4 / 4
第4話
幼子は体温が高い。
彼にとってそれは新鮮な驚きだった。
彼の膝で猫のように丸くなって眠る稚児を、飽くこともなく日がな一日眺めて過ごした。
稚児に出会い、彼の生は新鮮な彩 に満ちた。
二人でご飯を食べ、縁側に座り景色の移り変わりを眺めていると、稚児がやってきて彼の膝で昼寝を始める。
汗をかきながら、力強い寝息をもらす稚児は、生命力の塊のように思えた。
袖口で汗をそっと拭ってやりながら、穏やかに過ぎ去る時間を楽しんだ。
半月ほど過ぎると、稚児は日中起きていることが多くなった。
彼の膝に座り、鼻先をかすめるとんぼや縁側に侵入してきた蟻を熱心に見ていた。
彼は稚児を散歩にでも誘おうかと思い立ち、ふと、あることに気づいた。
「おぬしの名前を聞いとらんかったの。
名はなんという?」
「ない」
さきほど食べたスイカの汁でも垂れていたのか、列をなす蟻を観察しながら即答する稚児。
名は単なる記号、とはいえ生まれて親から最初にもらう贈り物とも聞く。人間にとっては重要な意味を持つのではないのだろうか。
真剣な面持ちで蟻の動きを追う稚児の横顔に、形容しがたい感情がうずく。
彼はその感情に名前があることをまだ知らない。
戸惑いをふりはらうように、明るく声をかける。
「よし、散歩にでも行くか」
散歩という概念がないのか、きょとんとした顔で小首をかしげている。
「庭の奥の森にいけばリスに会えるやもしれん」
リスと聞いて、目を輝かせる稚児。
庭先に訪れるスズメやカラスをより熱心に目で追っていることを、彼は知っていた。
いまにも駆け出しそうな稚児に草履を履かせると、左手を差し出す。
戸惑う稚児の手をとり、
「迷ったら困る。
しっかり握っておけ」
離すなよとさらに念を押す。
稚児がこくりとうなずくのを確認すると、ゆったりと歩を進めた。
春夏秋冬。最初は春の庭にするか。
稚児の手を引き、手入れを怠っていたため伸び放題の藪を払いながら進む。
藪の中、悪戦苦闘すること数分。突然、視界がぱっと開けた。
彼らを迎えたのは、むせかえるような甘い花の香と、視界を奪うほどのまばゆい太陽の光。
光に目が慣れてきた稚児の目に飛び込んできたのは、淡い紫。
「……ほう、今回は藤の季節か」
「ふじ?」
何百、何千という藤の花が、枝垂れ、風に揺れ、世界を淡く染め上げる。
言葉もなく、呆けたように立ち尽くす稚児の白い肌が、ほんのりと紫を吸い上げる。
「藤の花は気に入ったか?」
食い入るように藤の花を見つめたまま、何度も首を縦に振る。
「藤丸」
「え?」
「おぬしの名前。
藤丸はどうだ?」
驚いたように彼を見上げた後、視線を落とし、何度も口の中で反芻する。
ふじまる、ふじまる、ふじまる……
おれの名前……?
おれは……ふじまる、ふじまる!
握られた手をぎゅっと握り返し、潤んだ熱を帯びた瞳で彼を見上げる。
彼は藤丸に優しく微笑み返すと、
「気に入ったか?」
柔らかな声音で問うた。
「……気に入った」
また視線を足元に落とすと、頬を染めながら小さく答えた。
満ち足りた気持ちで藤の花を眺めていると、くっと左手を引かれた。
藤丸に目を向けると、
「あんたの名前は?」
問われ、久しく忘れていた自身の名前に思いを馳せる。
「わしの名はな、――」
ともだちにシェアしよう!

