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第3幕 荻原累の衝撃
翌朝、章は相変わらず泣き腫らしたような目をして、俺にまた昨日の自分は前に進めなかったのかと聞いてきた。章の何より健忘がいちばん厄介だ。空白の記憶を自責で埋めようとする章の背中を撫でて、手を取って、少しだけ項に口付けた。章は毛が逆立った猫のように一瞬怯えたあと、直ぐに布団に潜り直してしまった。饅頭からパニックの喘鳴は聞こえない、ただ単に恥ずかしかったのか。ぼふぼふとそれを撫でて、俺は朝食を作りにダイニングへ歩いた。
今日俺は一日休みだけれど、章はそのまま二度寝してしまったようだった。落ちてる日なのかな。章の部屋の前に座り込んで発狂していないか耳を澄ませる必要は無さそうだ。
あら熱の取れたミネストローネを冷蔵庫に入れて、章の部屋にある小さい冷蔵庫の鉄分・カロリー補給ゼリー飲料(これがないと本当に倒れる)の残りを補充して、カーペット代わりのジョイントマットを血染みの部分だけ交換して、血まみれのカッターとカミソリを全部回収して不燃ゴミの缶に捨てた。
女への一つも愛の籠ってないLINEの返事も長文ビジネスメールも売り掛け飛んだ女からの“こころ”並の遺書も(最も、学生時代章が授業で読み上げた部分しか覚えていない)全部めんどくさいのに、章のための仕事はなにも面倒臭くない。むしろ俺がイキイキするようにすら感じる。今の暮らしは俺の贖罪のはずが、なにもかもやる気のない俺の生きがいになってしまっている。
寝室に入る。章の安全のため、玄関とそれぞれの自室以外の扉は取り払うか引き戸にするかしてドアノブは無い。
章は布団を繭のようにして包まり、じっと何も無い壁を見つめていた。
「……あーきらっ」
顔の前でひらひらと手を振る。章の目の焦点は合っていない。まずいやつか。すこし冷や汗が出る。
「あきら、おなかすいてないか?スープあるぜ、寒かったら暖房もつけるし────」
「…………累」
章が僅かに目をひらいた。
「今日もうちょっと、がんばってみるから」
「……章?」
してみようよ、と章が乾いた声で囁く。
俺の頭は大爆発した。
「……え、あ、うん、そっ……か、そっか、わかった、ありがとうな、無理しなくていいからな、章」
「無理じゃなくて」
「…………うん」
「僕もしてみたいと思うからだ」
「…………そっ、かぁ……」
「同意の元の性行為って、イイのかい?」
章は微動だにせず、じと、と繭から目だけがこちらを見ている。
「…………同意と、好き、は、イコールじゃねぇから……知らね……」
章の入った繭はころんと俺から顔を背けるように転がった。なるほど知的好奇心の権化の章に、色恋事なら全知全能の筈の俺の返答は納得いかなかったらしい。
どく、どく、どく、心臓がうるさい。そうか、今の章、も、してみたいんだ。
今までのパニック発作の出方からして、何か非合意で乱暴を働かれたことがあるんだろう。住まわせてもらうお返しに身体を選んでしまうのは、その時刻まれた強烈なオメガ性としての歪んだ自己認識だろう。それでも、正気のときに、義務としてではなく、俺と、してみたく。というか、俺とすることに興味が湧いてくれたんだ。
三百六十度小説と生きる苦しみと自責しか脳内にない章に、今ちょっとだけ全然関係ない俺とのセックスって問題が割り込んでる。
スッゲー嬉しい。
スキップしそうなのを堪えて、風呂を洗い夕飯の支度をした。章の肌にしみないいい香りの入浴剤、章がなんとか食べられそうなさっぱりした鴨ねぎ蕎麦。章の事だけ考えてる。章に伝えたいことがある。章に、ことば以外で、伝えたいことがたくさん。
どうやって伝えればいいんだっけ。
そもそも俺って、愛してる人とセックスしたこと、ないわ。章以外を好きになったことない。嘘だろ、全然わかんない。あ、あれ?どうしよう。俺って今、世界でいちばんダサい男だ。
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