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02.後輩の白井くん
時刻は夜の八時過ぎ。
インターホンの音に玄関先まで出て行った俺が、ドアスコープを覗くなり、
「うわっ……」
思わず声を漏らしてしまったのは失態だ。
「おら、開けろ、白井ぃ!」
在宅バレバレなのは、既に漏れる部屋の灯りで言い訳出来なかったかも知れないが、少なくとも発声しなければ、『ちょうどその時間は近所のコンビニまで出ていた』なんて言い訳ももしかしたら押し通せたかも知れないのに。
しかしこの時間にここへ現れるなんて、明原 應 とは食事に行くことも酒を飲むことも、むしろそのあとも――なんてことは無かったのだろうか?
会って五分で、
「帰るわ」
と席を立たれなかっただけで、今度こそ名須さんの好きなタイプかと期待した部分もあったのに、また外したか~~なんて落胆もあったけれどそれならそれで仕方がない。
また独り身の寂しい先輩の一人酒に付き合う日々は続くのか……と、俺だって彼女居ない身ではあるけれど、せめてダチと遊びに行く時間くらいもう少し欲しいと切実に思う。
「ハイハイ」
結局今夜は観念して、答えながらドアを開けると、
「これ、返すわ」
そう言いながら投げ寄越されたのが、一張羅のメガネなのだから泡食ってそれを受け取った。
今日ホテルのラウンジに着いた時、何故だかいきなりメガネを取り上げられた。俺もいつもはメガネじゃなくコンタクトレンズなのだが、今日は朝から目の調子が悪くて、たまたまメガネで出社していた故の悲劇だった。
「ハッ? あの、メガ……」
――ネまで言わせてもらうことも出来ずに、名須さんは彼らと合流してしまったし、俺はぼやけた視界の中で慌てて着いて行くことしか出来なかった。
視界悪いし、名須さんと明原應との会話は全く弾まないし、コーヒーは美味かったけど妙な緊張感はあるし。明原について来た彼の友人という男の顔だって、薄ぼんやりとして見えなかったし。
帰り道なんて、馴れない駅だったから軽く遭難状態だった。
きっと物凄く目付きと愛想の悪い顔で挙動不審だったろうし、目を酷使し過ぎて今もまだ少し頭が痛い。
で――名須さんはその後あっさりと帰って来たってことだろうか?
それを尋ねると、
「K証のオヤジいるだろ? あのハゲ! あいつに呼び出されたンだよ! だから茶ァ飲んだだけで明原 チャンとはお開きだったよ!」
名須さんはただでも緩んでいたネクタイを解き上着のポケットに入れると、脱いだ上着を適当に放り投げて、俺の部屋の冷蔵庫から勝手に取り出した缶ビールを開け呷った。
「マジですか、呼び出されたんですか」
俺は驚いて、しかしそれ以上に彼の口にした「明原チャン」という呼び名に着目する。明原應 との会話は全く弾んでいるようには見えなかったが、あのあと一発逆転するような展開が二人の間にあったのだろうか?
名須さんが人を呼ぶときは大抵の場合苗字の呼び捨てで、「チャン」なんて愛称のようにつけること自体珍しい。
俺の知っている限りでも、彼の同期の中溝さんに対して「ナカちゃん」と呼んでいることと、実家に居るという愛犬のシグマに対して「シグチャン」と呼んでいるの以外は聞いたことなかった。
「あいつ……明原應のこと気に入りました?もしかして」
躊躇っていても仕方ないので尋ねたら、名須さんはらしくもなく照れるよう苦笑して見せた。
照れるよう苦笑? いや、彼はきっとはにかんでいるんだろう、コレでも。
「えっ!? そんなですか!?」
俺が居た時にはとてもそこまでには見えなかったのに、一体何があったのだろう? と気になるものは気になるんだから仕方ない。
「多分アレだよ、ひとめ惚れ」
「ひとめぼれ!?」
咄嗟にお米の銘柄!? と浮かんでしまうほど、ひとめ惚れという言葉と名須さんとの接点が、俺の中では結びつかずア然とした。
「めちゃくちゃ緊張してたケドよ、すげェ可愛かったろ?明原チャン」
「はぁ」
ニヤけるように言われ、頷きかけて慌てて固まる。ここは下手に同意した方が、機嫌を損ねるかも知れない。
しかも目視確認する前に眼鏡を盗られたオレは、正直明原應の顔をしっかりと確認できないままだったのが本当のところで。
何となく大きなメガネを掛けた、黒髪の、小柄めな、若い子。そんなイメージしかなかった。オタクぽいようなこと言われてたけど、なるほど可愛かったのかアレは。
「ラウンジで明原 チャン見たとき、世界が変わった」
そしてどこかうっとりとするような目で言われ、俺は飲みかけていたコーヒーを吹き出しかけた。
「世界が…」
「すげェ可愛いけど、臆病そうで。俺なんか会って5秒でごめんなさいされそうだろ?」
「はぁ」
オタクくんと元ヤンじゃ完全ビビられて終わりかも知れませんね、たしかに。
「だからチッとでもマジメに見せようと、テメーのメガネ借りたンだよ」
真面目イコール眼鏡のテンプレの安直さはこの際黙って飲み込むとして、それでも元ヤンからインテリヤクザにガラの悪さ的に下方修正された感じがありましたけどね。
「おかげで明原チャンの顔ほとんど見られなかったけど――テメーのメガネ度が強すぎッだろ?」
言いながら睨まれたけど、それは完全なる自業自得な八つ当たりだ。
ちなみに名須さんの視力を聞いてみたら、
「両眼とも2.5」
と、かなり野性的な回答が返ってきた。
「ハゲの用事は割と早く済んだから、メシは終わってても酒くらい……とは思ったんだけどよ」
名須さんの話はまだ続くらしい。仕方ないから頷きで相槌をしながら、俺も冷蔵庫からビールを取り出した。
「酒なんか入ったら絶対ラブホ連れ込む自信あったから、やめといた」
おかげで一番美味しい開けたてのひと口目を、今度こそ吹き出してしまった。
「汚ねーな、拭けよほら」
名須さんは言いながら、まるで自分の部屋のように箱ティッシュを投げて寄越すけど、ほんと誰のせいだと思ってるんだ。
「さすがに会ったその日にそれはねーな、と」
一応分別というものもあったらしいのは感心したけれど、彼が割と下半身ゆるめなタイプだというのを忘れてはならない。
舌舐めずりすらしかねないギラギラとした彼の目に、俺はもしかしてとんでもない人を紹介してしまったのではないだろうか? と思った。
だって相手もゲイだって言うし、大学生のガキとか言うならいざ知らず二十代半ばだっていうならそれなりに経験もあるかと思ったし、なんだかんだそういう相性とか性格のアレとかは本人たち次第だし、名須さんは名須さんでそろそろ身を固めたい的なことボヤいてたからちょうどいい機会かと思ったし、そしたら俺も暇つぶしやクダ巻きに付き合わされないで済むし、彼女とか作りやすくなるかも知れないし。
なのになんでだろう? このとんでもない野獣を放ってしまったんじゃないだろうか? って焦りは。
「白井ぃ」
ソファから立ち上がったかと思った名須さんは二本目の缶ビールを勝手に出してきて、彼のスマホを俺に向かってヒョイと放り投げた。
何でも投げるな、この人は。
俺はスマホを受け取って、
「何ですか?」
尋ねたことを、
「代わりに明原チャンへのメッセ考えて」
後悔した。
「そんなの自分で考えてくださいよ!」
「まだマジメくんで居たいンだよ、俺は」
つまり、猫かぶり続行と言うことだ。猫ってより、羊の皮を被った狼だけど。
とりあえず、また誘い出して食事とかしたいんだろうと、それっぽくメッセを打って送信する。
すぐに既読がついて、
『俺で良ければぜひ』
なんて、社交辞令だろうレスポンスが返ってきた。
「返信来ましたよ?」
「ハ? ――テメ、なに送ったんだよ!? 俺に言ってから送れよ!! つか、俺より先に明原 チャンからのメッセ見ンな!!」
名須さんはガタリと立ち上がって言うけれど、トーク画面を開いたままなのだから見えてしまうのは仕方ないだろう。
「うわ! マジかよ!? メシ行くって言ってンぞ!?」
名須さんは俺の肩をバシバシ叩いて言う、かなり痛いが嬉しそうだ。
「社交辞令だと思われてますよ、コレ」
だからズバリと答えたら俺を叩く手が止まり、
「ハァ?」
とガチめのメンチ切られた。
うわぁ、チンピラかよ。件の明原應 が見たら、即行逃げられそうな凶悪な顔。
「しゃこーじれーッてのは、ハゲとかにやるやつだろ? なンで俺が明原チャンに社交辞令言わなきゃなンねーんだよ!?」
ダン! と足を踏み鳴らすけど、ここ二階だし、下の住人の迷惑になるからやめてください。
「もう付き合ってくれとか言ってるんですか? 相手に」
だからそもそもの問いを投げると、
「言ってねーけど、まだ」
勢いの削げたチンピラがまたちょっと照れ臭そうな顔をしたから、俺は何とも尻の悪い思いをした。
「ひとめ惚れでもなんでも、惚れたなら言っちまえばいいでしょうが? 手っ取り早いんだから」
そして歯痒いような気持ちになるのも、これ以上面倒をかけられるのが嫌だからだろうか?
「結局、名須さんは明原チャンとどうなりたいんですか? 俺、ああいう純朴そうな子に遊びで手を出して捨てるとか、そういうのに協力するの気が進まないんですけど」
しかしこの罪悪感は、早めに雪いでおかなければならないタイプのやつだろう。
「ア? 遊びな訳ねーだろ?」
名須さんは俺の言葉に眉を吊り上げると、
「結婚だよ、俺は明原チャンと結婚するんだよ!」
「結婚……」
「そーだよ、あと、テメーまで明原チャンって言うなバカ!」
まさか名須さんの口から「結婚」という言葉が出てくることなんて想像もできないでいた俺は、呆然とした。
もちろんこの国では未だ正式な同性婚は認められていないから、彼らの言う「結婚」がパートナーシップ制度のことを表しているのは知っている。
正式な入籍は認められていないけれど、パートナーシップ制度で婚姻と同等であるという承認を受けることは出来るのだし、同居実績によっての公的社会的に事実婚が認められるということも男女カップルと変わりなく扱われ、社会保障なども法律的にも同等なものを受けられるようになったってのも、ここ最近の話ではない。
けれど本当に? あの名須逸希 が?
たしかに身を固めたい的なことは言ってたけど、それは決まった彼氏が欲しい的なことかと思ってた。すぐ飽きて他に行くんじゃないか?
「結婚考えてるなら」
「ン?」
「今度会ったときプロポーズしないとですね」
俺の言葉に名須さんは、
「ッたりめーだろ?」
何故か呆れたように言うから、俺の方が呆れてしまう。
「でも――」
「ア?」
「アイツに手を出すのは、ちゃんと結婚するまで待った方が良いんじゃないですか?」
多少のブレーキはかけておくべきだと思う。とりあえず、名須さんの結婚の意思がガチだと仮定するなら。
「ハ? 明原 チャンと付き合ってもヤるなッてことォ?」
案の定、付き合い始めたら速攻ヤる気だったらしい名須さんに、
「スピード婚目指せばいいじゃないですか、ああいう身持ち堅そうなヤツにすぐに手ぇ出したら身体目的だと思われますよ、フラれますよ」
「ッエ!?」
フラれるという言葉は衝撃的だったのか、名須さんの顔が分かりやすく強張りゴクリと大きく唾を飲む。
「結婚したらいくらでもヤレるんだから、少しくらい我慢しましょうよ」
「たしかに……結婚すればヤリ放題だからな……」
いいや、相手あってのことなのだから、なんぼなんでもヤリ放題はないでしょ? とは思ったけれど、ここで話の腰を折るのもなんなので黙っておく。
そうして俺の咄嗟のファインプレーによって、明原應 の当座の貞操は守られることになった訳だが。
よりにもよってそれが、彼らの結婚観までも微妙にすれ違わせる結果になるなどと、その時の俺は予想もしていなかったのだった。
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