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第4幕 非言語コミュニケーション初級
十九時、章はぺたりぺたりと素足の音を鳴らして自らダイニングのソファにやってきた。いつも通り人間の身体を操作するのは初めてですといった具合で覚束無い。
「章、夜ご飯食べられる?蕎麦」
「蕎麦なら……」
やっぱりぺち、ぺち、と音を鳴らしてカウンターキッチン前の椅子に着く。小さいクッションが結びついている方が章。尻の骨が痛むそうだから。
湯気を上げる温かい蕎麦を章の前に置く。章は行儀よく俺が俺の分まで運び終わるのを待って、俺が箸を持つのを待った。
「……いただきます」
か細い声と、静かにぺちりと両手を合わせる音。
「い、いただきます」
慌てて俺も箸を持ったまま手を合わせる。そういえば、こうやってしっかり向き合って食事らしい食事を摂るのはいつぶりだっけ。
章の節くれ立つ指が器用に箸を持つ。麺を掴み、息をふきかけ、啜る。啜りきれずちまちまと咀嚼する。麦茶を少し飲む。章が食事を摂っている。
かわいい。
ふと動きが止まっていた自分に気がついて急いで掻き込む。なんかほんとにダセぇ。今の俺。
章はこちらに関心も向けずただ黙々と麺と格闘していた。それも愛おしかった。
「……ごちそうさまでした」
「お、おそまつさまでした」
俺が挙動不審になって言う。章の目元がふ、と和らいだ。食器を片すのを手伝おうとする章を止める。食べたあと章はすぐ動けない。
章はやわく膨れた腹を少しだけさすった。子供用サイズと見紛う量でも、そんなにたくさん食べたのは久しぶりすぎた。ゆっくりとしているのかしていないのか曖昧な瞬きをする。事前に並べておいた食後の薬を一粒ずつ飲んで、此方に目を向けてきた。
「累、風呂さ」
「……うん」
「一緒に入ってみようか、僕が真面な時に」
「!?…………う、うん」
箸を取り落としそうになった。危なかった。
「〜〜であるから、僕は僕の身体にある傷を汚いし醜いものだと思っているよ。けれど物語の人々や他者の傷痕にどうこう言うつもりはなくて、それで」
「あ〜〜〜わかった、わかったよ章。大丈夫だから、恥ずかしくないから」
もう脱衣所に服を着たまま二十分話し続けていた。要するに章は素面で傷まみれの裸を明るいところで晒すのが急に恥ずかしくなったのだ。章の長話は遮っていい時と遮らない方がいい時があるが、今のは遮って過回転する脳みそを止めてやるべきだった。
「累、でも僕は君が僕の身体を見て醜いと思う権利を阻もうとはしないさ。だから別に今だって介護の延長で、いざそうなったら好きなタイプの女のことでも考えてくれればよくて、」
「止まれ〜〜ッ!!!大丈夫だから、恥ずかしいのは分かった。でも俺は章を傷含めて抱ける自信がある、俺はお前のそういうとこがすきだから。分かる?」
くたびれたスウェットの肩を揺さぶる。大声と過回転と物理的にとで脳みそがシェイクされた章は一瞬目が回って、そして正常に稼働開始し、俺に「抱ける」と言われたことでもう一回転した。
そうしているうちにスウェットを脱がしてやり、自分も脱ぎ、下着一枚になる。章の紺色のくたびれたトランクス───あの家からの唯一の持ち物───に手を掛けようとしたのを、章は静止した。
「……それは」
章は黙って先に入るよう言った。俺は手を繋いで行くつもりだった。
釈然としないままシャワーを浴び、全身を洗ってしまう。まだ章は来ない。髪を洗う。章は来ない。童貞みたいにいろいろと念入りに洗う。章は来ない。ヘアクリップで髪を留め、さりげなく磨りガラス越しに章のシルエットを見遣る。
彼は両手で胸を抑えて、大きく深呼吸して、すっと下着を脱ぎ、大きく振りかぶりどこかへ投げた。どういう感情なんだ、あとで拾ってあげないと。ダンダン!と荒っぽいノックの音に、シャワーを止めて内側から扉を開く。
章が自分の意思で風呂に入ったのは、そういえばこの家に連れてきてから今日が初めてだった。
ひた、と踏み出した痩せ細る足はこの前から爪が全部剥がれている。出血は止まっているものの痛々しかった。足首の平行に細かく刻まれた白と茶の傷痕、内腿に行くにつれ赤く太いケロイドが乱雑に踊る傷痕。深く傷付けた結果だった。新旧問わず痣だらけの下腹部、重なるようにして昨日一昨日のだろう切り傷。ひどく引っ掻いた跡の残る胸元、腕は平行な傷もめちゃくちゃな傷もひしめいて、皮膚が引き攣れとケロイドを繰り返して何歳の肌なのかもはや分からない。細い首に未だ残る自殺未遂の痕、色素沈着。そして、うつくしくこわばった愛おしく純朴で、疲れきって、そして頬を染めた章の顔。
「……おまたせしました」
章はか細く呟いて、湯気の中にゆらりと立った。両の拳を握り目をそらす彼はなによりも、愛おしいと思った。
「章」
そっと近づく。片手を取って、あたたかいシャワーをかけながら指を一本一本解きほぐした。生傷がないことを確認して腕に湯をかけ、首から下を丁寧に洗い流す。性的な色を出さないように、ただただいつものように。下半身に触れないように。章もいつものように従順で力無く身を任せた。椅子に座らせ、俺が背後に回り髪を洗ってやろうとした所だった。
微かに章が震えている。
「るい……」
章は顔を静かに覆って、肩越しに俺を見た。僅かな隙間から覗く夜の目。それがひとつ瞬きし終わる前に、俺は肩に手を添え、ゆっくりと撫でる。章は不器用に俺の綺麗に深爪にした小指をつまんで、爪先を指の腹で撫でて、ふう、と息を吐いた。上を向き俺の顔を見た。さかさまの笑ってるんだか泣きそうなんだかぐちゃぐちゃな章の顔はやっぱり愛しかった。
頬を撫でて、瞼に触れて、優しく髪を洗った。きしむ傷んだ髪に俺の使っているトリートメントを塗った。四方八方に伸び放題の髪は確か、オメガと明かしてしまったあのインタビュー、こざっぱりと短く刈られていた短髪の時点からずっと放りっぱなしだった。
浴槽に向き合って浸かる。章はそわそわと俺を見たり、目を逸らしたり、手をもちょもちょと動かしたりしている。濁った湯の中からではなく、湯船の縁からそっと腕を伸ばす。伸びてきた腕にびくり、と震え強ばる章の輪郭をなぞった。
「章、今日全部最後までやらなきゃって、そういう訳じゃないからな」
「……うん……」
「俺は、章に痛いことしないし、無理も言わない」
「……うん、わかっているともさ、僕はほんと、申し訳ない、んだよ、いろいろと」
「全部、全部いい。大丈夫だから。章はさ……なんで、しようって、思ったの」
「……んん……なんで、うん、なんでといったら、うん、すごく累に失礼かも」
「いいよ、言ってみろ」
「仮説と検証なんだよ。累はたぶん、僕が知っているセックスとは……なんていうか、違うセックスをする男なんだろうと、そう思ったわけだ」
「……そっか。ありがと。なんかさ……章は、別にセックスしたいんじゃないんだろ、きっと。分かってる。俺も、うまくやれなかったら、ごめん」
「おまえなら、どうせ、失敗したとしても大丈夫だ」
章は僅かに自らを触る手に頬を預けた。自分で大丈夫だと吐き捨てたくせに、疑うようにじっと俺を見て、大きく深呼吸した。のぼせそうになったのか、ざぱと音を立て章は勝手に湯船を出ていく。タオルの置き場所も知らない章を追い掛けるように俺も湯船を出た。
よく洗濯したバスローブを着た章は後ろから見れば背の高い女に見えないこともなかった。びしょびしょの髪のまますたすた歩いていくのですぐさま追いかけると、勝手に冷蔵庫のエナジードリンクを流れるような手つきでイッキしていた。こら。
「章、焦んな」
「焦ってるわけじゃあないッ」
「うんうんわかった。髪乾かすぜ風邪ひくから、おなかちゃぽちゃぽだろゆっくり歩くぞ、」
慌てて言い連ね背中を撫でる俺を、章はぐっと顔を近づけ凝視した。けぷ、と甘たるい人工甘味料の息を吐き、いつもへの字を描く唇が意地悪そうに笑った。
「流石のルイ様が少しは緊張していらっしゃる」
気づくの今かよ。
「俺が?ははぁ、バレたか……章に、そんだけ、マジなの。わかる?」
「わかりかねるよ」
「わかりかねるのか」
「累のことはわかりかねるよ、ずっと」
章はまた小さくけぷ、と息を吐いていた。
人の怒声に程近いドライヤーの音に、章は耳栓をして耐える。ずっと使い捨ての耳栓を用意していたものの、完全に乾き切るまで耐えられたのは今日が初めてだった。頭を撫でる。
「……先に部屋行ってるのと、俺と一緒に行くのどっちがいい?」
「おまえのことみてるね」
「……おう」
俺の長い髪を乾かし切るまで、章は抱えた両膝の上に顎を乗せじっとこちらを見ていた。重みのある睫毛が時折風に揺れる。
かちり、ドライヤーのスイッチを着ると章はとてとてと歩きゴミ箱に耳栓を捨てた。えらい。
丁寧にブラシで髪を梳く姿を章は微妙に離れた所から突っ立って見ていた。俺が立ち上がると彼は小さくびくりと跳ね、そしてまたぼうっと突っ立った。
「章」
向かい合ってそっと頬を撫でる。章は強ばった顔のままでいる。
「いつでも止められるからな。でも俺は、正直なところ、シたい。お前を抱きたいって、本気で思ってる。」
「……うん」
章は俺のバスローブの袖を掴んだ。彼を引っ張らないようにゆっくり時間をかけて寝室へ歩いた。
扉のない寝室に足を踏み入れる。ベッドに腰掛けて、隣へ章を手招く。章は拍子抜けしたかのような顔をして、僅かに間を開けて隣に座った。両手は震えながらバスローブの膝を掴んで皺になっていた。
「章、俺、だよ」
「……うん……」
抱き込むように肩を撫でる。力が入り固くなった腕、腰を撫でる。目を見つめる。章の怯えた瞳をじっと見据える。俺が目を細め章の手に手を重ねたのと、章がカッと目を見開いたのは同時だった。
「累、るい……僕、ぼく」
「こわいね、怖かったな。だいじょうぶ、だいじょうぶだから。ゆっくりやろうぜ、な」
だって俺もわからない。俺も教科書通りみたいなことしか出来ない。処女抱くのと同じ要領なら章の傷を触らないで抱けるか、なんてわからない。わからないけど、やるしかない。
かりかりと布地を焦るように章の爪が引っ掻く。指のささくれにひっかかる布の目を、章を抱きしめるようにしてひとつひとつ外す。冷たくなった手をしっかりと握る。
「章、キスは怖い?」
「こわ、こわい、」
「そっか、抱きしめるのは?」
「ゆっくり、して」
「うん、わかったよ」
空振りした唇をきゅっと引き結び笑顔をつくる。手を繋いだまま、もう片方の手で章を横からそっと、ぎゅっと、抱きしめる。
柔らかい入浴剤の匂い。跳ね回る章の心臓の音。居心地悪そうに動く章は、俺の肩にそっと頬を預けようやく落ち着いた。俺の髪と首元の間で、すーっ、はーっ、と荒い呼吸を整えていた。
俺はゆっくりと手を離し、章を正面からまた抱きしめる。章は首筋に鼻を寄せながら、恐る恐る俺の背中へ手を回しバスローブを掴んだ。やさしく章の背を撫でる。はふ、はふ、と章は呼吸につまづいたかのように息がまた荒くなる。いつものようにぽん、ぽん、と背をたたいてやると、章は俺の項をすん、と嗅いだ。
「…………大丈夫か?」
「なん、とか……うん、ぼく……累のにおい、落ち着くんだ」
「……この前抱きついてきたのも、それ?」
「こ、この前、というのは……覚えてないけれど……もう、ずっと」
「……そっか。このまま寝てもいいけど、もっと……章に触ってもいい?」
「なん……とか、なんとか、まだ、おちついてるから」
いまのうちに検証しなくては、と章は枯れた声で囁いた。
カッと耳が熱くなる。強引に押し倒しそうなのを堪えて、章と一緒にベッドにゆっくり寝そべった。少し上半身を離し、章の顔を眺める。緊張した面持ちの章の薄いくちびるをそっとなぞった。耳のふちを撫で、輪郭から首筋へ。項を指先が掠めると、章はビク、と身体を強ばらせる。なにも乱暴しねぇよ。肩を踊るように撫で、身体の下側に戸惑うように隠された右手を左手で握る。開いた右手がそっとバスローブ越しの腰を撫でると、あからさまに章は腰を引いた。
「章、俺を見て」
「るい」
興奮ではなく恐怖で荒い息。くちびるを撫でながらゆっくりと腰を撫でつけた。目に薄く涙が浮かぶ。静かに拭った。またギュッと抱きしめて、涙が落ち着くまで頭を撫でた。
「るい、ごめん、ごめ、」
「大丈夫、ゆっくりな、いいよ、章、こわい?」
「るいが、きらいなんじゃなくて……こわくて……う"、ぐ、」
章が口を抑える。背中を撫でる。耳たぶに生えた柔らかい産毛が綺麗に見えて、はぷ、と食んだ。
「あっ……」
章が微かにふる、と震えた。
手応えを感じて耳をゆっくりと舐める。穴ひとつないすべすべと柔らかい耳の縁、軟骨。あ、あ、と零れる章の甘い声。
「累、る、い、あうっ」
「章、耳気持ちいか」
「あっ……!わかんな、わかんな、あっ」
ふう、と息を吹きかけるとはう、と鳴く。章の身体の力が緩んでくる。
「章ァ……」
「るい、はぁ……頭、お酒みたい、なって……」
「俺。酒でも薬でもないよ、俺だよ……きもちいいんだな、かわいい」
「かわい……?僕……?」
「ん、かわいいよ、章」
「るい」
章がすこし体を離し、俺を見る。上気した頬、興奮で潤む細い目の目尻。
「もう怖くないか?」
「……何でかわかんないけど、平気そうだ」
「章……キス、いい?」
「……して、ほしい」
静かに章がくちびるを引き結ぶ。力の入ったそれに、軽くキスする。
薄く強ばったくちびるは思ったより柔らかかった。頭が爆発しそうだ。繰り返し口づける。息の仕方が分からない章は、はふ、はふ、と息をしてギュッと目を瞑っていた。
「……まだ、気分悪い?」
「わかんなっ……わかんない、累でいっぱい」
「そっか。かわいいな、章、好きだよ」
「たぶん、だけど、ぼ、ぼく、も、累」
くちびるの隙間から舌を這わせる。びく、と震えた章の歯はまだ閉じられている。顎の小さな章は歯並びが乱れている。犬歯をゆっくりと舐ると、ゆっくりと章は口を開いた。
舌はまだガチガチに固まっている。優しく内頬を、奥の歯列を、舌の表面を撫でる。上顎をなでるとはう、と声を上げた。章は思ったより敏感な体質なのかもしれない。思わず俺の舌に歯を立てそうになった章は俺の肩を突き放した。
「る、累、なに、これ、なに?」
「なにって……ディープキス?」
「…………フレンチ・キスって、これ……か」
「ふは、どうだった?初めてのフレンチキス」
「こんな感じなのか、そうか、こんな、どきどきするもの、だとは……」
「俺はお前とキスできてうれしいよ」
頭を撫でる。上目遣いの章は愛おしい顔をしていた。
「累、ありがと」
「?何が」
「僕の……検証に、付き合ってくれて」
「いいよ。俺、章のこと大事だから」
「……そっか、累」
章は目を伏せ、細い指をいきなりゆっくりと俺の内腿から股間に這わせた。
「え、章」
「……累、本当に僕で興奮するのねえ」
「…………そうだよ」
「おもしろいな」
「面白がるなよ」
「んー、でも、こんだけ勃ってるのに……僕に……やさしいから……そんなこわくないな……」
「……怖かったの?」
「こわいよ、まだ」
でも、と章は言葉を続けた。
「そろそろ累にお返ししないといけないから」
章は静かに俺のバスローブをはだけさせ、早急に下着を取った。ちょっと待て、章、と言いかけたものの、章は何を言っても聞かない時の目をして跪いていた。何か嫌な予感が頭を過ぎる。その手が俺の我慢がきかないソレに触れる前に、手首を掴んで止めた。
「え」
「章、一回ストップ……してもいいか」
「……僕じゃルイ様のお返しにゃならないか」
「ちがう。章、一回落ち着いてくれ。そりゃ、章が触ってくれたら、うれしいけど。それは章が触りたいと思ってくれたのが前提っつうか、上手く言えねぇけど。お前が嫌ならやらなくていい。お前が怖いならやらなくていい。」
真っ直ぐに章の目を見据えた。章の瞳は馬鹿でもわかるほどゆらゆら揺れている。正気じゃない。お返ししなきゃって思考の沼にハマっている。
「……それじゃダメだろう。累、僕は累にいま、本当は僕がされていいものではないほど丁寧な扱いを受けて、それで、」
「お前が好きだからそうした。お前に頼まれたからしたんじゃなくて、俺が章を抱きしめたくて抱きしめた。キスしたいからキスした。抱きたいから、シようって言われて頷いた。そこになんか損得はねぇよ。あのさ、今日は俺のコレには構わなくていい、放っといていいから。章にゆっくり触れさせて。それだけで終わりにしよう」
両手で章の片手を包んで、祈るように言った。上手く言えない。上手に言葉がでてこない。章みたいには言えないけど、どうしても伝えたい。
「……わからないよ、累、わからない。それじゃセックスじゃないだろ」
「別に今日セックスにならなくても、いいだろ」
「でも累が」
「あのな。ううんと…………俺、あくまで俺は、確かに章とセックスはしたい。でも、多分このままいくとまた章が正気じゃいられなくなる、トラウマを抉っちまうと、思う。それは俺も、悲しいからいやだ。俺は章に、章は章のままでいいって言いたかった。セックスして、章がちょっと自分の身体が好きになれたり、あわよくば気持ちよくなれればいい……って思った。でもそれは今日じゃなくてもいい」
章は黙り込んで、ゆっくりと瞬きを二回した。揺れるどころか忙しなく動き回っていた瞳が、時間をかけて真ん中に腰を下ろす。
「僕、たぶん、累の言ってること、全然よく分からない」
「説明下手なんだよ、悪かったな。なんとなくでいいよ。別に今日わかんなくてもいい」
ふう、と息を吐いてから、章に降ろされた下着をみっともなく履き直す。途端に絶望したような顔をする章の手を取って、悲しいほどに軽い身体を抱き上げて、床からベッドに引っ張り上げる。
「ご、ごめん、累」
「うっせ、ちょっと静かにしてろ」
ベッドの上で、ただ章を抱きしめている。痛いほど勃起したままの股間を必至に無視して章に押し付けないようにして、馬鹿みたいなへっぴり腰で章を抱きしめて頭を撫でた。
しばらくして章は、遠慮がちに震える手を伸ばし、そっと俺のみっともない腰を抱き寄せた。俺の熱をもったそれと、全く機能していない章の男性器が下着越しに触れ合う。思わず俺が生唾を呑むと、章は喉の奥で小さくくつくつ笑った。
「累、ほんとに、僕のこと、そんなふうに思ってるんだ」
「うるせぇな、そーだよ、悪いか」
「悪くないよ……僕は……僕こそ、よくわかんなくて、ごめんって、思ってる」
すん、と鼻をすする音がして、俺は静かに章のからだを横たえることにした。そっと横に寝そべると、章は真っ直ぐにこちらを見据え、なんの感情も表せない真顔のままはらはら涙を流していた。指で拭ってやったら、嫌がるように縮こまってしまった。
「累、あのね」
「うん」
「僕は、あの時、処女を捨てたら見える世界が変わるって、そう言われた」
「うん」
「セックスは新しい創作の刺激になると思った。書けるようになるなら、と思った。だから、僕はアレに合意したわけだ。」
「……うん」
「でも違った。何も変わらなかった。僕は壊れた。よくわからないが、想定した利益は得られなかった」
「……それは、」
「でも今累と、まだなにも、なにもできてないのに、僕はいま、新しい知見を得たような気持ちで、なんというか喜ばしくて、うん……よくわからないんだけれども」
「分かったら教えろよ。いつになってもいい」
「……検討する。ありがとう……ごめん」
「謝んなよ……あのさ、章、一個だけ聞いていいか」
「うん」
「またこういうことして、その、いつか、お前が、ほんとに章がシたいって思ったら……また、うーん、えーと……試みて、くれるか」
「…………勿論だ」
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