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第2幕 荻原累の暮らし

「あー……」 がた、とクローゼットの扉が引っかかった。そのダンボールをちらりと横目で見ただけで、七年も前の罪が鮮明に蘇った。厳重に封をされたダンボールの中身が、盗作してまで詞を書いて、それでも売れなかったCDの在庫だってことを俺の頭はいつまでも忘れちゃくれない。 あのバンドは痴情のもつれで解散した。足で無理やりダンボールを奥に押し込めつつ、さっき脱いだスーツを掛けた。ずらりと並ぶ派手で高級なスーツの一着目は、バンド活動の失敗で作った借金返済の為になぜかさらに店のオーナーに借金して買った。 俺は今じゃ店のNo.6のホストとしてまあまあデカめの広告も出してもらってはいるが、所詮六位だ。てっぺんには手が届かないし、目指す気もない。全てが意味が無い、つまらない。 今も昔も、シノ───章のことしか、楽しくない。 彼こそが生活であり、これこそが愛おしいと思うことなのだと、章が生き返って知った。 朝四時、篠塚章は眉を寄せ顰めっ面で眠っていた。両手は枕カバーを握りしめ、うう、とか唸っている。その眉間の皺を親指でぐりと解してやると、唸るのをやめて彼は胎児のように丸まり、静かな静かな寝息を立て始めた。 髪が伸び放題の頭をひとつ撫でる。つむじが愛おしい。本能だけで誘惑する機能はこわれてしまったオメガなのに、ただそこにいるだけで慈しむような気持ちと底無しの独占欲が頭をもたげる。誰にも抱いたことの無い感覚。そう、後にも先にも章以外には。 生きていて欲しい。できれば章がまた書くきっかけが、俺でありたい。 俺は七年前、秋津怺の言葉を盗んだ。 一年前、篠塚章が死ぬ前に助けた。清潔な部屋をやった。病院に連れて行って、薬を飲ませた。章に死んで欲しくなかったから。暮らしの全てを真綿で包むように整え、インターネットに接続していないPCを与えた。秋津怺に死んで欲しくなかったから。 七年前盗作をしたことも、バンドマンだったことも黙った。稼ぐホストであり、章を守れる俺だけを見せた。 俺がゆるされたかったから。 もう日も出るのになんとなく寝付けない。ベッドに腰かけ、眠る章の体温を感じながら俺は煙草に火をつける。ベッドサイドに置いていた硝子の灰皿は、以前章が叩き割って欠片で自らを傷つけてから撤去した。安いサ店にあるようなプラスチックの灰皿は不便だが、口下手な俺を代弁している。 もう傷つかないでほしい。章には、今よりも健やかになる未来しか残っていないようにしたい。これ以上苦しんだり、傷ついて、世界から章が消えていく、社会に章が殺されてしまう、そんな全ての最悪の可能性を摘んでしまいたい。 無論、数十歩下がったかと思えば好き放題進んで衝突する小説家のチョロQみたいな章から全てのリスクやストレスを取り除くことは無理だ。やっとここ最近人間として会話が通じ、自力で栄養の摂取ができるようになったばかりである。躁状態で暴走することも多い。それでも。それでも。 ベッドに潜り込んで、布団の温かさで章の命を感じる。ほのかに香る章の匂いが、俺のささやかな幸福のかたちをしている。 章を連れ出して、自分の家に囲って一年。ずっと章のことしか考えていない。繁華街のドラッグストアで仕事着のまま絆創膏や包帯、ガーゼ、テープなどをぼーっとしたまま山ほど買い揃えている所を後輩に見られてちょっとしたややこしい事態になったりもした。それも面倒くさくて、全部自宅に定期便にした。ただ毎日惰性で愛を囁く労働をして、できるだけアフターを避けて、営業が続いても、それでも出来るだけ早く夜明け頃には帰る。 家に帰ると基本的に結果は三択。 ①酒を飲んで発狂して自室を血とゲロと酒でぐちゃぐちゃにしてる章。 ②眠れずに家のどこかでぼうっとしている章。 ③ちゃんとベッドで眠っている章。 頻度としては順番通り。①の時は寝ゲロで窒息しないように横向きに寝かす。ようやく最近、②や③が増えてきていた。今日はまさかの②。 「章、ただいま」 「おつかれさん」 章は虚ろな目をして、章にとっては死ぬ程フカフカなソファに埋もれていた。酒も飲んでいない。ゴミ箱には用法用量通りの薬のゴミ。頭を撫でてコートを脱ぐ。手を洗って、換気扇の下で煙草に火をつける。 「章ァ、今日は酒我慢できたん、よかったよ」 「……大丈夫かどうかはアレだけど……なんというか」 言い淀む章に笑いかけた。とにかく抗アルコール薬とアルコールの戦いでぐちゃぐちゃにならなくてよかった。言葉の選び方からして、俺がいない間傷ひとつふたつは付けてしまったかもしんないけど。 「えらいよ、章」 「……累はちゃんと毎日仕事に行けるから、もっとえらい」 「しょうがねぇから行ってるだけ。どっちかって言われたら客より章と一緒にいたいし」 「…………外のちゃんと累を必要としてるひとたちがかわいそうでしょう、そう言わないの」 ……ああ、そういう所が好きだよ。 お前に関係なくても、お前が知らなくても、きっとお前を憎んでても、どこかの誰かの気持ちを考えてきれいな言葉を吐ける所が。 思わず声に漏れかけて、灰が落ちる。慌てて摘んで灰皿に捨てて、そんな動きに章はちょっとだけふ、と笑った。そんなダサかったか。 なんだか居ても立ってもいられなくて、スーツのまま章の隣へ座る。大の男が2人並んでも、まだ心の距離の概算ですとばかりに空くソファの空間をじりじりと詰める。章は少しばかりたじろいで、それから身を守るように左腕を右手で抱いてソファの隅で固まった。 そんな章にまず膝を近づけて、そっと太腿をくっつけた。温かい、眠いのかよ。縮こまる章の骨張った肩を抱いて、じっと近くで章を見つめた。 なにか主張したげに視線を忙しなく動かしていた章は、観念したように俺を見つめ返した。普段世界をあんまり見たくないとばかりに細められた目が此方を確りと見ている。頼むから許してくれ、とも言うように視線が合う。 章の目は仄かに蒼い。透き通るような色素の薄い目は夜に似ている。生きるのに疲れきった隈と目元の放置された微かなかさつきを親指で撫でる。 「……るい」 窘めるような声。またきゅっと目が細まる。章を傷つけたくないのに、ただ章が愛おしくて、もし叶うのなら章とセックスをしてみたい。章の奥深くまで知りたい。全てを暴きたいって欲がどうしてもあんのは、確かなんだよ。だけど、章の傷にトドメを刺したいんじゃないんだ。それを上手く口にできず、静かに黙って抱きしめた。狡いと思いつつ耳許で囁く。 「章ァ……俺が、怖い?」 「…………累、僕は……」 酒焼けた、燃え尽きる直前の星みたいな声。 「……累を拒みたい、訳じゃなくて……累が、したいなら、応えなきゃと、思ってるし、でも……」 「うん……別に、無理しろとは言わねぇよ」 「…………僕が“ああ”なるのが、なんでで、いつ、スイッチというか……入るか分からないから……累を、傷つけたくはないんだよ」 「ちょっとずつでいいから、さ、章」 章の鼻先が首筋に擦り付けられる。珍しい、でもようやく増えてきた章の自分からのスキンシップが、嬉しいのに怖い。 章は定期的に、躁状態に加え酒と薬でおかしくなった上で俺に性行為を迫る。住ませてくれるお返しをしたいのだと。断りきれず応じて前戯を試みると、やっぱりパニック発作が起こる。章はもうこわれてしまっている、ということを見せつけられて、自分が傷つくことより章に深い深い傷があるのが分かってつらい。章の傷はまだ鮮やかに、血を流したまま。まだ皮膚を寄せるテープも傷を包むガーゼもしてやれずにいる。 俺ができるのは、記憶を失った翌朝の章に「俺が抱こうとした」と嘘をつくことだけだった。 章を抱きしめ、章のやや低い体温を感じる。背中を撫でる。 「別にさ、セックスなんてしなくたってここに居ていいんだよ」 「……うん」 「章、今日はまた、くっついて寝るだけにしよ。温かいって、人とくっついて寝るの、好きだなって。お前はさ、それだけででいいよ。まだ。」 「…………うん」 「俺は章に酷くしたくて、章を使ってオナニーしたいんじゃ、ねぇんだよ。それだけ、どんだけかかってもわかって欲しい」 「………………もう、わかってる。わかってるけど、けど……うん、ごめんなさいね」 「いいよ」 首筋に当たる章の痩けたほっぺたを愛しく思いながら、ただ彼を温めていた。 章はそのうち睡眠薬が効いて眠ってしまい、俺は壊れ物を扱うようにベッドへ運び、彼を抱きしめて寝た。章からオメガの匂いは一ミリたりともしない。再会直後、この世に縫い止めるように抱こうとした時は生きている匂いすらせず、今のようにパニックで暴れることもなく死体のようだった。その後何度暴れられても、殴られても、無理やり俺の家で生きさせた。漸く人間性を取り戻した章は、この家の柔軟剤とhi-liteの煙、微かに埃っぽい図書室のような匂いを「篠塚章の匂い」として発し始めた。愛おしくて、嬉しくて、ただ生きていて欲しかった。キスまで万里の道が伸びていようとも、どこまでも章と歩いて行きたいと思った。

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