2 / 30

焦燥(しょうそう)

夜。遙は自室の薄暗い灯りの中、静かに考え込んでいた。交際相手と別れたばかりだというのに。否、だからこそなのかもしれない。だがそれにしても、あの青年への想いは自分でも説明がつかないほど強烈だった。 (こんな感情……初めてだ) 机の上に置いたスマホをじっと見つめる。通知は何も来ていない。匠が連絡してくるはずも無いと分かってはいるのに。 「……藤宮匠……」 静かに名前を呼ぶ。その音が、部屋の空気に溶けていく。冷めかけたコーヒーに口をつける。苦味が喉を滑る感覚だけが、現実に繋ぎ止める唯一の鎖のようだった。 「ははっ……」 思わず漏れる乾いた笑い。普段なら自分を律する事に長けた遙が今夜ばかりは制御不能だ。頭の中では、あの琥珀色の瞳が何度も浮かぶ。自分の目を避けながらも、ふと見せたあの無邪気な笑顔。指先で襟足を弄ぶ、あの仕草。全てが脳裏に焼き付いて離れない。 (単なる一目惚れでは無い……違う) まるで、ずっと前から知っていたような、どうしても失いたくないような。そんな、説明の付かない感情が湧き上がる。 「……藤宮匠、か……」 そっと再び名前を呼ぶ。それは、もはや独り言ではなく静かな誓いのよう。 アパートの小さな一室。机の上には開きっぱなしのノート、散らかったペンやスケッチブック、食べ終わった空のカップ麺。匠はベッドに寝転びながら漫画を読んでいた。 ……が、全く頭に入らない。 (……クソ、何だったんだよ、あの銀髪……) ページを捲るたびに昼間の男の顔が脳裏に浮かんでくる。切れ長の青灰色の瞳。冷たくも見えるのに底が知れないほど深い眼差し。それに、あの綺麗にまとめられた長い銀髪。思い出すだけで胸の奥がざわつく。 「確かに、男の俺から見ても、ちょっとカッコよかったけど……って、俺はホモじゃねぇ!!」 思わず叫び漫画を荒々しく閉じた。勢いのまま、ベッドの上でバタバタと暴れる。 「はぁ……やっぱり変な奴だったな、アイツ……」 一息つき呼吸を整える。ふとポケットから例の男から貰った名刺を取り出し、改めてよく見てみる。 「九条遙……ねぇ……」 暗い部屋の中、小さな照明に照らされた名刺の文字を何度も目でなぞる。別に連絡するつもりはない。それでも、名刺を捨てる気にもなれない。印刷された遙の名前を指先でそっと撫でた。 「俺の絵が気になる……って言ってくれてたよな……」 小さく呟き、また胸の中に何ともこそばゆい熱が広がる。顔を真っ赤にしながら、匠は名刺を机の上に叩きつけるように置いた。 「……クソ……マジで意味分かんねぇ……」 そう吐き捨てるように言うと頭まで布団を被る。布団の中で無意識に浮かべた微笑が、自分でも気づかないほど優しい顔をしていた。 夜が明けても、匠は一睡も出来なかった。 (……何でだよ……何でアイツの事ばっか考えてんだよ俺は……) 布団の中で何度も寝返りを打ち、頭を抱え、スマホを触ってみたり、意味もなく天井を見つめたり。何をしても脳裏にはあの長い銀髪と、青灰色の瞳がチラつく。 (クソ!もう思い出すな……!) 気づけば外はもう朝の光に満ちていた。 「あーもう!!……ぜ、全部アイツのせいだっ!!」 大声を上げ、ガバッと布団を剥いで飛び起きた。最低限の着替えだけを掴み、鏡もろくに見ず乱暴に着替える。パーカーを羽織りながら、名刺の存在が頭をよぎる。 「……バーカ!」 首を横に振り、玄関へ駆け込む。扉を勢いよく開け、外に飛び出す。息を切らしながら階段を駆け下りると、路地を全力疾走。 (ちくしょう……俺はホモじゃねぇ……!!) 頭の中で何度も唱える。でも、心の奥では別の声が聞こえる。 (……でも……アイツ、やっぱり……) 否定の声と妙な温かさが混じる。そのせめぎ合いに胸が苦しくて仕方がない。 大学の門をくぐる頃には既に顔は真っ赤で髪もボサボサ。それでも無理やり気持ちを押し殺すように、荒い息を吐く。 「……全部、アイツのせいなんだ……っ」 自分に言い聞かせるように呟く声は、何処か弱々しかった。 「よぉ、匠!」 校舎に入るや否や、友達に大声で呼ばれる。匠は振り返る間もなく肩を掴まれ顔を覗き込まれた。 「お前、顔真っ赤じゃねーか!どうした!?走ってきたのか?」 「う、うるせぇ!!放っとけ!!」 「また徹夜して絵、描いてたんだろー?」 「ち、違ぇよ!!」 強引に肩を押し返し、匠はそそくさと教室へ歩き出す。しかし友達は更にしつこく絡んできた。 「てかさー、昨日の展覧会の銀髪のイケメン、あれ誰よ!?もしかしてナンパされてた!?おっほー、モテるなぁ匠!」 「知らねぇって言ってんだろ!しつけぇな!!」 半分本気、半分照れ隠しで叫ぶ匠。そのまま乱暴にドアを開け、席にドカッと座り込むと友達の声をシャットアウトするように机に突っ伏した。 講義中。黒板の文字が、まるで異国の言葉のように見え、教授の言葉も右から左に流れていく。隣では友達が相変わらず小声でからかってくるが、もはや耳に入らない。 (……九条遙……) 心の中で名前を呼ぶたび胸の奥がチリチリと熱くなる。切れ長の青灰色の瞳。自分だけを見つめる、あのまっすぐな視線。名刺を渡された時の落ち着いた声と仕草。 (……何でだよ……思い出すな……!!) 鉛筆を握り締める手に無意識に力が入る。強く握り過ぎて芯が折れ、パキッと小さな音が響いた。 「チッ……」 小さく舌打ちして折れた芯を見つめる。何故か遙に見透かされてるように感じた。 (アイツのせいだ……何もかも全部……!!) 無理やり視線をノートに戻す。ページの隅にはいつの間に書いたのか「九条 遙」と書かれた文字があった。 「っ……!?」 慌てて消しゴムで消す。だが筆圧が強かったのか、はっきりと紙に残る跡を見て胸に刺さる。 (……ヤバい……俺、どうかしてる……) 強気で誰にも縛られないはずの自分。けれど、そのプライドの隙間に、あの銀髪の男が滑り込んでくる。心の殻がひび割れ、そこから徐々に侵食されている気がした。無意識に後ろ髪に触れ、指に巻き付ける。 (クソ……クソッ!!) 結局この日は何一つ集中出来なかった。講義も、課題も、友達の話も、頭の中にずっと居座るのはあの長い銀髪の男の事ばかり。 (……あー!何なんだよアイツは……!!) 意地で走り抜けたはずの一日だったのに、帰る頃には身も心もぐったりと重かった。寝不足のせいか、足取りもフラフラだ。部屋に戻ると机の上に放り出されたままの名刺が視界に入る。 「はぁ……」 深い溜め息を吐く。視線は名刺に吸い寄せられ自然と手が伸びる。 (……お前のせいだからな……) 匠は拳を握り締め、気持ちを抑えようとする。だが胸の奥に溜まった感情は、もう簡単に飲み込めるほど弱くなかった。 「お前のせいで何もかも集中出来なくなったって、文句言ってやる……!!」 そう言い捨て、勢い任せにスマホを手に取る。手は震え、心臓は壊れそうなくらい速く打つ。 (出るワケねぇよな……でも……でもっ!!) 名刺に書いてある番号を見ながらスマホをタップし、震える指で緑色の電話マークを押す。呼び出し音が、いつもより何倍も頭に響くように感じる。 (……出んなよ……いや、出ろよ……やっぱり出んな……!!) 矛盾した気持ちが頭の中をグルグル回る。けれど、全てはもう遅い。 「はい、九条です」 低くて穏やかな声がスマホ越しに流れた。匠の全身から一気に血の気が引く。 「あっ……」 言葉を探す舌が空回りする。胸の奥から何か熱いものが込み上げる。 (……やっべぇ……繋がっちまった……!!) 後悔先に立たず。匠の頭はその瞬間、フリーズした。

ともだちにシェアしよう!