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第11話 はじめてのキス
「は、え? ……もう一度、言ってください」
困惑を隠せない。短い言葉を切れ切れになって返したが、冷や汗が溢れ出るほど焦ってしまった。
キス———その意味は知っていた。去年、図書館で読んだ第二次性についての本に書いてあった。
自分がオメガだと知っていても、教育を受けてこなかったため正しい知識があるわけではない。だからちゃんと自分の性別を知ろうと思い、本を手に取ったのだった。
オメガは悪い言い方をすれば、奴隷商の番人が話していた内容で概ね間違いはなかった。
とはいえ、この頃では平民の間でも抑制剤は行き渡っており、余程のことがない限り発情期以外は普通に仕事もできている。———ただ仕事に関しては発情期には休まなければならないことから、雇用は難しそうだ———僕の場合はその余程に部類する人間であったため、周りに害を成す人間だと言われてきたのだと理解した。
本に書かれていた内容として、オメガはアルファと番になれるとのことだった。
興味深いと思い続きを読んでみると、その過程が記されており、キスや、その先の行為までも記されていたのだ。
何故だかとても恥ずかしくなってしまったのを覚えている。唇と唇を重ね合わせるという行為が番になるための筋道の一つ目に記載されていたあたり、とても重要なのだとは思った。
淡々と説明書きされていた文章の横に、挿絵が入れられており、悪いものを見てしまったような罪悪感に囚われ本を閉じてしまった。それ以来、第二次性についての本は読んでいない。
エリペールがそれに関しての質問をしてきたということは、番になりたい相手ができたのだろうか。
彼は柄にもなく頬をピンクに染め、視線を逸らしたまま、もう一度小声で言う。
「だから、キスをしたことがあるのかと訊いたのだ」
驚愕してしまった。
学校にオメガは僕以外にはいない。それともバース性に関係なく、結婚する際にキスは必要なのか。
どうやらエルペールは頭の中で、キスをしたい特定の相手を思い描いている。
誰なのか訊いてみたいが、僕が口を出す権利はないし、そこに触れてはいけない気がした。
「そ、そんなの、僕には先ず相手がおりません。ここに来る前はずっと石積みの塔にいましたから。人と会うことすら殆どありませんでした。だから……その……お力になれず、申し訳ございません」
エリペールは複雑な表情を浮かべた。
「そうか……」ポツリと呟き、安堵したような、それでいて寂しそうに俯く。
彼は少し考えるように黙り込んだが、閃いたとばかりに自信満々に眸を輝かせ、こちらを見た。
「マリユスが、私にキスをしてみてくれないか!?」
「はっ? なっ!! いけません、僕なんかが……何故、急に、そんなこと……」
「実は、今日ブリューノから揶揄われてしまったのだ。キスをしたこともないのかと」
「ブリューノ様は経験がお有りで?」
「あぁ。許嫁の女性と、両親に隠れて経験したのだと言っていた。しかし私からこの話を聞いたのは秘密だ。ブリューノは、マリユスに聴かせるには刺激が強すぎると気を利かせて、私だけに話たのだ」
図書館で勉強をしている間に、そんな話になっているとは露知らず。
年上の威厳も余裕も見せられないことに落胆してしまった。
ブリューノは十歳にして許嫁の女性をしっかりとエスコートしているのかと思うと、自分が情けなく感じる。僕はもう十八になっているのに……。
「マリユス、マリユス? ぼうっとして話を聞いていないだろう?」
「あ、はい。いえ、すみません」
「試しでいいのだ。ほっぺでいいからしてみてくれないか」
エリペールは本気だ。
「やり方が分かりません」両手を振り、逃げようとしても逃しては貰えない。エリペールはぐいと顔を寄せ、少し焦っている様子を伺わせた。
ぐんぐん身長を伸ばしている彼は、学年の中でも頭一つ分も二つ分も抜きん出ている。
それに引き換え、成長期も終わってしまった僕は、僅か数センチとはいえ十歳の子供に身長を追い抜かれたのだ。ついこの間まで上目遣いで見上げていた視線が、今は真っ直ぐに僕の眸を捉えている。
その真剣さと潤んだ眸に、心臓が飛び出るほど緊張した。
「お願いだ、マリユス」
声を詰まらせ、ソファーの上で手を重ねる。甘え上手は幼少期から変わらない。どんなふうにお願いをすれば僕が断れないかを熟知している。
「しかし、それは結婚する人とやるべき行為だと、本に書いてありました」
必死の抵抗を見せるが、これが仇となってしまうとは思いもよらない。
「本で? マリユスは性的な行為に興味がないと思っていたが、本で調べるとは、やはり年頃の男性には変わりないな。言ってくれれば私も気を使わずに話せたのに。ならば話は早い。君もキスがどんなものか気になっているのだろう。練習と思ってしてみろ。ここには二人しかいない」
「勘弁……してください……」
エリペールに押されっぱなしである。
これ以上断り続けるのも失礼な気がして、冷や汗は増す一方だった。
しかし一度言い始めると、納得がいくまで諦めないのがエリペールである。
———これは仕事の一環だ。エリペール様にとってこれは、恋愛でもなんでもない。好奇心の塊だから。一度経験してどんなものか分かれば、きっと納得してくれるはずだ———心の中で無理矢理覚悟を決めた。
ゆっくりと顔を近づける。
途中エリペールが眸を閉じたのが分かった。
頬に唇が触れる寸前、僕もぎゅっと眸を閉じ、唇を頬に押し付ける。弾力のある頬に強く力んだ唇が食い込んだ。
———柔らかい———そう思った瞬間、少し強張った体の力が抜けた。
顔を離すと、エリペールは破顔して笑い、ガッツポーズを決める。
「なぁ、マリユス。キスとは、素晴らしいな! 私はとても喜んでる。君はどうだった?」
「あの……このやり方で合っているかは分かりませんが、心がふわふわして落ち着かない感じがします」
「嬉しいのかどうなのかと聞いている」
「嬉しい……です」
エリペールははにかむと「では今度は私からしよう」と言って僕の目尻に唇を寄せた。
潤んだ柔らかい感触が、じんわりと広がる。
一瞬の出来事で瞬きも出来なかった。ふわりと触れた唇はすぐに離れてしまった。
「ははっ! 顔が真っ赤だ、マリユス」
口から心臓が飛び出すかと思った。ドクドクと大きく伸縮し、声も出ない。
あどけなさとは、どこまでも罪深い。
それでもエリペールが満足したと、眸を見て判断することが出来た。
しばらく汗は引きそうにないが、とりあえず任務は果たせたようだ。
ところがエリペールは更なる提案を出してきた。
「キスは良いな。とても幸せな気持ちになる。寝る前の日課にしてはどうかと思うのだが、マリユスはどうだ?」
「えぇ!?」
ご主人様の命令には逆らえない。答えはYESしかない。
だからと言って、毎晩キスとは……ハードルが高すぎる。
いや、きっと恋人ができるまでだ。本で見た唇同士ではない。エリペールの頬にするだけなら、挨拶代わりにブランディーヌだってしている。
自分で自分を励ますしかなかった。一瞬、ほんの一瞬頑張れば良い。エリペールを落胆させたくない。
「えっと……良いかも……しれないですけど……」
「では、これは二人だけの秘密だ」
エリペールは照れ笑いを浮かべ、満足して僕の腕枕で眠りについた。
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