27 / 61

第27話 頼れる人

第三章  公爵邸を出てからしばらく歩いたが、距離的には然程進んではいないように思う。隔離部屋から逃げるように出てきたため、一文無しで、馬車に乗ることもできず、ひたすら歩くしかなかった。  荷物が薬だけなのは楽で良かったかもしれない。  それに、大荷物だと目立ってしまう。  リリアンが発情期が治ってきた時に着られるようにと、仕事用の服を置いてくれていたので助かった。  シンプルな白いシャツにスラックス。これだと街を歩いていても周りに溶け込むことができる。  抑制剤が良く効いていたため、街並みを眺めて楽しむこともできた。  今日は市場が開かれる日で、以前来た時よりも人出が多かった。  大荷物を抱えて歩いている人がそこかしこに見受けられる。  誰もこちらを気を止めたりしない。話しかけてもこない。  誰かに見つかって、連れ戻されては意味がない。人混みは苦手だがさりげなくを装い、公爵邸から離れていく。  人と沢山ぶつかり、謝罪しながらも目的地へと向かう。  連絡はとっていないので、完全に押しかける形になる。  しかもエリペールの付き添いでもなんでもなく、僕一人で訪ねてくるとは夢にも思わないだろう。  とはいえ、彼を訪ねてどうしたいのかまでは考えていない。  欲を言えばしばらく———せめて、仕事が決まるまで———可能なら、屋敷の片隅でいいから住まわせて欲しいなんて厚かましい考えは浮かんでいる。それを自分の口から言い出せる自信はないのだが……。  これからは、一人で生きていかなければならない。  少しくらい無遠慮を働いたとしても、僕には今、助けてくれる人が必要なのだ。  毎日、馬車で通っていた時は遠いとも近いとも思わなかったが、実際、自分の足で歩いてみると、こんなにも遠かったのかと驚愕した。  運動は苦手であるため、体力も比例して乏しい。  前から市場を見物したいとは思っていたが、楽しかったのは最初だけで、人混みを抜ける頃には後悔していた。  歩きすぎた疲労で呼吸は浅く、脚はパンパンになっている。 「もう、歩きたくない……でも、ここで止まるわけにいかない」  想像以上に歩く羽目になってしまった。公爵邸で計画を立てていた時と、実際の距離では雲泥の差がある。  今までいかに甘えてきたか、痛烈に思い知らされた。 「楽しかったな、あの頃は」  息切れに紛れてため息が出る。  目的地までもう少しだというのは、周りを見渡せば良くわかる。  貴族階級の人しか乗らないような豪華な馬車が増え、見覚えのある景色になってきた。  高等部のある南門から校内へ入ると、その場所へと向かう。  図書館から程近い場所にある、木陰の涼しい風の吹くそこは、今も相変わらずだ。  ランチ時に公爵邸を出て、到着した時には授業を終えた学生が帰宅する時間になっていた。    飲まず食わずでフラフラになりながらも階段で二階へと移動し、懐かしいそのドアをノックする。  ややあって「はい」と不精声で返事が返ってきた。  この声は授業をしている時と同じ声である。ひとまず不在ではなかったことに安堵した。  訪ねてきたのが僕で、剣呑な空気にならないか不安を抱えつつ、大きめの声を意識して言う。 「パトリス先生、お久しぶりです。マリユスです」  口が乾き切っていたが、何とか先生まで届く声が出せた。ドア越しに、部屋の中から本が床に散乱する音や、パトリスの慌てて言葉にならない声が聞こえてきた。  慌てふためいてドタドタと足音が近づき、ドアが開くと共に、中からパトリスが飛び出してきた。  目の前に立っている僕を、上から下まで隈なくチェックするように視線を這わせ、ようやく状況が飲み込めたようだ。   「マリユスくん? どうしたんだ、急に……。もしかして一人で? とにかく、入ってくれ」 「突然すみません。失礼します」  パトリスの研究室は相変わらず殺風景なほど物がない。  と言っても自分たちが卒業してから半年ほどしか経っていないから、模様替えでもしない限りはこんなものだろう。  パトリスは書庫にしている部屋から、学生時代に使っていた一人掛け用のソファーを運んでくれた。 「酷い汗じゃないか。まさか、ラングロワ公爵邸から歩いてきたわけじゃないね?」 「いや、それが……その、まさかで……」  パトリスは双眸を限界まで開き、何があったのかと訊ねた。  驚きながらも受け入れてくれたこと、僕の姿を見て、あの頃と変わらない接し方をしてくれたこと、汗だくで疲れ切っている体調を気遣ってくれたこと、全てが嬉しかった。 「その、お水を頂けませんか? 飲まず食わずで歩いてきたんです」  息切れ切れに言うと、パトリスは急いで水を淹れてくれた。 「お腹も空いているだろう。今は白パンと葡萄くらいしかないが、食べるといい」 「ありがとうございます」  一口パンを頬張ると、自覚していたよりも空腹だったようで、行儀も忘れて無我夢中で食べた。  パトリスは僕が食べている間、何も訊かずにいてくれた。  今でも甥かもしれないという目で見ているのか、訪ねてきたことを喜んでくれているような気もした。  途中、紅茶を淹れてくると言って席を外す。  その間に、目の前にあった白パン三個と、葡萄は一房丸々、全て平らげた。 「焼き菓子があったから、これも食べなさい」  紅茶と一緒に出してくれた。 「いただきます」  ようやく胃が落ち着き、今度はゆっくりと味わうことができた。  砂糖の甘さが口いっぱいに広がる。ほぅ……とため息を吐きながら、ソファに凭れた。 「落ち着いたかな」苦笑しながらパトリスが言う。  慌てて姿勢を正し、「いきなりすみませんでした」   かなり一方的だったと気付き、立ち上がって謝罪する。  パトリスは僕に座るよう促し、自分も椅子に座った。 「私を頼るなんて、余程の理由がありそうだね。話せる範囲でいいから教えてくれるかな」  僕は順を追って説明を始めた。

ともだちにシェアしよう!