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第5幕 章、哲学する

考えが書いても書いてもまとまらない。この感覚、なんて久しぶりだろう。 あの夜からずっと狂ったように小説を書いている。するっと一万字は書けるが、自分の頭の中はぐちゃぐちゃのままだからやっぱり話のていを成さない。それでも気持ちよくて仕方ない。これはきっと答えのある問いだ。そしてその答えに辿り着くことが出来れば、答えを僕が知ることが出来れば、物理的な累との接合が行われていないにも関わらず、世界がひっくり返るような衝撃が待っている。 痛いのに苦しいのに楽しい。探求として、自身の考えを形にするために小説を書くのは学生以来かもしれない。これは全部最初からどこにも見せない誰にも読ませない文章と決めつけていたら、驚くほど書けた。知りたい。知りたい。知りたい。 性的合意とはなにか。自身の概念的な破瓜。セックスとはなにか。僕はなぜ、セックスを試みたのか。あの日僕は何を得たのか。 僕はまず、累と触れ合うことで自身の所謂初体験、と呼ぶべきかもわからない出来事が社会的によろしくないものであることを理解した。暴力は暴力だったのだろう。自身がなぜトラウマを負ったのかも理解した。あの日僕が同意したのはあくまで「創作のための刺激を受けること」であり、自分の家に突然見知らぬ誰かをずかずか入り込ませた挙句オメガとして暴力を振るわれる事ではなかったのだ。自身の過失割合は十ではなく、奴の加害性による関与が少なくともあったわけだ。 そして仮説通り、累がしたかったのはそれではなかった。累の勃起したペニスは熱かったが、その熱は僕自身への破壊衝動ではなかったのだ。それを累が証明してみせた。そして、苦しんで耐えながらも僕なんかを最後まで気遣い続けられてしまった累のことを、僕は恐らくきっとたぶん、既に好ましく思っているらしい。 なんなら、累はずっと前からそうだったらしい。 しかし累はここ数日、僕がしゃぶったり、舐めたりといったことを試みると露骨に止めてくるくせ、僕が性的でない接触を試みると喜ぶのだ。これは一体なんだ。僕は累に何を求められているのかが、ずっと一切不明で未定義なままだ。ごまかされている。非常に納得いかない。 累は僕とセックスをしたいのは確かなはずである。つまりは、僕が、なにかセックスという段階に進むにあたってまだ達成していない項目があるのかもしれない。仮説。僕の未達成事項について、何か立てる必要がある。 「累」 「どーしたよ章」 累の部屋にノックもせずに入り込むと、累はまだ昼だというのに化粧の真っ最中だった。ああ、同伴ってのがある日か。 「図書館に行く」 「……おう。分かった。行っといで、なにすんの」 「セックスについて調べる」 累のアイラインがガクンと心電図みたいに揺れた。こうなったらどうやってやり直しするのだろう。少々アバンギャルドなメイクと言い張ることもホストなら可能では。 僕の思考を他所に、累は顔を顰めながら綿棒を取り出していた。無色透明のクレヨンのようなもので心電図をなぞった後、ゆっくり拭うとラインが取れていく。 「分かった、けど、それ人に聞くなよ」 「うん」 「あの、な、恥ずかしいからな、二十七で他所でセックスセックス言うのは」 「それぐらい分かっている」 「一人で大丈夫か?もし帰れねぇってなったらちゃんと電話してくれていいから。こっちの仕事なんてどうにでもなるからな」 「うん」 もうここからは心配しかされないと判断して、僕は累の部屋のドアを閉めた。扉の向こうからスマホ持ったか?!と怒鳴られたので、持った!と大声で返した。久しぶりに大きい声を出した。 タワーマンションの過剰なセキュリティの外はうんざりするほど晴れていた。自分の意思で、正気の時に、そして外が明るいうちに外に出たのは久しぶりだ。太陽すら僕をじりじり査定しているようで、どくどくと心臓が跳ねた。スウェットのポケットに突っ込んだスマホを弄り回しながら俯いて歩く。 スマホには防犯ブザーの紐がついている。見た目こそ普通のアンドロイドだが、実態は小学生用の玩具のような携帯電話だ。僕は累にインターネットを遮断されていた。それには納得している。僕はインターネット、特にSNSに死ぬほど向いていない自覚がある。 しばらく歩いているとやや汗が滲み息が切れたが、平日昼間は人通りも少なく、なんとかパニック発作を起こさずに移動出来た。本来はバスを利用した方が良い距離であることは頭で分かっていたが、まだ公共交通機関のような閉鎖空間は怖い。コンビニの自動ドアが開いたその時、なんだか急に社会に戻ってきたような気がした。累の庇護下という高層階の揺籃から、やっと本当の意味で出てきたような。 僕は酒とカッターではなく、文庫本と同じサイズの小さいノートとボールペンを買った。カバンもなにも持っていないので、それを剥き出しのまま持ち区立図書館に歩みを進める。店員の軽薄な声でさえ、なにかしらの実績解除のような気がした。 図書館の奥には、記憶の中の書店と同じように第二次性別についての特設コーナーがあった。埃っぽい独特の匂いを吸い込みながら、よろよろと本棚の前でしゃがみ込む。 『人間発達と性:第二次性別に関する基礎知識』 『セカンダリー・ジェンダーとは何か:生物と社会の交差点』 『「ふつうのセックス」ってなんですか?:二次性別時代の性教育』 目眩がする。うんざりしながらも一冊手に取り、ぱらぱらと導入や文体を見ては小脇に抱えたり戻したりを繰り返した。 あの頃────丁度僕がこれを知るべきだったはずの、ティーンエイジャーの頃。第二性がオメガであると発覚した十六歳前後、僕はなぜ自身の性別について学ばなかったのか。 僕が選択的に学ばなかった。病院で貰ったパンフレットも捨てた。累がいたからだ。そういうの、俺らには関係ないよな。お前がオメガとかアルファとか興味無いし、章は章だ……とか、そういったことを言っていたし、僕も同じ意見だった。累がアルファだとか、僕も興味がなかった。ただの身体の機能の違いで、累と僕の関係になんら支障はないと思っていた。「そんなこと」に思い悩むヒマなんて、若く才能溢れる僕らには無いんだと本気で信じていたのだ。 無敵だった。そうだ、僕は累をあの時から愛していた。それはどんな性も関係なく、累という、自分には眩しい程に才気溢れ輝く男の生を愛していたのだ。 ……ならなぜ、僕はこんなことになってしまったんだ。 第二次性別について広く浅く知見を得た後、オメガの身体について調べた。僕は栄養失調で発情期を失ったことに対してどこか安心さえしていたが、今の僕はオメガ男性として明らかに異常で機能不全だった。例えばこの前、上手く累とセックスに至ることができたとしても、機能的に失敗した、つまり濡れなかった可能性が高いことを改めて認識した。ベータ男性に比べ直腸挿入で快楽を得やすいという話はどうやら眉唾らしく、そちらについても検討の余地があるだろう。一度席につき、ノートに箇条書きで改善すべきことと試してみることを書き出していく。 というかそもそもセックスのやり方始め方誘い方がわからないな。繁殖以外のセックスを僕たちがなぜ必要としているのかもわからない。 がたんと立ち上がり、また僕は本棚に向かう。しばらく彷徨い、パソコンで本棚の位置をああでもないこうでもないと探し、社会学の棚の前でまたしばらくうろうろした。 『交わりの哲学:繁殖を越えたセックスの意味論』 『接触論〜愛撫文化史〜』 『セックスのきほん したい人もしない人も読む本』 『セックスの哲学:人間と性の本質』 『性的親密性とは何か──セックスにおける感情と言語』 閲覧席の机に山のように本を積み上げ、地道に片っ端から読んでいく。首を傾げ、目を細め、食い入るように、全身緊張して力んで読み進める。累の話が書いてある。なるほど、累は僕に触れたかったのか。彼は非言語的コミュニケーションを僕より非常に得意としている。なるほど累にとってのセックスは、僕へのコミュニケーションを試みていたわけだ。僕がやってしまったことはコミュニケーション不全である。なるほど。 『体位は言語:体で伝えるセックス・コミュニケーション』 この本がいちばん気に入って、わかりやすかった。会話と同じで僕から吹っかけることもでき、受け手である僕が主導権を握るということも可能という知見を得た。夢にも思わなかった。 つまり、つまり僕は。ノートの上をペン先がグルグルと回る。つまり僕は、ずっと累を分かりたいのだ。累の何を分かりたい?分からないこと全て。例えば、累は僕をどう思っているかということ?違う、多分僕は僕自身のことも分かりたいのだ。 ペンが止まる。ひとつの結論にたどり着く。僕はなぜ、ここまでセックスに固執していたのか。 僕は、累と肉体によって非言語的コミュニケーションを取りたかったのだろう。何故か?何故なら、書けないからだ。書けなかったのは口を塞がれているのと同じだ。この数年間ずっと口を塞いでいた僕は、累と別の手段で交信しようとしてセックスを試みていた可能性がある。どうやらそれだ。 ならば全てよし。僕はノートのタスクリストをよく見直し、修正と追記を繰り返し、気が済んだ段階でノートを閉じた。久しぶりの思考にだるく重たくなった身体で、なんとか机に積んでいたほとんど全ての本を棚に戻した。『体位は言語:体で伝えるセックス・コミュニケーション』は借りることにした。利用者カードを作成して貸出手続きを行ってくれた職員は女性だったが、僕は一切気に留めなかった。これは知的探求である。 しかし本を剥き出しで持ち帰ろうとしたところ、職員から恐る恐る不織布のかばんの貸し出しを提案された。そう言われた途端、急に僕の死にかけの羞恥心が蘇り、突然周りの目線が突き刺さる。僕はそうだ、二十七だが、見た目はそれ以上に歳のいった男だ。性行為について僕が極めて知的な探求を行っていることも、オメガであるということも、外見で分からない。今の行為は女性職員に対するセクシュアルハラスメントと言えるかもしれない。挙動不審になって、視界は揺らめく。僕はバッグの貸し出しを受け、逃げるように図書館を後にした。 ああ、そうだ、きっと僕は、セックスを試みる男に見られていたのだ!間違っていると言いきれないのが惜しい。僕が抱いているのは劣情ではないと言い切りたいところだが、完全に否定することもできないのが問題をややこしくする。僕は獣ではない!僕のような見目のよくない男でも、オメガの処女というだけで襲うような獣とは違う。違うと思いたい。僕は累を征服したい訳では無い、累を下賎の男に貶しめたい訳でもないのに!思考がぐちゃぐちゃに絡まっていく。息を切らして、幾年ぶりか分からないが外を走った。日はもう沈み切る間際で、新宿はもう夜を始めた。累の時間が始まる。僕は早く帰らないと。 でも。突然立ち止まって、思考に集中した。僕は、累に触れられることが不快ではない。むしろあの夜以降は快の方へ傾いていただろう。累の肉体は美しく好ましい。指先と、造られてから美しく時を重ねたバイオリンのような乾いた低い響きの声と、熱を帯びた眼差し。なによりもあの堪らなく僕を惹きつける芳香。僕は累に触れられたい。僕は、累に、僕は。 僕は累に肯定され、累を受け止めたいのだ。 オートロックの番号をド忘れして暫し苦戦したが、なんとか家に帰り着く。累のぴかぴかの革靴は玄関にない。草臥れたスリッポンを脱ぎ捨てて、誰もいないのに隠すように本を抱いて自室に飛び込んだ。

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