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第66話 エリペールの一年間⑤
全てを失った私の記憶は、そこから完全に失われた。
それでも侍女が毎日体を清潔に保っていてくれていたとは、随分後になってから知ることとなる。
ただ、心臓が動いているだけの状態。
庭の花々の方が、余程活き活きと咲いている。
意識を失う直前、自分の最期を予感した。
✦︎✧︎✧✦
それからどれだけの月日が経ったのかは分からないが、甘い香りが鼻を掠め、虚に意識を取り戻す。
眠ってはいない。意識を失っていただけで体力は回復を見せていないし、相変わらず視界に色は見えていない。
しかし懐かしいその匂いが誰のものかは、間違えるはずはない。これはマリユスの香りだ。
いよいよ感覚が麻痺してきたようだ。
視覚も嗅覚も、マリユスを求めるがあまり幻覚を見ているらしい。
眠れない私は夢すら見られない。
ならばせめて……と、神様が幻を贈ってくれたのだろう。なんでもいい、マリユスの残像でもなんだっていい。架空の世界ですらマリユスしか求めていないのだから。
『エリペール様……』
私を呼ぶ声、匂い、体温。
小鳥が囀るように話す可愛らしい声。年上とは思えない青年のような容姿。
羽のように軽い体。
全てが走馬灯の如く流れていく。
『エリペール様、僕です、マリユスです』
「マリ……ユス……」
幻聴なのか、今、本当にマリユスの声が聞こえた気がした。
いや、それだけではない。そもそも匂いがして思考が回り始めたのだ。
マリユスのフェロモンが近付いたように感じた。
しかし私を呼ぶ声は段々と鮮明になってくる。
「エリペール様、エリペール様、僕です。マリユスです」
視界に薄らと見えるマリユスの顔。
「はは、遂に幻覚を見始めたか」
乾いた声で呟いた。声が出ていたという自覚はなかった。
本当にマリユスが帰ってきたなら、先ずフェロモンで分かる。確かに彼の匂いはするが、こんなにも薄いはずはないのだ。
マリユスのフェロモンの匂いは、もっと強く扇状的に私の欲情を煽る。
本物なはずはない。期待をして落胆するのはうんざりだ。
「幻覚ではありません。マリユスです。エリペール様の許に帰ってきました。貴方だけのマリユスです」
次ははっきりと感触があった。
私の手を取り、柔らかく滑らかな肌に触れる。
乾いた肌に水分が吸収されていく。それがマリユスの涙だとは気付かなかった。
必死に名前を呼び続ける声に導かれるように、少しずつ意識が定かになってきた。
それとともに、フェロモンの匂いも濃くなっていく。
本当にマリユスなのか。
「マリユス、本物なのか……」
「……はい……はい……」
マリユスには、しっかりと私のアルファのフェロモンが届いているようだった。
馬乗りになり、必死に口付ける。とても口付けとは言えない唇を押さえつけているだけのその行為で、マリユスの中心は既に昂っているらしく、腹部に固く隆起したそれが当たる。
———キスとは、こうするのだ。
教えてあげたい。私のキスで、マリユスを陶酔させたい。
だが体のどこにも力が入らず、息を吸うことすら儘ならない。口の中は渇き切っていて、マリユスの体液を欲して疼いている。
本当に目の前に見えているのがマリユスならば、たった今、全てを奪いたい。
体が強く反応している。
ほんのわずかなマリユスの唾液とフェロモンで、体の奥からじんわりと温かくなる感覚を覚えた。
春風のような、陽だまりのような温かさが、心を蘇らせてくれたように感じた。
思い切り抱きしめたい。
服を全て剥いで、肌を密着させ、マリユスの奥の奥に私の精を注ぎ込みたい。
———あぁ、もどかしい。何も、出来ないではないか。
力の入らない体では、愛する人を存分に抱くことさえ叶わないのだ。
「ごめんなさい。一年も離れてごめんなさい。エリペール様を信じられなかった僕は悪い子です。どうか叱ってお仕置きをしてください」
一年経っていたのかと、まだ正常ではない頭で考える。体力も衰えるはずだと、妙に冷静に自分の体と向き合った。
泣きながら私に口付けるマリユスはフェロモンに当てられて、本能に支配されている。
腰を揺らし、屹立を私の腹に擦り付けている。
何を叱る必要がある。こんなにも可愛らしい姿を見せられて。
もっと乱れてくれたって構わないくらいだ。
「キスをしてくれ。気持ちいいのだ」
いつもはマリユスが強請る口付けを、私から強請った。
パワーが漲る。ものすごいスピードで、体の潤いが蘇っていく。
もっと求めあいたいが、一年眠っていなかったせいで極度の睡魔に襲われた。
マリユスが帰ってきた。
これこそが、マリユスが帰ってきた証拠だ。
最初から離さなければ良かったのだ。
難しく考えすぎていた。
大切なのは、身分の差を埋めることではなく、二人で一緒にいることだった。
しかしマリユスが帰ってきた今、私にできることはなんでもやると心に誓った。
二度と離さなくてもいいように。二人の未来のために全力を注ぐ。
今度こそ、マリユスを守るために。
「マリユス、綺麗だ」
本能のまま求め合い、しかし体の動かせない私の代わりにマリユスが動いてくれた。
「あ、んんっ……んっ……」
私に跨り、一生懸命腰を振るマリユスが愛おしくて仕方ない。
ズブズブと肉胴を抉り奥へと侵入する。
温かい。完全に感覚を取り戻した私は、マリユスの中に精を迸らせた。
腕の中にマリユスがいる。
小さく可憐な体を寄せ、私は深い眠りについた。
———完———
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