みてガタガタと恐怖に震えた。  大量虐殺を働いてしまった。あろうことか、何も悪い事をしていない村人たちを殺してしまった。いや、俺は吸血鬼としての職務を果たそうとしただけだ。しかし、その動機は不純以外の何物でもない。率直に言えば、ヤケクソというものだ。自分が理想としていたハーレムの世界じゃなさそうだったから、こんな世界はどうでも良いと思ったのだ。だから俺はこの世界に牙を剥いたのだ。それが俺の役目だと信じようとしたのだ。そして俺は、見ず知らずの村人たちを無差別に全てこの手にかけてしまったのだ。吸血鬼として、俺は村を襲撃したのだ。  俺に冷水をかけた男は、ガタガタと震える俺を見て少々困惑しているようだった。 「水、そんなに冷たかったか? ヤカン一杯分くらいしか出てないし、川の水より少しぬるいくらいの温度だと思うんだけど……」  男は恐る恐るといった態度で俺にタオルを差し出してきた。俺が人を襲う気力を失っている事を察したのか、徐々に近くに寄って来る。俺はありがたくタオルを受け取り顔を拭きつつ、「大変な事をしてしまった」と素直に後悔の念を述べた。 「謝って許される事じゃない。こんな事をするべきじゃなかった。俺は吸血鬼だけど、別に血に飢えていた訳でもないんだ。突発的な犯行だ。通り魔のような物だ。じきに俺はこの世界に断罪されるだろう。それまでどうか、俺をどこかに閉じ込めて置いてくれないか。俺はもう、この世界で何かをしようとは思わない。処されるのを待つだけだ。ただ、もしもそれまでに吸血鬼としての本能に目覚め、新たな殺戮を働いてしまっては堪った物ではない。君達にもう危害を加えるつもりはない。どうか俺を拘束して、閉じ込めて置いてくれないか」  タオルに顔を埋めて懺悔する。俺は吸血鬼であり、村で暴れて悪い事をした。後はもう、ただただ退治される運命だ。勧善懲罰の世界であれば、それが筋だ。ヒール役が活躍する物語である可能性も存在するかもしれないが、しかし俺は、もう懲り懲りだ。どうにも俺は、誰かを傷付ける役には向いていないらしい。悪役としての務めはこれが限界だ。俺はもう、ここまでだ。  肩を落とす俺の頭上からバシャリと冷水が掛けられる。せっかく顔を拭かせてもらったタオルごと再び顔も頭もびしょ濡れになり、驚いて目の前の男を見ると、男は怪訝そうな顔でじっと俺を観察していた。 「何言ってんだよ。お前が吸血鬼だって? 変な魔法でも受けたのか?」 「俺は吸血鬼だよ。ほら、よく見ろよ。どう見ても吸血鬼だろ。こんなに顔色が悪くて、目の隈だってこんなにすごいぞ。背も高いし、手足も長いし、指だってこんなに長い」 「顔色が悪くて、寝不足で、背が高くて手足が長くて指も長いだけだろ」  言い返す言葉がなかった。俺は動揺しながら、他に自分が吸血鬼である証拠を探して懸命に周囲を見回した。 「もしもお前が吸血鬼だったとして、どうしてこんな白昼堂々平気で外を歩いてんだよ。吸血鬼は太陽光を浴びたら消滅するんだぞ」 「えっ? ……じゃあ俺、吸血鬼じゃないのか?」 「こっちが逆に聞きたいよ。なんでお前は自分を吸血鬼だと思ってたんだよ」  仕方ないじゃないか。だって俺は、異世界転生をしてきたんだ。生まれて初めての異世界なんだ。現実世界から突然こんな魔法の世界に飛ばされて、いきなりファンタジーの世界の住人になったんだ。そして見た目が吸血鬼っぽかったのだ。自分を吸血鬼だと誤解したって、それは仕方ない事じゃないか。  ――なんて言い訳をした所で、目の前の男が納得する訳もない。ますますおかしな奴だと思われ、呆れられるばかりだろう。  俺は気まずさに目を泳がせ、そしてハッとして男に向き合った。 「じゃあ、俺に血を吸われて死んだ人たちはどうなるんだよ。俺が吸血鬼だっていう証拠になるんじゃないのか?」 「お前、血を吸ったのか?」 「いや、よく考えたら噛んだだけだな……血が出るほど強くも噛んでないし……でも、じゃあどうして軽く噛んだだけで皆死んだんだよ? 俺が吸血鬼だからじゃないのか?」  男は肩をすくめた。自分がおかしな事ばかり言っているのだろうなという後ろめたさに怯みながらも、俺は負けじと『俺吸血鬼説』を提唱し続けようとした。 「お前は吸血鬼じゃないよ」  俺吸血鬼説は一瞬にして打ち砕かれた。  男が「よく見ろよ」と倒れた村人たちに目線を向ける。それに倣って俺も男の目線を追うと、倒れた村人達は微かにその体を動かしており、しばらくすると一人、また一人と立ち上がり始めていた。 「誰も死んでないよ。お前は吸血鬼じゃないからな」 「でも、でも、ちょっと噛まれたくらいであんなにバタバタ皆倒れるなんて普通じゃないだろ? この村の人たちは首が弱点なのか?」 「ああ、お前がやった事は普通じゃないよ。お前はたしかに大変な事をしてくれたよ。なんでよりによって首を狙ったかなあ……」 「だって、吸血鬼は首を噛むから……俺もそうした方が良いかと思って……」  首を噛むのは良くない事だったのだろうか。まあ、良くない事だろう。何か正当な理由があるならまだしも、俺は無差別に人の首に食らいついたのだ。現代日本だろうが異世界だろうが、唐突に無差別に周囲の人間に噛み付く行為が善行である訳がない。それは当然の事だろうが、無差別に人に噛み付いた行為そのものよりも、噛み付いた箇所が首であったという事が特に問題だったらしい。  男は気まずそうに俺を見て、「たぶん、お前は知らなかったんだろうけど」と前置きをしてからこう言った。 「お前は今、この村に住む全ての人間を娶ったんだ」

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