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邂逅(かいこう)
豪雨の夜。フロントガラスを打ちつける雨音は単調で、眠気を誘う子守唄のようだった。街灯は滲み、外の景色はぼやけた抽象画みたいに形を失っている。九条 遙(くじょう はるか)は、ただ静かにハンドルを握ったまま目を細めた。呼吸は穏やかで鼓動すらもいつも通りだ。
『遙……君は僕が思っていた理想とは違った……君には失望した』
(……そうか)
誰かに期待するなんて無駄だと、ずっと思ってきた。やはり今回もその確認作業に過ぎなかったらしい。ワイパーが一定のリズムで動く音だけが、虚しく車内に響いていた。
あれから数日後。街を歩いていた遙の視界にふと、一枚のポスターが飛び込む。
【美大生展覧会 —解放—】
いつもなら気にも留めないのに何故か興味が湧いた。失恋の影響かは分からない。気づけば、遙は会場へと足を運んでいた。乾いた心を埋めるように、展示された絵や工芸品などを眺め歩く。そして、ある絵の前で足が止まった。河川敷を描いた風景画。空はピンクに染められていて、夕焼けでも朝焼けでもない、不思議な世界。興味と共に、酷く胸を締め付けられる。
「あれ、もしかしてそれ、気になります?」
突然背後から声が掛かる。振り返ると、茶色の髪に鋭い目をした若い青年。何処か不機嫌そうで人を寄せ付けない空気を纏っている。
「……君がこの絵を?」
「はい、そうですけど……」
その青年は訝しむ表情から打って変わって、はにかんだ目で遙を見る。少しの沈黙の後、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。遙はその琥珀色の瞳に潜む寂しさと渇きを見た気がした。青年は躊躇いつつも近寄り、こちらを射抜くように再び視線を合わせる。遙は一瞬驚いたものの、平静を装って声を掛けた。
「不躾で申し訳ないんだが、この空は何故ピンク色なんだ?」
青年は眉を寄せ、伏し目がちに。その仕草は何処か繊細で幼さの色が見える。
「……腹減ってたんすよ」
か細い声が聞こえる。遙は思わず聞き返した。
「……腹?」
青年は更に顔を赤らめ、視線を泳がせながら襟足を指でクルクルと弄る。何だか拗ねた子供みたいだな、と遙は思った。
「はい……だから、ピンク……は……肉、のイメージ」
一拍の沈黙。あまりに突拍子もない答えに、遙は笑いそうになる。けれどその顔に浮かんだ恥じらいと無防備さに胸の奥が詰まった。少し刺々しい見た目に、今自分に見せるこの素直さ。無意識に愛らしく感じる。
「……肉、か」
つい口元が緩む。青年は困ったように更に襟足を弄り、舌打ち混じりに小声で呟く。
「……言わなきゃ良かった……」
遙は、その不器用さが堪らなく愛おしく思えた。先日まで何も埋められなかった虚無の底に、確かな熱が流れ込んでくる。この瞬間が、遙にとっての落ちる瞬間だった。遙は目の前の青年に強烈に惹かれていく自分に気づく。鋭い目、素直な感性。でも何となく、内側に隠した繊細さと寂しさ。ふと彼の目元を見やると、目の下には深い隈が刻まれていた。徹夜で描いたのだろう。
「俺の絵、誰も見てくれなくて……」
青年は自分が描いた絵を見ながら急にポツリと呟く。遙もそれに釣られて視線を移す。
「でも、アンタが見てくれてたから、嬉しくてつい、話しかけちまった……です」
その言葉と同時に、彼は笑った。鋭い表情を吹き飛ばすような、無邪気で太陽みたいな笑顔。遙は息を呑む。その一瞬があまりにも眩しくて、言葉を失った。
「……じゃ」
「ま、待ってくれないか」
遙は絞り出すような声で引き留めた。不思議そうに振り返る青年。
「……名前は?」
「名前?別に、名乗るほどのモンじゃねぇけど……」
照れくさそうにまた視線を逸らし、癖なのか、襟足を指で巻く仕草をする。遙にはその全てが無防備で、そして何より可憐に見えた。
「匠。……藤宮 匠」
遙は、この藤宮 匠(ふじみや たくみ)と名乗った青年に、静かに自分の心に熱を帯びていくのを感じていた。柄にも無く、これが「運命」という奴かもしれない、と。
「……俺は」
遙は言葉を切り、ジャケットの内ポケットに手を差し入れ、名刺入れを取り出す。滑らかな手つきで一枚取り、それを匠に読みやすい向きに整えて名刺入れの上に置くと両手で差し出した。
「九条 遙です」
低く穏やかな声。それは商談の場で使われる、完璧に研ぎ澄まされた「社会人」の顔。だが、今その青灰色の瞳は、ただ匠だけを映していた。匠は一瞬、目を丸くする。
「え?……あ、あぁ……ご丁寧に、どうも……」
戸惑いながらも両手で名刺を受け取る。手先は僅かに震え、その頬には赤みが差す。遙の視線は匠の手の動きから、その首筋、伏せがちな睫毛の影までを追いかける。無意識に唇の端が微かに上がった。
「……名刺なんか別に、いらねぇのに……」
そう小さく呟き、匠は視線を彷徨わせた。しかしその声は何処か嬉しそうで。照れ隠しの為に襟足を弄る癖が再三、三度。遙は胸の奥が欲で染まり始める。この青年をもっと知りたい。あわよくば、触れたい。どんな表情を隠しているのか、どんな寂しさを抱えているのか、全て自分の手で暴きたい。この瞬間から、九条 遙という男の狂愛の歯車は静かに、だが確実に回り始めていく。
「……あの、匠くん」
遙は一歩、匠へ近付く。その青灰色の瞳がまっすぐに匠を捉える。
「どうしても……君と繋がりたいんだが」
「はぁっ!?」
匠の肩がビクッと揺れる。遙は情熱的な眼差しで匠を見つめて離さない。何故かは分からないが身の危険を感じる。単なる友好的な目では無い、恐怖すら覚える視線。
「連絡先を交換しよう」
今まで何人かの女性と付き合った事はあるが、こんな目をして迫られたことは一度も無い。しかも相手は男で初対面の人間だ。匠は人見知りだが、そうでない人でも警戒するだろう。
「え、ちょ、ちょっと!今、会ったばっかなのに、無理っ!」
焦りから声が裏返る匠。思わず数歩後ずさる。遙はただ柔らかく微笑むだけ。その表情は優しさにも、しかし何処か狂気を含んでいるようにも見える。
「……君の絵が気になるんだ。また、見せて欲しい」
そう言うと遙は匠に渡した名刺を、そっと指差す。
「とりあえず、何かあればその名刺に書いてある番号にいつでも掛けてくれ」
それだけ告げると、遙は静かに踵を返す。結われた銀色の髪がふわりと宙を舞い、優雅な曲線を描く。匠は呆然と、その背中を見送るしかなかった。
「……何だあの人……意味分かんねぇ……」
呟いた声は無意識に震えていた。胸の奥で初めて味わう種類のざわめきが広がっていく。匠にはまだ、それが何の感情なのか分からない。自分が男に見初められたなんて、思ってもいない。
「匠!おーい!」
展示室の入口付近から友人の声が響く。その声で匠はハッと我に返る。
「何だよあのイケメン、知り合いか?」
駆け寄ってきた友人が興奮した様子で匠の肩をバシバシ叩く。
「しっ……知らねぇよ!!俺も今日、会ったばっかだよ!!」
声が裏返り、顔が真っ赤になる匠。手は落ち着きなくポケットの辺りを彷徨う。
「へぇー?あの人、お前とめっちゃ距離近かったけど何かあった?」
「な、な、何もねぇよっ!」
慌てふためく匠を友人は面白がるようにからかうが匠は必死に誤魔化す。気づけば遙から渡された名刺を、そっと取り出して裏表を確認する。そして、周りに見られないように後ろのポケットへと急いで滑り込ませた。
(俺の絵が気になる、か……)
胸の奥では、今まで味わった事のない熱が広がる。言葉では説明出来ない、否定しきれない、何処かくすぐったくて、ちょっと嬉しいような。無意識に口元が柔らかく綻ぶ。変な人だったが、何となく自分の絵が褒められた気がした。
「……匠?お前、何ニヤけてんだよー?」
「う、うっせぇ!ニヤけてねぇ!!……ってか帰るぞ!!」
誤魔化すように歩き出す匠。友人は首を傾げながらも、その後ろを追いかける。ポケットに隠した名刺の存在が、じんわりと温かく感じる。まだ名前しか知らない男が脳裏をよぎる。匠は、その理由に気づくはずもなかった。
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