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第30話-9 初めての相手
「…やめとけば良かった
春何回も止めてくれたもんね
"これ以上踏み込むのはやめよう"って
……そうしてたらさ、こんなどうしようもないことで悩んでさ、こんな思いすることなかったのに
やめとけば良かった、あの時、春にそう言われた時に、そうだね、やめとこうって…」
そうして再び歩き出した秋の背後から、春が言った。
「…今辞めれば」
秋は思わず立ち止まり、振り返る。
振り返った先、立ち尽くした春の表情は、ひどく冷たく見えた。
何も読み取れないほど、ただ何の感情も映さないよう、制御されているようだった。
秋は尋ねる。
「……別れるってこと?」
「……まだ遅くないと思うよ」
春は続けて言った。
「…ちょうどいいんじゃない
ドラマのことでSNSで言われてるでしょ
"フェイクだったんじゃない"って」
「…俺らのこと?」
「うん」
「…そういうの見るんだ」
「……SNSで言われてることの話がしたいって言ってなかったっけ」
「……だから見たの?」
「……秋も"普通の人"でいられると思うよ 僕や僕の事務所にフェイクのために利用されただけなんだってみんなそう思ってくれると思うよ」
春はそう言って、その場から歩きだした。
そうしてソファに置いたままにしてあったコートを羽織り、カバンを手にして廊下へと歩きだした。
廊下に立ち尽くした秋を見ることなくすり抜け、玄関へ向かう。
「…どこ行くの?」
春はその質問には答えず、靴を履きながら背中越しに言った。
「……この家は霧峰さんの契約で事務所の持ち物だから」
「…え?」
「……申し訳ないけど、秋に出てもらわないといけないかな」
そうしてやっと振り返って顔を見せた春のその表情は、この状況とはまるで似つかない表情だった。
それは、いつも春が表で見せる、"壱川春"の顔、わずかに口角をあげ、微笑みを浮かべたものだった。
「都合がついたらでいいから 急いでないから」
秋は思わず震える声で言う。
「……待ってよ」
春は表情も声色も変えず、言った。
「まだ何かあった?」
「……まだ終わってないでしょ?」
春はそうしてふっと優しく微笑んで、言った。
「これでおしまいにしよう」
そう言って春はそのまま、表情を崩すことなく静かに家を出て行った。
秋は思わずその場にへたり込んだ。
涙すら出ることもなく、ただ秋はその場に座り込んだまま、ただ震える息を吐き続けることしか出来なかった。
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