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第12話 蒼穹の瞳に囚われて

 心地よい微睡みの中、誰かの泣き声が聞こえてきた。 「樹」  と聞き覚えのある男性の声が聞こえ、樹の意識は声がした方へ向かった。そして瞬時に、男性は自分を呼んだのではなく、早乙女を呼んだのだと理解した。 「叔父さん……僕、一人になっちゃいました」  曇り空の下、盛り土の上に大きな石を乗せただけの墓の前で、早乙女は静かに涙を流していた。美しい碧眼を曇らせて、墓石を見つめたまま動かない早乙女の肩に、叔父がシワの目立ってきた手を置いた。 「何を言う、樹。私がいるじゃないか」  苦笑を浮かべる叔父に早乙女が振り向く。 「……叔父さんは帝都に戻ってしまうではありませんか」  そう言ってフッと寂しげに笑った早乙女に、 「私はお前を帝都に連れて帰るつもりだよ」  と言った。それを聞いた早乙女は、涙に濡れた目を見開いて叔父を仰ぎ見た。 「叔父さん、それって……」 「ああ、そうだよ。以前話していた画塾に通うことになる」 「でも、僕にそんな財産は――」 「花ヶ前家がお前のパトロネスになって下さるそうだ」 「えっ?」  早乙女は信じられないという表情を浮かべ、手の甲で涙を拭き取ると、希望に満ちた瞳を輝かせた。  そして場面は切り替わり、花ヶ前家の書生として雑用――庭園の掃き掃除――をしている早乙女の近くを、梗一郎が通りかかった。それに気づいた早乙女は、長めに伸ばした前髪で目元を隠し、持っていた箒を足元に置いて深々と頭を下げた。 「おはようございます、お坊っちゃま。お気をつけて行ってらっしゃいませ」  そう言って梗一郎が通り過ぎるのを待っていた早乙女の視界に、深靴(ブーツ)のつま先が映った。なかなか去ろうとしない梗一郎に痺れを切らした早乙女が、仕方なく頭を上げると公家華族らしい柔らかな雰囲気の梗一郎と視線が交わった。 『混血児(あいのこ)! 鬼の子!』 『その恐ろしい目で見るんじゃねぇ!』  早乙女の脳裏に忌まわしい記憶が蘇り、ハッとした早乙女は、ササッと前髪で目元を隠した。すると―― 「どうして隠すんだい?」 「え?」  驚いた早乙女が顔をあげると、梗一郎の指先がぬばたまの髪をついとさらった。早乙女は、鮮明になった視界で悠然(ゆうぜん)と微笑む梗一郎を見て、頬を赤く染めた。 「……この世に、お坊っちゃまのような美しいひとがいらっしゃるなんて」  樹が無意識に紡いだ言葉に、梗一郎はあははと軽快に笑った。 「その言葉、そっくりそのまま君に返すよ。この世に、こんなに美しい蒼穹(そうきゅう)の瞳を持つひとがいるなんてね」  そう言って笑みを浮かべた梗一郎を見て、樹の顔は可哀想なほど真っ赤になった。 「これから毎朝、君の瞳が見れるなら、私は毎日勉学に励めるだろうね」 「そ、それは」 「だって、美しいものを見ると、気分が良くなるだろう? ――君、名はなんという?」  梗一郎に訊ねられて我に返った早乙女は、火照(ほて)る顔に手の甲を当てながら、躊躇いがちに口を開いた。 「いつき……早乙女樹と申します」 「樹、か。良い名だね。これからもよろしく頼むよ、樹くん。……では、行ってくる」 「は、はいっ! 行ってらっしゃいませ……!」  早乙女は、梗一郎が車に乗り込み姿が見えなくなっても、梗一郎の軌跡を眺め続けていた。 *  夢から目覚めた樹は、自室のベッドの上に横になっていた。  樹の身体は疲労に苛まれていて、目蓋を持ち上げることすら億劫だった。まるで水の中を揺蕩(たゆた)うような心地よさに身を任せようとして、樹はハッと目を見開いた。  室内は暗闇に包まれていて、カーテン越しに射し込む月の光が内装の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。むくりと起き上がった樹は、身体が清められ、清潔な浴衣を身に纏っていることに気づいた。 (もしかしたら全部夢かもと思ったけど、夢じゃなかったかぁ……)  自分が体験してしまった淫らな行為を思い出し、思わず顔を両手で覆う。 (俺……なんであんなこと、)  梗一郎を拒絶するどころか、自分で引き金を引くなんてありえない。どうかしている。と、頭を抱える。けれど―― (……嫌じゃ、なかった。むしろ、梗一郎さんがめっちゃ色っぽくて……興奮、した……)  ――と、考えてしまった自分の頬を思いっきりビンタして、再び頭を抱えて髪の毛をぐしゃぐしゃにかき乱した。 (いやいやいや、どうしちゃったんだよおれぇ……)  一人で百面相をしていた樹は、夢の中で見た早乙女の姿を思い出した。途端、頭から冷水を浴びせられたように、樹の思考は冷静になる。それから胸の奥がズキンと痛んで、浴衣の合わせ目をぎゅっと握り締めた。  胸が痛むのは、早乙女への罪悪感からか。それとも梗一郎と早乙女の関係に傷ついているからか。 「……いや、俺はノンケだから、好きになるのは女の子のはずで……男とそういう関係を持つのはキモくて……」  樹は自分に言い聞かせるようにぶつぶつと呟くが、胸の痛みが和らぐことはなく、むしろ痛みを増強させるだけだった。 「……おれ、もしかして梗一郎さまのこと……?」  そう考えた時、あれだけ痛かった胸の奥がきゅーっと切なく鳴いた。樹は正直な心に絶望し、輝きを失った碧眼で天井を仰ぐ。 (俺は、大切な人が奪われる悲しみを、失う絶望を、知ってる。なのに俺は、早乙女さんから梗一郎さまを奪うのか……? 梗一郎さまの早乙女さんに対する想いを踏みにじることになるんじゃないのか……?) 「俺はどうすればいいんだろ……」  その答えを知っているものは誰もいない。

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