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 場所を変えよう、と立ち上がった男に連れられ、俺は彼の住む家へと移動した。  温かな湯気が立ち上るマグカップを渡され、テーブルにつく。良い香りのするハーブティーをすすりながら、俺は先程男から言われた言葉の意味を飲み込めないままずっと咀嚼し続けていた。俺がこの村に住む全ての人間を娶ったとは、つまりはどういう事なのだろうか。  娶る。めとる。メトル。  もしかすると、その言葉には俺の知っている意味とは異なる別の意味があるのではないかという期待に縋ろうとする俺の思考の悪あがきを、男は即座に「首を噛むという行為は、相手を自分の妻にするという意味があるんだ」と容赦なく切り捨てた。  村中の全ての人間を娶る。それは俺がこの世界に転生を果たした頃に、何も知らずに無邪気な気持ちで抱いていた『ハーレムを築く』という野望を叶える行為であった。  野望は果たされた。ハーレムは築かれた。しかし俺は、この現状を少しも喜ばしく思えなかった。  見境なく俺が噛みまくった村人たちは、漏れなく成人男性であった。意図せず村中の男性を妻にしてしまったのだ。俺は動揺し、男に訊ねた。 「それは、無かった事にはならないのか?」 「なんて事を言うんだ。ああ、いや、知らなかったんだもんな。仕方ないか。お前はよそから来た旅人だから、何も悪気はなかったんだもんな」  男はずっと動揺していた。無理もないだろう。突如村が訳の分からない俺という人間に襲撃され、いきなり全員が俺の妻になったのだ。男は大いに動揺していたし、俺も大いに動揺していた。 「結論から言うと、無かった事にはならない。俺達は一生に一度だけ、運命の番と結ばれる種族なんだ。この人に付き従って生きて行こう、と思える相手に出会ったら、自らの首を差し出す。そして首を噛まれたら、その相手に心身を捧げて番となるんだ」 「そういう設定の世界だったんだな」 「何言ってんだ?」 「気にしないでくれ、ひとりごとだ」  オメガバース。俺は男の説明を受けてこの世界の根幹にある設定の名を即座に導き出す事が出来た。  ただ、それほど俺はその世界観について知識がある訳ではなかった。アルファと呼ばれる立場の人間がオメガと呼ばれる立場の人間の首を噛むと番になる、エロ要素が多い設定。  この世界は、そんなオメガバースの世界らしい。 「つまりは、この村に住む人たちは全員オメガで、俺はアルファって事か」 「俺達がオメガ? そんな呼び名は初めて聞いたが、お前の故郷では俺達の事をオメガと呼ぶのか? アルファってのがお前の名前なのか?」  なるほど、この世界にはさほど厳密なオメガバースの設定はないようだ。首を噛むという行為が番を成す儀式であるという、ただそれだけの設定を都合良く採用した世界らしい。 「俺はトーゴだ。アルファ、お前に悪気がなかったのは分かっている。だが、お前のおかげでこの村は少々ヤバい事になってしまった」 「全員が俺の妻になったんだろ? ヤバい事って何だ? 皆が俺を取り合ってケンカになるとか?」 「それは問題ない。俺達は身内同士での争いはしない。アルファの妻たちは譲り合いながら仲良くアルファをシェアする事になる」  いつの間にか彼の中で俺の名前はアルファで確定したらしい。名乗るべき名前を持っていなかったので、勝手に呼び名を見つけてくれたのは助かる。  アルファと呼んでくれるのは全く構わないが、しかし『俺の妻たちが仲良く俺をシェアする』というのはどういう事か。開け広げた大袋のスナック菓子のように扱われる光景を想像して怖気が走る。 「この村は、食人文化があるのか?」 「そういう事じゃない。性的な意味に決まってるだろ。なんだよお前、童貞か?」  恐る恐る訊ねる俺に対して、トーゴは至極真面目な顔で『仲良くシェア』という言葉が持つ意味が食欲的な物ではなく性欲的な意味である事を教えてくれると同時に、俺が最も触れてほしくない箇所へと唐突にナイフを突き立ててきた。  童貞か、という問いに対する答えはイエスだ。ただし、即座に童貞を認められるほどに俺は素直な男ではなかった。なにせ、童貞をこじらせて死んだ男だ。死ぬほどコンプレックスなのだ。  童貞だが、童貞であると認めたくない。俺はそれほど深刻な童貞なのだ。  口ごもる俺に対してトーゴが苦笑する。 「――なんてな。言わなくても見れば分かるよ」  言うまでもなく童貞。初見で童貞を見抜かれた俺はなけなしのプライドを破壊され、何も言えずに硬直した。  しかしトーゴはそんな俺の反応を見て笑いながら、「言われなくても、お前が童貞じゃない事は分かる」と言葉を続けた。 「えっ? なんで? なんでそう思うんだ?」  お前は童貞じゃない、と言われた俺は今まで以上に動揺し、声を裏返らせながらトーゴに訊ねた。  そんな事を言われるのは初めてだった。なぜなら俺は童貞だからだ。童貞ではないと思われるのは、こんなにも気分が良い事なのか。いったい何がトーゴにそんな誤解を抱かせたのか、ここは是非とも聞いておきたかった。 「だってアルファ、少しも魔力がないじゃないか。童貞を捨てたから魔力を失ったんだろう? 魔力と引き換えに童貞を捨てるだなんて、随分思い切った事をしたよな。魔力を持たない人間なんて、久々に見たよ。ちなみに俺達は全員童貞だよ」  なるほど。つまりこの世界は少々のオメガバースに加え、童貞を失うと同時に魔力も失われるという設定もあるらしい。  俺が素直に認められなかった『童貞』という現実を何の躊躇もなくサラッと言ってのけるトーゴを前に、俺は完全敗北を喫した。  俺は魔法使いではない童貞であり、トーゴは魔法使いである童貞。俺は童貞を恥じる童貞であり、トーゴは童貞を恥じていない童貞。童貞に優劣があるかどうかなど今まで考えた事がなかったが、間違いなくこの場においてトーゴは優れた童貞であり、俺は劣った童貞だった。  トーゴから聞いた話によると、ここは強力な魔力を持つ選ばれし魔法使いたちの住む村らしい。この世界は魔王の攻撃を受けており、そしてこの村は魔王の侵略を防ぐための最後の砦であるらしい。魔法使いたちは童貞を失うと魔力を失ってしまうので、魔王との戦闘のためにも己の貞操を守っている。そのため、この村には女性がおらず、男性だけの集落を築いているのだそうだ。  俺はマグカップの中に残った冷めたハーブティーを眺めながら、得られた情報を懸命に頭の中で整理していた。  この村は、世界を守るために己の童貞を守って生きてきたストイックな男たちが住まう村だ。そんな村人達は、己を吸血鬼であると誤認した俺の襲撃によってトーゴを除いた全員が俺の妻となってしまった。  そんな俺の妻たちは、これから仲良く性的に俺をシェアする関係になるらしい。己の童貞を守る村人たちが俺をシェアするという事はつまり、全員が俺のペニスを仲良くシェアするという事だ。各々の童貞を守りながら性的欲求を解消するため、全員が俺に尻を差し出して来るという事だ。  なぜなら村人たちは魔法使いであり、俺は魔法使いではないから。魔法使いではない俺は、この世界の人から見ると童貞ではない希少な男、つまり性行為に使用しても問題がない希少なペニスを持つ男という認識になるから。  懸命に情報を整理した俺は、必死に頭を悩ませて様々な可能性を考慮し、一つの答えに行きついた。どうあがいても、その答えにしか行きつかなかった。  この世界は、俺が総攻めとして君臨する、ハーレム物のボーイズラブの世界だ。  俺は頭を抱えた。異世界転生に対していて抱いていた願望が、部分的に叶った。ただ、理想の叶い方ではない。俺は可愛い女の子たちにチヤホヤされたかったのだ。世界を救うために戦っている勇敢な童貞たちにペニスを提供したい訳ではないのだ。  オメガバースの設定を部分的に拝借した世界。魔王と戦う戦士たちであるはずなのに、ひょっこりと迷い込んだ俺ごときの襲撃によりあっけなく全滅する魔法使いたち。訳も分からず突然大量の配偶者を得る俺。一人も女性がいない世界。  ――なんとデタラメな世界なのだ。そしておそらく、俺はこの世界の主人公だ。 「大丈夫かアルファ、顔色が悪いぞ。少し横になるか?」  トーゴが心配そうに俺の顔を覗き込む。デタラメな世界の中で向けられた善意に俺は少々安心し、好意に甘えて彼のベッドに横になる。受け入れがたい現実が押し寄せ、俺の思考は混乱していた。全く無垢な童貞にとって、総攻めハーレム異世界ボーイズラブはあまりにも難易度が高いのではないか。  クラクラとする頭をそっと枕へと沈めた俺に、トーゴが穏やかな微笑みを向ける。 「少しは落ち着けそうか?」 「ああ、ありがとう。悪いな、トーゴ。いきなりお前の村をめちゃくちゃにした挙句、こんなに世話を焼かせちまって」 「良いんだ。気にするな。今はゆっくり休んでくれ」  家の外では何人もの男のざわめきが聞こえる。顔も名前も知らないが、彼らは全員俺の妻だ。トーゴの家に俺がいる事を知っていて、一斉にここに押し寄せてきた新妻たちだ。  外にいる男たちの気配に怯える俺に気付き、トーゴは先程俺が使っていたマグカップへと温かなハーブティーを注いでベッドの脇の小机の上にそっと置いた。  混濁する思考の奥で、俺の本能がアアッと焦燥した悲鳴を上げる。じんじんと熱くなる体。  ――しまった、と思う頃には手遅れだった。  俺は見知らぬ土地に住む初対面の魔法使いから与えられたハーブティーを、少しも警戒することなく軽率に口にしてしまった己の油断を後悔した。毒ではなさそうだが、催淫剤か精力剤か、このハーブティーには何らかの作用があるらしい。 「ほら、お茶のおかわりを召し上がれ、アルファ。これから大変だろうから、今はゆっくり体を休めろよ。村の皆がお前を待ってるからな」  善良な顔でトーゴが笑う。そこに悪意は少しもない。デタラメな世界の主人公を、物語の中へと誘う案内人なのだ。彼の役割はそれなのだ。俺が主人公であるのと同時に、トーゴは俺を世界へ誘う重要な役を担っているのだ。  村人たちのために屹立した竿を準備しようとするトーゴの微笑みを受けながら、俺は己の思考を放棄し、あきらめの笑みを彼へと向けた。  ええいままよ。好きにしてくれ。俺はこの世界の主人公だ。  世界の全てを受け入れながら、肉体の熱に意識を溶かす。  いったい何が入っているのか、トーゴの配合したハーブティーは俺の心身を見事なまでに火照らせた。その効力は、あまりにも強い物だった。おそらく、トーゴはこのお茶がここまで俺に効くとは思っていなかっただろう。  俺を非童貞だと思っているトーゴのお茶は、童貞にはあまりにも強すぎた。 「アルファ?」  トーゴの声が遠く聞こえる。俺はあきらめの笑みのまま、溶けた意識を手離した。

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