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第2話

 バーを出る前には起きましたと公言していた坂井はタクシーに乗り込み運転手に自宅の住所を告げた途端、猛烈な睡魔に襲われた。  少しでも長く茉莉と居たくて、酔い潰れないよう見張ってくれなんていう口から出まかせで何とかその時間を勝ち取ったのに、自分の言葉どおりの状況になってしまっている。  ただでさえバーでも寝ていたのだから、ここで寝てしまっては時間の無駄。坂井は欠伸を噛みころし、必死に眠気に抗おうとした。 「眠かったら寄りかかってくださいね?」  必死の抵抗も虚しく目付きのとろける坂井に気づいたのか、茉莉が坂井の耳元に口を寄せる。  最近眠気を呼び込む茉莉に凭れ掛ればまず寝落ちることは間違いない。そんな状況で、落ち着いた声でそっとささやかれて、触れそうなほど近い茉莉からはやはりいい匂いがして――文字通りの甘い誘惑である。坂井はしばし頭を悩ませた。  一旦は頭を悩ませたものの、思考することすら眠気に打ち勝てなくなってきて。 「……ではお言葉に甘えて」 「はい、どーぞ」  坂井は誘われるまま茉莉の華奢な右肩にそっと頭を傾けた。重量に従い、元々薄めにしか開いていなかった目蓋をゆっくりと閉じる。  そういえばタクシーに乗車する際、茉莉は押し込むようにして坂井を先に乗せ――運転席の後ろに座らせた。  タクシーのいわゆる上座と呼ばれる場所はたしかに運転席の後ろだ。坂井が客であることを考えると、茉莉の行動は別段おかしくはない。  しかし、茉莉の自宅は店から坂井の自宅を少し行った場所にあると聞いている。とすれば先に降りるのは坂井なので、酔っ払いながらに茉莉を先に乗せるつもりでいた。  たとえ自分が茉莉にとって、気遣いをしなければならないうんと年上の客なのだとしても、坂井としては茉莉にそこに座ってほしかったのもある。ちょっと予定が狂ってしまった。  ――なんて、茉莉君にこうして寄りかかってしまっている時点で台無しなんですが。  還暦がすぐそこに差し迫る坂井と二十代になったばかりの茉莉。きっと傍からは親子、あるいはパトロンと情夫のようにしか見えないだろう。啓や他の常連客たちにもよくからかわれていることだ。  そんな風に揶揄されることを、茉莉がどう思っているかはわからない。もしかしたら嫌がっているかもしれないし、ただの戯言として何とも感じないかもしれない。  坂井としては、たとえ事実でも当然のようにそう言われてしまうことが悔しいといつも思っている。茉莉のことを大事に思う気持ちはどの立場でも変わらないけれど、それ以上に想っているのだ。  ――老いらくの恋、というやつでしょうか。  昔、茉莉が店に来たばかりの頃、三十代前半くらいの歳の男が茉莉を熱心に口説いているところに遭遇したことがある。  茉莉が困ったように笑いながらその男から逃げているのを見て、初めは「茉莉君は私から逃げませんけどね」などと優越感に浸っていた。  だが、それがごくごく自然な光景であることに本当は気づいていた。自分の熱情を勢いのままにぶつけられる若さが羨ましかった。  彼らにはない坂井だけが持つものなんて、歳の分だけ重ねた地位と財産、年の功で身に着けた紳士で大らかな態度だけ。最近はそれを披露する余裕もなく、勢いづけのために飲んだ酒に酔い潰れる始末だ。  笑顔のために何かをしてあげたくて、上手く行くようにと緊張して、笑顔を見られたら胸が高鳴って、歳も考えず馬鹿みたいに舞い上がって。  ――茉莉君の前ではいつもみっともない自分になってしまいます。 「気持ち悪いですか?」  知らずのうちにしかめ面をしていたのか、茉莉が不安げに問いかけてきた。  起こしたら悪いと思って小声で話している割に坂井の眉間に触れて寄った皺を伸ばそうとしているのが、何だか可笑しい。  矛盾という堅苦しさよりも、ちぐはぐといったややくだけた表現が似合う茉莉の行動を、心底可愛らしく思う。大丈夫だと言葉で返事をするかわりに繋いでいる茉莉の手にきゅっと力をこめる。 「……着いたら起こすので休んでて大丈夫ですよ」  俺はすぐ隣にいますから。  茉莉に応えるように手を握り返されて、坂井の胸の内ごと包まれた心地がした。  ――これが恋でないなら一体何だというのか。是非教えてほしいものです。  もう少し長くこの時間が続けばいい。  半分眠っていて車外の景色が見えない坂井は、道路が渋滞していることを願いながら安心して――茉莉が手を強く握ってくれているおかげで気分は良好だ――眠りの淵に飛び込んだ。  そこから意識を失うのはあっという間で、気がついたときにはタクシーは郊外にある坂井の一軒家の自宅前に停まっていた。 「せんせ、着きましたよ」  ただひとりしか呼ばない愛称で呼ばれながら控えめに身体を揺さぶられる感覚にも、もうすっかり慣れきった。本日――正確にはもう二時を回っているようなので日付は変わっているが――三度目ともなれば当然のことだろう。 「うむ……」  無遠慮に欠伸をひとつして、坂井は自分の着ているサマージャケットの内ポケットを探る。タクシーチケットを出そうとしたのだ。  ――そういえば茉莉君に預かってもらったんでしたね。  茉莉の肩から頭を起こすのと同時に、その中身も覚醒させる。  運転手には、坂井の家に寄ってから茉莉の家の住所を聞いてそこに送ってもらい、茉莉からチケットを受け取るよう伝えてある。ならば今、坂井がすべきことは車を降りることだ。  乗降に使う自動ドア側に茉莉が座っているので、車線側のドアを開けようとドアハンドルに手を伸ばした。 「ありがとうございました。あとはよろしくお願いしま――おっと」  ドアハンドルに指がかかるより早く、運転手に声をかけながら開けたドアから降車するつもりだった坂井の身体が大きく左へと傾く。 「運転手さん、近いのでここでいっしょに降ります。ありがとうございました」 「えっ、えっ? 茉莉君?」  何事かと目を回している間に、茉莉の膝に寝転ぶ坂井の顔の前をタクシーチケットが横切った。  事態に理解が追いつかない坂井の心情よろしくキャッシュトレーに置き去りにされたチケットを横目に頭を起こし、茉莉に手を引かれエスコートされるがままタクシーを降りる。  思えば店からずっと手を繋ぎっぱなしだった。  だからドアを開けようとしたときに身体が引っ張られたのかと納得し、坂井は絡んだ指から力を抜く。  茉莉はどうしてずっと手を繋いでいてくれるのだろうか。年齢的に手汗のかき過ぎを心配することはほぼないとはいえ、他人の体温が手のひらを伝わり馴染む感覚は不快ではないのだろうか。  精算処理を終えたタクシーが走り去ってもまだ坂井の困惑は晴れない。 「茉莉君、あの……」  言いながら絡む茉莉の手から自分の手を抜き出そうとすれば、阻むようにまた搦め直される。  茉莉の家はこの近くだという話だから、お互いが家へ帰るためには手を離さなければならない。手を繋いだままでは家に帰れないのだ。  もしかしたら帰宅できない理由でもあるのだろうか。  問いかけようとすると、遮るように茉莉が会話の先手を取った。 「せんせ、ちゃんと部屋まで歩けそうですか?」 「部屋まで、ですか? もちろん歩けますけど……」  答えて坂井ははっとする。  茉莉が手を繋ぎっぱなしにしていたのは、坂井の『ちゃんと帰れるか心配だからついてきてほしい』という言葉を真に受けて心配していてくれたからではないだろうか。  漸くもっともらしい理由に思い至り、坂井は猛省した。  同時に、茉莉のやさしい気遣いを向けられたことで心を浮き立たせる。 「茉莉君は本当にやさしいいい子ですね。でも、大丈夫ですよ。茉莉君も知っての通り、酔っ払い慣れていますから」  半分は茉莉に心配をかけないようにするため、もう半分は湧き出て抑えられないにやにやで坂井は笑顔を浮かべ、今度こそ繋いでいた手を離した。  しかし、そんな坂井とは対照的に茉莉の顔はみるみるうちに泣きそうに歪んでいく。 「……ちっともいい子なんかじゃない」 「っわ、」  あっと驚いたときにはもう、茉莉はすがりつくように坂井に抱き着いていた。  サマージャケットの肩口に顔を埋め、背中に腕を回し、密着するように坂井の身体を強い若者の力で引き寄せる。 「俺、せんせが思ってるような子じゃないんです。やさしいとか気遣いができるとか、そういうの全部嘘っていうか、」 「茉莉君? どうしたんですか急に」  宥めるように抱き着く茉莉の背中をやさしく叩くと、茉莉はさらにきつく肩口に顔を押し付けた。 「たとえ嘘なんだとしても、僕にとって茉莉君はやさしくて気の利くいい子ですよ。他にもいろいろありますが――僕は茉莉君が大好きです」  あれほど口から出渋っていた想いを伝える言葉が意外な形で零れる。  いつかバーで見た若者とは違い鷹揚さなど微塵もない台詞で茉莉を口説けたかはわからない。茉莉は驚いたように一度びくりと身体を跳ねさせさえすれ、黙ったまま特に返事をするでもなかった。  それでも坂井にきつく回されていた腕から力が抜けたということは、坂井の気持ちを嫌悪することなく、何かが響いたのだと思いたい。  茉莉の力が緩んだ分、坂井は今一度茉莉をきつく抱き寄せる。 「せんせ……」 「落ち着いたら顔を上げてください。本当はこんなことはルール違反で良くないんですが、その、」  ふちゅ。続きを言い淀む坂井の頬をなめらかな感覚が掠めた。  はっとして腕の中の茉莉に顔を向けると、ジャケットに擦り付けすぎたせいか、わずかに鼻を赤らめた茉莉が顔を上げている。 「わかってます。ママにはないしょですね」  茉莉が上目に妖しく笑んだその瞬間。鼻についたあの甘い匂いが、花が咲き乱れるように一瞬にして辺り一面にぶわりと広がった。噎せ返るような強い香りに坂井は眩暈をおぼえる。  茉莉はその隙を突くようにいつの間にか繋ぎ直していた坂井の手を引き、古めかしい引き戸を――普段から鍵がかかっていないのを、どういう訳か勝手知ったる風情で開け、勢いのままふたりして式台になだれ込んだ。  か細い身体に痛い思いはさせたくないと、咄嗟に茉莉を抱きかかえ受け身を取るまではよかった。 「あいたたた……」  背中にぶつかる冷たい木の感触に思わずこれまでの雰囲気をぶち壊すような間の抜けた声が出て、坂井は痛みではなく羞恥で悶える。  だがそれも束の間、一切が吹き飛ぶような熱を腰回りに感じた。 「?」 「あっ……」  悶えはどこへやら、きょとんとする坂井とは反対に、茉莉の顔が暗い玄関先でもわかるほど朱くなる。慌てて坂井から離れようと身体を捩るも、その拍子に坂井の腰に熱が擦れて完全に逆効果だ。 「どうしよ、おさまんない……」  恥ずかしさが振り切れ、茉莉の双眸から涙がこぼれる。  陶磁器のような頬を滑る熱い滴を親指で拭い、坂井は自身の同じく熱を帯びる場所に茉莉の手を導いた。 「大丈夫。僕もいっしょです」  スラックスを押し上げる部分に白樺の枝のような指先が触れる。初め遠慮がちだったその手は掌をひたりと昂りに添わせると、いやらしい手つきで撫で上げた。 「かたくなってる」 「でしょう? 何て、威張って言うことではないですが……んっ、」  坂井の熱をさらに硬く育てる茉莉の手の動きに息を詰める。 「こらこら」  窘めるように呟いて悪戯をはたらく手首を掴めば、茉莉はぼろぼろと涙をこぼして熱くなったものを擦り付けるように腰を揺らした。 「ごめんなさ、でもっ、」  自分の意志に反して勝手に動く身体はどうにも止められない。  坂井は泣きじゃくる茉莉にあやすように口づけて、舌を搦めながら拘束していた茉莉の手を解く。そうして空いた手で茉莉のパンツの前を寛げて、茉莉の昂りに直接触れた。 「茉莉君からはいつも甘い花の香りがします」  お互いの熱を解放し、荒い息を吐きながら坂井はかねてより思っていたことをぽろりと零した。  脈絡のない会話を唐突に始めた坂井に茉莉が肩を揺らして笑う。 「それはきっと僕じゃなくて匂蕃茉莉ですよ。塀のところに咲いてる」 「ああ、そういえばちょうど今が見頃ですねえ」  ――でも僕は茉莉君からも甘い匂いがしてると思うのですが……。  というのは何だかオヤジくさい口説き文句のように感じるので言わないでおく。  結局茉莉の返事は聞けずじまいだけれど、甘い香りが想いの丈だと思っているということも。 「ともかく、君がこうして傍にいてくれると僕はいつも夢見心地です」  冷たい木の上、ごろりと寝返りを打って些か弛んだ身体に頭を乗せる茉莉の伽羅糸のような髪を梳く。汗ばんでいるはずなのに、妙になめらかな指通りだった。  噎せ返るような甘い花の匂いに包まれて、君と見る夢は幸福で、そんな幸福こそが夢。

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