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第25話-4 炎上

―― ―― ―― 事務所の社長室には春、春のマネージャーである松永春香(まつながはるか)、そして事務所社長である霧峰志子(きりみねゆきこ)がいた。 霧峰はデスクの椅子に腰掛け、デスクに置かれたパソコンからアップされた記事を確認している。その表情はいつもと変わらず、何も言わずにただ画面に目線をやっている。 ソファに座る春はただじっと俯いて黙っている。 松永は携帯ですでに大きな騒動となって盛り上がりを見せるSNSのタイムラインをスクロールし、大きく息を吐き、携帯を閉じてテーブルに置いた。 霧峰がデスクから立ち上がり、春の向かい、松永の隣に腰掛けた。 そうして口を開いた。 「記事は読んだ?」 春はふっと視線をあげ、はい、と静かに答えた。 「全て事実?」 「……大体は」 「そう」 ふっと松永に視線をやり、霧峰は続けて尋ねた。 「あなたは知ってたの?」 「……はい」 「監督不行き届きなんじゃないの?」 「………申し訳ありません」 そうして視線を春に戻し、霧峰は口調を変えずに言った。 「これからどうするつもり?」 春はじっと霧峰を見て、何も答えない。 霧峰は言った。 「あなたが必死に作り上げてきた壱川春っていうブランドを、あなた自身の行動で壊したっていうのは分かる?」 「………はい」 「反省しなさい」 春はその言葉に、ふっと視線を落とし、俯いた。 そうして小さく消え入りそうな声で、ごめんなさい、と言った。 すると霧峰が、ふふ、と突然笑った。 松永はそれに、驚いたような顔で霧峰に視線をやる。 霧峰は微笑んだまま、どうすっかなぁ〜、と突然砕けた様子で話し出した。 「どうする?春はどうしたい?」 春は表情は変えないが、霧峰に目をやり、ただ固まって見つめている。 霧峰は続けた。 「真剣に付き合ってるんでしょう?」 春はしばらく黙り込んだ後、言った。 「……僕は…そうです」 「僕は、って?相手はそうじゃないと思うの?」 春は黙って俯いた。 霧峰はそんな春をじっと見つめ、そうして少し間を置いてから言った。 「少なくとも記事読んだ限りは、相手もちゃんとあなたのこと思ってるように思えるけど」 なんだっけ、花束だっけ、あれいい曲よね、と続けて霧峰は言った。 「あなたに書いた歌なんでしょう?」 春は目を伏せたまま、その言葉に何度も瞬きをした。 しかし黙ったまま、何も返事をしない。 しばらくの沈黙の後、春がやっと口を開いた。 「……相手が……変なふうに言われるのが嫌です」 「変なふうって?」 「……男と…付き合ってるとか」 「それが何?それが変なことだっていうこと?」 「………気持ち悪いとか…そういうふうに…」 「でも事実でしょ?実際に付き合ってるんだったら」 「…………元々…相手はそうじゃないから」 「それでも今は…あなたと付き合ってるんでしょう?」 春は顔をあげ、震える声で言った。 「どうしたら…どうしたら…… この記事が……嘘だって…思ってもらえますか」 霧峰は春の必死な表情を見て一瞬黙り込み、そして息を吐いて静かに言い放った。 「無理よ」 その言葉に、春はそっと目線を落とした。 霧峰は続けて淡々と言った。 「一回立った噂は簡単には消えない 違いますよって言ったって、そうなんだって素直にそれを信じてくれる人なんて誰もいないわ」 「あなたがもし、今後女の人と付き合って結婚して子供を産んだとしても、この記事を一度信じた人の中には、それでもあなたを同性愛者だと決めつける人はいるわよ ああ、あの人男が好きなのに無理して結婚したんだな、子供が可哀想だな、って」 「それは今瀬くんも同じよ 今瀬くんがそうじゃなかったとしても、あなたと付き合ってたってみんな思ってるから、同性愛者だと一度思ったんだから 今後一生、そう思われるわよ」 「春」 霧峰の口調が厳しいものへと変わった。 「あなたは、同性愛者であることを、今瀬くんを好きになったことを、恥ずべき事だと思ってるの?」 じっと固まって黙り込んでいる春に、霧峰は続けて言った。 「今瀬くんもそう思ってると思うの? あなたを好きになって、あなたと一緒になって、 それが恥ずかしいことだと思ってると思うの?」 「彼は堂々と言ったんでしょう? 周りとは違うかもしれないけど好きだと思ってる、って。 あなたのその態度は、 彼を傷つけるんじゃないの?」 「そばにいる人1人を幸せにできなくて、 これからあなたに何が出来るの?」 そう言って霧峰は立ち上がり、そっと春の隣に腰掛けた。 そうしてこれまでの厳しい口調からいっぺん、語りかけるように優しく言った。 「誠実に、真摯でいなさい  目の前のファンに、メンバーに、スタッフに、彼に それから、自分に」 春はそれに、表情を崩した。 苦しそうな表情で、吐き出すように言った。 「どうすればいいか…分かりません」 霧峰はふっと笑い、言った。 「これまで通りやるだけよ 今まで通り、"壱川春"を演じなさい こんな噂が立ってることなんて、世間の声なんてちっともあなたの耳に入ってないんだって思わせてあげなさい 心配なんてさせてあげてはダメよ 生きている世界が違うって、そう思わせなさい あなたは"壱川春"なんだから」 「たかが恋愛沙汰でいなくなるスポンサーもファンもあなたにはいらない」 今瀬くんにもね、と霧峰は笑って言った。 「"壱川春"として生きていく覚悟は、もうとっくに決めたはずでしょう? しゃんとしなさい やり切りなさい」 そうして立ち上がり、霧峰はデスクに向かい、置いていた携帯を取り、誰かに電話をかけ始めた。 そうして電話を耳に当てながら、春に言った。 「彼に対してどうするかは、あなたが自分で考えなさい でも…大切なものは、ちゃんと大切にしなさい あなたはタレントである前に、人間なんだから ちゃんと人生を生きなさい」 そうして電話口の相手に霧峰は軽快に話し出し、部屋を出て行った。 松永は春の表情をそっと確かめるように見つめた。 ただ目を伏せて、春は黙り込んでいた。 もっと厳しく管理すべきだった、と松永は思った。 あの日だって――神社に行きたいと言った日だって、そんなのだめだと制して、すぐに家に連れ帰るべきだった。 でも松永にはそれが出来なかった。 秋と出会い、柔らかく変わっていく春のその様を、松永はどこか嬉しく思っていたのだ。 ピンと張り詰めて孤独に生きていた春が、ただ1人心を許して頼れる存在。 マネージャーとしてではなく、春のそばにいた1人の人間として、松永は春にそんな存在が出来たことが心から嬉しかった。 そして同時に深く安心した。 いつか壊れてしまうんじゃないか。 そんな不安が常にあった。 人々の求める"壱川春"を何年も演じ続け、何もかもを犠牲にして生きてきた春の些細な希望を叶えてやりたかった。 ただ好きな人と一緒に過ごしたい。 その思いを、願いを、跳ね除けることは、松永には出来なかった。 でも、結果的にこんな顔をさせてしまうのなら――。 松永はそんな思いの狭間で揺れ動いていた。 電話を終え、霧峰が部屋に戻ってきた。 「松永」 はい、と松永は咄嗟に返事をして立ち上がった。 霧峰が言った。 「ホテル、とりあえず2週間取って 春、しばらくそこから通いなさい」 それに春は、はい、と静かに頷いた。

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