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第1話 奴隷のマリユス

第一章  膝を抱え俯いていた視界の隅に、真っ白な光沢のある小さな靴が飛び込んできた。  思わず檻の向こう側に顔を向ける。  何年も洗っていない伸びっぱなしの髪の隙間から、伺うような視線を向けた先に立っていたのは、眩しいほどに輝く眸をこちらに向けた、幼い子供であった。  こんな場所は彼には似つかわしくない。  薄暗く、石を積み上げただけの塔の中は湿った空気が充満していて、常に体がダル重い。見上げるほど高いところに窓とも呼べないような小窓が付いているが、ここから見えるのは今の天気くらいである。    奴隷の売買が行われる場所であるから、不衛生なのは当たり前なのかもしれない。それにしても他所の奴隷商と比べても酷い場所なのだとは番人が話していた。 「こいつはマリユス・ロネ。そろそろお払い箱ですよ。もう十三になるのに買い手が付きませんでねぇ」  商人が当てつけのように大きなため息を交え説明している。 「ラングロワ様のお眼鏡に叶うとは到底思えませんが……」  せめてベータであれば土木関係の買い手がついただろうに、オメガのくせに買取金額が高いのが原因で今まで売れ残ってきたのだと言い訳を付け加えた。  どうやら幼児の母親らしい、煌びやかで落ち着きのあるその女性は興味深そうに頷きながら、息子の反応を気にかけている。     そういえば、ここにいられるのは十三歳までだと以前誰かが話していた。  その後はどうなるのだろう……。    物心ついた時にはここにいた。外の世界は知らない。  奴隷としての情報提供のために最低限の健康管理———実際にはされてないも同然だけれど———それと第二次性の検査だけは行っていた。 「お前はオメガだ。クソだな。どうせ売れやしないだろうよ。まぁしかし、具合によっちゃあ相手にしてやらなくもないか」  商人同士で下品な笑い声を上げる。 「こいつ、洗えば顔は綺麗だからな。売れ残れば俺らの性奴隷って手もあるか」 「馬鹿野郎、上にバレたらとんでもねぇぞ。こっそりヤるんだよ」  ゲラゲラと再び笑った。  楽しそうだなと思った。何がそんなに面白いのか理解できなかった。  感情のない顔で立ち尽くしていると「さっさと戻れ」と怒鳴り声をあげ、牢屋のような部屋に蹴り入れられた。  十歳の頃の話である。必ず検査を受ける年齢だそうだ。  自分の歳がそうなのだと知った機会でもあり、オメガという厄介な性なのだと認識したキッカケでもあった。  そんなやり取りをぼんやりと思い出していた。  月日は経ち、本当に売れ残った僕に与えられたチャンスは、これが最後のような気がした。    ———性奴隷。あの時、商人が話していた。  この人たちが買ってくれなければ性奴隷になるのかも知れない。それがどういうものなのか、検討も付かない。やたら体に触ってくる番人がいたのを思い出し、そういう類のことをされるのだろうと勝手に結論付けた。    知識は全て番人や商人の会話から得る。  オメガだから、僕はクソで行く末は性奴隷……。    檻の向こう側にいる、いかにも高貴な女性と子供に引き取られるとは、到底思えない。  愛嬌を振り撒く術は知らない。  何も考えてはならないと、ここでの生活で学び、歳を重ねるほどに無感情になっていった。  どうせこの人たちも帰ってしまうだろう。  なのにいつまでも話し込んでいるのは何故なのか、もしかして僕を買ってくれるのか。  いや、そんなわけはない。期待させないでほしい。  さっさと帰ってほしい。  一人にしてほしい。  とても惨めだ。こんな気持ちになるのも初めてだった。  駄目だ、考えてはいけない。期待も落胆もしてはいけないと自分に言い聞かせる。  膝を抱える腕に力を込め、顔を埋めた。    幼い子供は輝きに満ちた眸を逸らさず、隣の女性の、ドレスを引っ張る。 「お母様、この人に決めます!!」 「あら、エリペール。そんなに早く決めなくても、他にも紹介してくださるみたいよ?」 「けっこう。あなたはとてもいい匂いだ。だから私はこの人がいい」  エリペールと呼ばれた男の子は人差し指で真っ直ぐに射抜くように指差し断言した。  思わず目を瞠り、エリペールと向き合う。  良い匂いだとそう言った。何年も洗っていない、汗臭く、酷い湿気で濁った空気の匂いまで染み付いているこの僕のどこからエリペールを悦ばせる匂いがするのか。  商人にとってもまさかの事態だったようだ。 「ぼっちゃま、他にもっと良いのがいますぜ」  慌てて止めに入ったが、エリペールは大人の男に向かって頬を膨らませ、反論した。 「私が決めたというのに、君はさしず(・・・)をするのか?」 「滅相もございません!! しかし……本当に良いんですか? ラングロワ様」 「エリペール本人に決めさせようと思って連れてきたから、この子にするわ。身なりを整えて、夕刻までに送り届けて頂戴」  商人は深々と頭を下げ、バレないようにギロリとコチラを睨みつけた。  商人の言わんとすることは僅かほども伝わってこなかったが、檻の鍵が開けられ外に出された。  買ってくれたのだ。  この人たちが買ってくれた。  感動は時間差でやってきた。ラングロワという人の家に向かう馬車の中、涙が溢れて止まらなかった。

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