――せんせ。 　それは聞き慣れた呼び名であるのに、特別なやさしさが含まれているように感じた。 　そして甘さも少々。――というのはまあ、邪な希望を存分に反映した意見なのだけれど。 　しかし香りは本当に甘い。どこかで嗅いだことのあるような、強い花の匂い。 　最近、こんな気分のいい夢をたくさん見ているような気がする。夢を見ている間、心はあたたかくなって、時折あたたかいを通り越して熱くなったりもして。 　それらすべてをもたらされたのは、五十数年生きてきてはじめてのこと。 「せんせ、起きてください」 　左側から小さく身体を揺らされて、坂井亨はゆっくり上体を起こす。力を振り絞り重い目蓋を開いたら、薄暗いバーカウンターが辛うじて視界に入った。 　すぐにまた目蓋が落ちてきて、これはいけないと二、三ミリ程度だけの上げ下げを繰り返すという意味があるのかわからない瞬きをする。何度か繰り返していくうちにぼんやりと思考がクリアになっていって此処が馴染みのゲイバーであったことを思い出せたので、ちゃんと意味はあったらしい。 「大丈夫ですか？」 　なおも薄い瞬きを続けていると、伽羅糸のような栗色の髪が流れるのが視界の左端に映った。 　髪の毛先から根元に向かって視線を追っていった先には不安げな表情を浮かべ小首を傾げる青年の顔。 「――茉莉君」 　たしかめるように青年の名前――もちろん源氏名だろうが――を口にすると、青年・茉莉はその表情を緩ませた。しばし意識を飛ばしていた坂井から反応が返ってきたことに安堵したのだろう。 「せんせ眠そう。そろそろ帰ります？」 「んん、そうですね……」 　ふあ、と欠伸をひとつしてから目を擦る。いまいちはっきりしない返事を寄越し今にも眠気に負けそうな様子の坂井を見、安堵の表情を崩した茉莉は呆れたようにため息をついた。 「というより今日はもう帰ってください。タクシー呼んでおきましたから」 「そうですか……ありがとう茉莉君」 　茉莉君はやっぱり気が利きますね。 　寝言のようにそれだけを何とかつぶやくと、頑張ってうっすらと開けていた坂井の目蓋は完全に上下がくっついてしまった。 「せんせ、あとちょっとでタクシー来ちゃいますよ」 　先ほど起こされたときのようにやさしく肩を揺さぶられるが、今回は坂井の目蓋が開かない。茉莉の呼びかけにもむにゃむにゃと返すだけでちゃんとした言葉にはならない。 「せんせー？」 「……んー……」 　そのうち上体を立てていることもできなくなってきて、坂井は左隣のスツールに腰掛ける茉莉にもたれた。 「いいのよ、マリちゃん。寝かせといてあげなさい」 「ママ」 　背後から声がかかり茉莉が坂井を寄りかからせたまま器用に振り返ると、そこにはゲイバーのオーナーでママの啓が立っていた。 　空のボトルやアイスペールを手にしていないところから察するに、坂井の対応に困った茉莉を見かねて対応中の客を待たせヘルプに来てくれたようだ。 「幸い今は他に古い常連さんしかいないし。先生ってばよっぽど疲れてたのかしらねえ？　そう大した数のコマは授業してないはずなんだけど……ハアァどっこいしょ」 　言いながら啓は今にもスツールからずり落ちそうな坂井の右腕を引き上げる。腕の下から背中に手を回し、坂井の上体を肩に担ぐとスツールの中心に重心がかかるよう座らせ直した。 「ううっ……」 　突然逞しい腕に強く身体を引っ張り上げられた坂井は、その不快感に呻いて眉を顰める。すると啓は坂井の後頭部を掴んだと思うとカウンターに向けて勢いよく坂井の頭を押しやり、やや強引に上体を伏せさせた。ぶつけられた額がじくじくと痛む。 「んもう！　せっかくママ直々に介抱してあげようってのに嫌がるなんて、ほんっと失礼しちゃうわこのクソジジイ！」 「クソジジイって……」 「あら、定年間近の歳にもなって飲み過ぎて潰れてるんだからクソジジイよ！　当たり前じゃないの！」 　さらなる反撃とばかりにわざと右耳の近くで喚かれて、坂井は啓から右耳を守るように左向きに寝返りを打った。啓は坂井の子供っぽい態度にやれやれと首を振っているようだが、あまり人のことは言えないような気がする。 「……まあでもどうせこの時間は道が混んでるしね。タクシー来たら教えてあげるから、マリちゃんは先生についててあげてちょーだい」 「そうします」 「先生、迷惑かけたんだからアタシとお客様の分一杯ずついただくわよ」 　今度は空いた左の耳元で大声を出し、坂井のキープボトルで作った焼酎の水割りグラスを二つ持って啓は元々接客していたボックス席に戻っていった。 　――相変わらず嵐のようなひとだ。 　目を瞑っていて見えないが、すぐ傍の茉莉が苦笑いしているのを何となく気配で感じる。きっと似たようなことを考えているに違いない。 　混濁気味の意識の中で、坂井は五分そこらの啓とのやりとりを振り返った。 　いつもどおり、若干ドスをきかせたしわがれた声で気遣いの言葉と悪口を言われた。 　悪口といっても図星のことばかりで歯に衣着せぬ物言いは心に響いて好ましいが　、幾分話し方が粗雑なので酔っ払いの頭に響いてかなわない。さらに坂井の場合、付き合いが長い分遠慮がなくそれが顕著に表れた。 　――そういえば今日は何を言われたんでしたか……。 　朧げに、身につまされるようなことを言われた記憶がある。ひどいことを言われたと思った直後にその意味を聞いて妙に納得してしまった、そんな内容のことだ。 　眠気をこらえて記憶を辿るけれど、どうしてもそこに到達しない。 　――とっても大事なことだった気がするんですけどねえ。 　難航する脳内作業に先ほどとは別の意味合いで唸ると、ふわりとした軽い何かが肩口に触れた。 「こんなのしかなくてごめんなさい。でもこの席、冷房当たっちゃうから」 　茉莉のそっとささやく声が聞こえる。なるほど、肩にかけられたこれは茉莉の、ストール？　だろうか。 　自分で裾を掴み首元まで手繰り寄せると甘くてやさしい香りがした。香水とは少し違う、花のような匂い。 　どこかで嗅いだことのある不思議な香りだが、どこで嗅いだのか何の香なのかも坂井は思い出すことができなかった。 　――ああ。でも、一つだけわかったことがあるんでした。 　最近、茉莉の傍にいるとなぜだか眠くなる。 　春眠暁を覚えずという諺があるけれどまさにその諺どおりで、坂井は茉莉の傍にいるとぽかぽかした陽気を感じ、ついうつらうつらしてしまうのだ。 　今だって、こうして考え事をしていても眠気を阻害されることはない。眠ってしまったときも、啓のように口煩く目覚ましのように喚くこともない。 　つまり、茉莉の傍は――…… 「マリちゃん、タクシー来たって」 　やっと欲しかった答えに行き着きそうになったところで、タイミング悪く迎えのタクシーが到着してしまったようだ。啓の声に起こされるというおまけが付いているのも、なお悪い。 「せんせ、起きれそう？」 「ええ、起きれますよ。起こされましたから」 　啓に対する不機嫌さを隠しもせず、坂井はのそりと起き上がった。春眠から目覚めた熊の如し、だ。 　一方の啓は坂井の相手をするのが面倒になったのか、涼しい顔で受け流し、切った伝票を無言で坂井に差し出した。 　啓の反応に肩透かしを喰らった気分の坂井も無言になって革製の折り財布を渡し、脇で控えていた茉莉から預けてあったセカンドバッグを受け取る。負け一方のやりとりをしている間に取り出してきてくれたようだ。 「今日は荷物これだけですか？　忘れ物とか、ありませんか？」 「忘れ物、はありません。ただ、」 　ただ、君と離れがたくて。 　酔って勢いがついているはずなのに、愛を囁いてもいい場所であるはずなのに、素直に気持ちを口にすることができない。 　しかし何事もなくまた今度と別れるのも嫌でどう伝えたものか、坂井は思い悩んで茉莉から視線をはずす。 　いっそ冗談のように、茉莉が忘れものなのだと言ってしまおうか。そんな台詞はオヤジくさいと笑われてしまうだろうか。 　――でも、茉莉君の可愛い笑顔が見られるならそれもまたいいのかもしれませんねえ。 　そんなことを考えていると、茉莉の背後に立つ啓と目が合った。啓は坂井を見るなりすぐさま呆れ顔をして、口をパクパクさせながら坂井の財布を持つ左手を強調するように右手で指さしている。 　――財布？　が、どうかしたんでしょうか？ 　この店に来たときの支払いはいつも財布を渡して啓に代行してもらっている。基本はクレジットカード、万が一使えないときは現金を使うように言ってあるが、店に来る前にそれなりの額の現金が入っていることは確認済みなので現金不足ではないはずだ。 　はて、と思いよく目を凝らすと、啓の左手には財布の他にタクシーチケットが握られているのが見えた。おそらく坂井の体たらくに、タクシーに乗り込んだ後のことを心配して用意してくれたのだろう。啓は何だかんだ気遣いのできるママである。 「ただ？」 　言葉を止めたまま黙ってしまっていた坂井に続きを促すように、茉莉が上目に坂井を見上げる。茉莉と、茉莉と離れたくない自分と、タクシーチケット。 　――いいことを思いつきました。 　啓が言いたかったのはこれだったのかと、合点がいった坂井は緩んだ顔を一旦引き締めて茉莉と向き合った。 「茉莉君。僕は何とか起きました」 「はい」 「ただですね、僕だけではちゃんと帰れるか心配なんですよ」 「それはたしかに……」 「でしょう？　なので、茉莉君もついてきてくれると嬉しいのですが」 「えっ？　え、と、」 「そうじゃねえよ！　いつまでマリの手握ってんだこのクソエロジジイ！」 　困惑した茉莉が助けを求めるようにくるりと振り返ると、すかさず啓が二人の間に割って入る。 　どうやらセカンドバッグを受け取ろうとして無意識のうちに茉莉の手ごと掴みっぱなしにしていたようだ。そして、啓が呆れ顔で伝えようとしていたことのそのことだった。 　坂井の手から茉莉を引き離しかわりに財布を押し付けて、啓は匿うように茉莉の前に立つ。 「うちはそういう店じゃないの。ジジイだと思って油断してたらこれなんだからもー」 「ああ、茉莉君ごめんなさい」 「だから当然のようにそっちにだけ謝るんじゃないっての！　……マリちゃん、」 　ガタイのよい啓の肩口から覗く茉莉はくすくすと細い肩を震わせて笑いながらその様子を眺めていたが、啓に名前を呼ばれ小声で何かを言われるとバックヤードに入っていってしまう。 　まだ交渉中だったのに。坂井が名残惜しげに茉莉が消えた方向を見つめると、さして時間も経たずにバックヤードから茉莉が出てきた。――着替えをして、荷物を持った姿で。はっとして啓を見る。 「うちの大事なマリちゃんに絶対に変なことしないって誓えるでしょうね」 　般若のような顔で念を押されているにも関わらず、坂井は怯えることなく顔を輝かせ大きく頷いた。 「勿論ですよ。ありがとう啓君」 「いいから早く財布をしまってちょうだい。今までに何回店やタクシーに落としたと思ってるの」 「はは。仰る通りです」 「チケットはマリちゃんに預けて……忘れ物はないわね？」 　鞄はすでに受け取っているし、財布はしまって、タクシーチケットも茉莉に渡した。今日は雨が降っていないから傘は持ってきていない。資料が入った紙袋は大学に置いてきた。あとは―― 　忘れそうなものを指折り数えて思い浮かべていると、不意にその手に真っ白できれいな手が覆いかぶさる。 　白い手は折った指をほどかせて、その隙間から挿し入れるように長細い指を搦めた。 「ありませんよ。皆さんもママもおやすみなさい」 　坂井に代わって答えた茉莉が、絡めた指先にきゅっと力を入れて坂井の手を引く。何が起きたのかをようやく理解した頃にはすでに茉莉に先導されて店のドアの前にいた。 「お、おやすみなさい啓君」 「はーい。先生もマリちゃんもおやすみー」 　茉莉が店のドアを開けたので坂井は慌ててあいさつをする。茉莉の突拍子もないといえる行動に啓は一瞬目を丸くしたものの、すぐに笑顔を作りひらひらと手を振って二人をお見送りしてくれた。 　ドアが閉まる寸前に「大人になるのね」なんていういささか寂しそうな声が聞こえた気がしたが、熱気を帯びた生温かい風に涼しげに靡く茉莉のきれいな髪を見ていたらどうでもよくなった。