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第2話 ラングロワ公爵家

 出発までに随分と時間がかかってしまったと商人は慌てていた。  なにせ数年分の汚れを洗い落とさなければならなかった。頭だけで三回洗ってようやく櫛が通るほどになり、艶が出るまでさらに二度洗われた。  体も数人がかりで何度も石鹸を擦り付けられた。どの人も皆、鼻を摘み片手で作業をこなしていた。  その後は医務室に連れて行かれ、注射を何本も打たれた。 「病気でも持ってちゃウチの信用問題だからな。もしもラングロワ様のところで気分が悪くなっても、全て自己責任にしろよ、分かったな?」 「はい……」  何か色々と早口で言われたが、内容は理解できなかった。全てに「はい」とだけ返事をするので精一杯だ。  ラングロワという人はそんなに怖い人なのかと不安もあったが、全身を洗い終わる頃には服が届き、また数人がかりで着せられた。 「ラングロワ様からのプレゼントだとよ」  鼻息をふんっと吐きながら商人が言う。着る服まで準備されるのは初めてのことらしい。  靴は初めて履いたが変な感じがする。窮屈で裸足の方が歩きやすいと思った。  馬車での移動中、ようやくあの石積みの塔から出られた喜びに涙が溢れてきたが、付き添っている商人は少しもこちらに興味を示さなかった。  そうしてラングロワについての説明を簡単にしてくれた。 「いいか、決してヘマをするんじゃないぞ。まさかお前のような者が公爵家に買い取られるなんて前代未聞なんだ。明日から一週間嵐が続くと言われた方がまだ現実味もあるってもんだ。そのくらい、天と地がひっくり返ったと同じくらいの奇跡が起きたってことは肝に銘じていろ」 「公爵……様……」 「貴族様だよ!! 本来は貴族から買った奴隷ばかりを収容している場所に行く予定が、あろうことか道を間違えたそうだ。エリペール様が中に走り込まなければ、お前は明日から性奴隷だったのに。全く、神様のいたずらとしか思えねぇ」  髪をくしゃくしゃに掻き乱し、その後深く帽子を被った。  商人からの説明に唖然としてしまい、返す言葉を失ってしまう。  もっと汚い場所で仕事をさせられるのかと思っていたのだ。   どんな場所であっても、これまで程酷くはならないとさえ考えていた。  しかし、オメガでクソの僕が貴族様に買い取られてどんな仕事をするのか想像もできない。  長い間馬車が走っているが、約束の夕刻はとっくに過ぎている。そのせいで商人の息は荒く、元々の気性の荒さも加わってイライラしているのを隠しもしなかった。 「まだ着かないんですか?」  どんな遠くまで連れて行かれるのだろうと思い、訊ねてみる。 「もう着いているさ。敷地内にはな。この一番奥が本邸だと聞いている」 「えっ!?」  思わず窓に張り付き外を見る。そこには美しい町並みが流れていっている。似たような白い建物が軒を連ね、その辺りには緑の木々が生い茂っていた。馬車は建物の真ん中を真っ直ぐに伸びた道を走っている。 「ここが……ラングロワ公爵邸……」 「だから!! 天と地がひっくり返ったと言っただろうが!! お前は今日からここに住むんだよ!! せいぜいしっかり働いてくれよ」 「は……い……」  息を呑んだ。ことの重大さを認識すると同時に涙は引いた。  涙と引き換えに、今度は緊張で震えが止まらなくなってしまった。  更に奥まで走ると大きく真っ白な門が見え、その手前で門番が止まれと合図を送る。  商人が降りて説明をしているようだった。お互い頷き合い、何やら巻き物を開いて見せていた。  馬車に戻ると門が開き、いよいよ本邸が露わになる。 「ぅわあ……」  こんな立派な建物は見たことがない。いや、石積みの塔の外の世界を目の当たりにしたのは初めてだ。これほどまでに美しい世界が広がっているなど、知る由もない。  従者が数人で出迎えてくれ、その後ろからあの時の幼児が走り寄ってきた。 「マリユス!! おそかったじゃないか。早く、早くきたまえ。私の部屋へあんないする」  エリペールは興奮した様子で抱きついた。 「部屋? え、なんで……」  訳がわからず焦っていると、隣から商人に肘で突かれた。 「行儀良くしろ!!」 「はい……」  そんなものは教えられたことがない。どう対応するのが正解なのか、誰も教えてはくれない。  礼儀について、番人たちが話していたことはない。    エリペールに手を引かれ、屋敷の中へと連れて行かれる。履きなれない靴で歩き方はぎこちない。 「眩しい」  天井から降り注ぐような光が照らしている。 「シャンデリアを知らないのか。キレイだろう。私のお気に入りだ」  エリペールが上を指差す。  細かなガラスが数え切れないほどぶら下がり、光を乱反射させていた。  目を眇め見入っていると、再び手を引っ張られ転んでしまいそうになる。 「お待ちなさい。マリユスは先に私とお話がありますよ」 「お母様。やっと来たのに……お話は長いですか?」 「それほど長くはありません。先に湯浴みを済ませておいてはいかが?」 「はい」  エリペールは素直に従うと従者に連れられて階段を上がっていく。  何もかもが目まぐるしくて反応を返せない。  その後、公爵夫人に連れられ別の部屋へと案内された。壁一面の本棚に、隙間なく分厚い本が並べられている。窓際に大きなデスクがあり、公爵夫人はそこに腰を下ろした。 「よく来てくれたわねマリユス。私はブランディーヌ・ラングロワ。エリペールは一人息子なの」  ハッキリとした顔立ちで一見厳しそうな印象を受けるその人は、とても柔らかい口調で話し始めた。

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