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第19話 憂いのエリペール
パトリスの研究室を後にする。
身内かもしれないと言われ、驚きすぎて声も出ず、全てエリペールに対応を任せてしまった。
概ね考えていることは似ていて、気持ちを代弁してくれたと感謝している。
僕と姉が似ていると言われても、パトリスとは全く似ていない。
そう言った点も含めて、信憑性を持たせるには不十分な気もした。
例えパトリスの言うことが正しかったとして、奴隷商に売り飛ばした人が実の母親なのか。
そんな人の息子かもしれないと考えた時、嬉しい気持ちは湧かなかった。
愛されて身籠ったのではないか、頸を噛まれて、確固たる絆を結んだ。
なのに番が他の人と結婚したら、子供は不要としか思えなかったのか。
だとすれば理不尽に生まれ、理不尽な生活を送ってきた僕が可哀想すぎる。
事情を知ったところで力になってあげられない。
パトリスにとってはかけがえのない肉親だろうが、身勝手な行動で十年以上も閉じ込められていたのだ。
時間が経つほどに、悶々と考えすぎるようになっていた。
奴隷商で育った時間を思い出になどできない。両親からの愛情をたっぷりと注がれるべき時期に、ひとりぼっちで小さな窓から見える空を眺めて過ごしたのだ。
パトリスと身内であるかどうかよりも、トラウマが勝ってしまう。
それからは研究室へは通わなくなってしまった。
親切にしてくれたのは嬉しかったし、書庫で本を読む時間はとても贅沢だと感じるほど好きだった。
パトリスを恨んではいない。
ただ気まずいだけだ。
少し間を置いてから訪ねよう。
そう思っているうちにどんどん足は遠退き、まともに話もしないまま学校も卒業を迎え、疎遠になっていく。
エリペールはあれ以来、パトリスの話題は意識的に避けていた。
パトリスも余程必要な時くらいにしか話しかけてこなくなったが、特に嫌がらせをしたり、成績に影響が及ぶこともなかった。———むしろしっかりと評価してくれ、エリペールは主席で卒業を迎えた———
あの日、部屋を出る間際に「話を聞いてくれただけも有難い。誰かに私の真実を話したのは初めてだ。いきなり身の上話など聞かせてしまい、すまない。忘れてくれ」目を伏せ、寂しそうに言っていたを思い出す。パトリスは僕のことを甥のように思い、接してくれていたのだろう。
真っ向否定しなくとも、もう少し冷静に対応できたかもしれないが、しかし安易に認めていい内容でもない。
パトリスとて、自分の勘を裏付ける何かが欲しい。僅かな情報でもなんでもいい、細く細く見えた希望の光を広げたい一心だったに違いない。
卒業式の日に見かけたパトリスは、少し痩せてしまっていた。僕たちが卒業し、僅かな望みも絶たれ、落ち込んでいることだろう。
そしてもう一つ気掛かりになっている問題がある。
このところ物思いに耽けてはため息を吐いているエリペールだ。
ため息の原因を訊いてもいいのかどうか、しばらく悩んで様子を伺っていたが、日に日に憂いは増していく。
「リリアンさんは、何か知っていますか?」
「それが何も仰ってくれないのですよ。マリユスさんには話していると思ってました」
「あんなに落ち込むエリペール様は初めてですし、普段ならなんでも話してくださるのですが……」
あぁ、また大きく息を吐いた。ため息は今日だけで三〇回は超えている。
リリアンと顔を見合わせる。
「今日はスッキリとミントティーなど、良さそうですね」
「お願いします。僕から話しかけてみます」
デスクに向かってゴーティエから頼まれた仕事の書類を作っているのだが、こんなにも進んでいないのも初めて見る光景だ。
病気だろうか。そう思えば顔色が悪い気がする。
何かあってからでは遅い。付き人失格である。
ぎゅっと手を握り締め、一歩近づいた。
「エリペール様、珍しく仕事が難航しているようですので、リリアンさんがミントティーを淹れて下さるそうですよ」
「……あぁ、分かった」
やはり変だ。
いつもなら、いい資料が見つかならいだとか、ゴーティエと意見が分かれていて困っているだとか、頭を抱えながらも、今、困っている内容を話してくれる。
なのに今は僕の言葉も頭に入っていないのか、曖昧な返事しか返ってこない。
「エリペール様、もしかして……」
察したように間を置く。エリペールは羽ペンをペン立てに挿すと、顔だけをこちらに向けた。
本当に分かったのかと言いたそうな、胡乱な眸をしている。
「お体が悪いのではありませんか?」
エリペールはここ最近で一番大きなため息を吐く。
「……そうだな、私は病気かもしれない」
今度は天井を見上げ、力無く言った。
「ど、ど、どこか苦しいのでしょうか? 体が熱いとか、痛いとか、どんな症状が出ていますか?」
少しくらいなら図書館で読んだ医学書の知識があるし、卒業してからブランディーヌの書斎の本を読むのも許可が降りた。その中には薬草の本もあった事を覚えている。
自分で治療までは出来ずとも、どんな対応を取るべきかくらいは分かるかもしれない。
真剣な面持ちでエリペールの言葉を待つ。
すると僕の手を引き寄せ、腰に腕を回した。
薄い腹に額をつけ、ポツリと言う。
「バース性が発症しないのだ。もう、十九を過ぎ、やがて二十歳を迎える。ブリューノは高等部のうちに発症し、卒業とともに結婚した。周りのアルファの中で、私だけだ」
見た目も中身からも強いアルファ性を感じる。
そう言われてみればエリペールは体格にも恵まれ、ただでさえフェロモン撒き散らしているような色気もある。
長い金髪の艶やかで、引き締まった腰のラインや尻をみれば、オメガ出なくとも本能的に性的な魅力を感じるというものだ。
しかしこればかりは薬で何とかなる問題でもないし、近くにオメガがいても発症しないともなれば、まだ先のような気もする。
エリペールの悩みが第二次性だなんて、意中の相手と何かあったのだろうか。
知らない誰かに嫉妬してしまい、後悔すると分かっていても考えずにはいられない。
僕のオメガ性がもっと強ければ、こんなにも悩ませずに済んだかもしれないのだ。
けれどもエリペールのアルファ性が発症すれば、もう添い寝係としての役目は終わる。
頭の中のどこかで、このまま二人ともがバース性を発症しなければいいのに……なんて考えてしまう。
ともあれここまで神妙に落ち込んでいるならば、励ますのが先決だ。
「あの、僕はもうすぐ二八歳になりますが、いまだにオメガを発症していません。育った環境のせいもあるかもしれませんが、きっと個人差はあるのではないでしょうか。一度、医務室に相談に行かれますか?」
立派に成人した男でもバース性を発症していない。
だから心配する必要はない。
そう伝えたつもりが、言葉足らずだったか余計に不安を煽ったようだった。
エリペールは抱きしめている腕に力を込め、さらに僕の体を引き寄せる。
「いい匂いはずっと感じているのだ。子供の頃から。あの頃はこの匂いが何なのか考えもしなかった。しかし今なら分かる。このいい匂いはマリユスのオメガのフェロモンだ」
「でも、僕はまだ……」
「だから、悩んでいるのではないか。これだけ一緒にいても、マリユスは私のフェロモンに当てられたりしない。ヒートを起こす予兆すらない。私にはアルファの素質がないのか」
僕がヒートを起こせば隔離しなければならなくなる。
奴隷と公爵子息が番になったり、そうでなくとも妊娠なんてしようものなら世間が許すはずがない。
エリペールの番になりたくないわけではない。
正直に言うと、そうなれば嬉しいと思う。
けれどもゴーティエやブランディーヌに合わせる顔がなくなる。オメガのフェロモンでエリペールを誘ったなどと言われようものなら、反論の余地もない。
オメガのフェロモンとはそういうものだ。
真剣に悩んでいるエリペールにかける、正しい言葉が見つからなかった。
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