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翻弄(ほんろう)
「匠くん……だな。何かあったのか?」
低く落ち着いた声が耳に届くと、匠の背中に冷たい汗が伝った。
「あ、な、何でも……いや、その、えーっと……」
言葉がまとまらない。あれほど「文句言ってやる!」と息巻いていた威勢は何処かへ吹き飛んでいた。電話の向こうでは小さな笑い声が漏れる。
「ふふ……まさか、本当に掛かってくるとは思わなかったよ」
その声は妙に優しくて、けれど底が見えない。まるでこちらの全てを包み込むような、でも同時に飲み込むような、そんな恐ろしさを孕んでいた。
「なっ……お、お前が無理やり名刺渡してきたんだろ!!」
ようやく声を絞り出す匠。言葉が荒くなるのは動揺を隠す為。パーカーの裾をギュッと握り締め、必死に冷静を装う。
「……そういえばそうだった。捨てずに取っておいてくれたのか」
遙の声は、あまりにも穏やかだった。だが、その言葉の端に、身震いするほどの執着が滲む。
「っ……!」
匠は喉の奥が詰まったように息を呑む。怒鳴り返そうとした言葉も上手く出てこない。
「……君の声が聞けて、とても嬉しい」
「なっ……何言って……っ!!」
赤くなった顔を隠すように匠はその場で膝を抱える。電話の向こうの遙には見えないと分かっていても、胸の中の熱は隠し切れなかった。
「……そうだ、また君の絵を見せて欲しい」
遙の声が更に一段、低く響く。それはお願いにも聞こえるし、命令にも聞こえる。そんな曖昧で甘い響き。
「お、お前……!」
匠の顔は更に赤くなる。心臓がドクドクと耳元で鳴り響くように聞こえる。
「お前の……お前のせいで、新しいのはまだ描けてないっ!!」
声が裏返るほどの勢いで叫ぶ。電話口にも関わらず腕を振り回して全力の抗議。
「ふふ……俺のせいか……」
遙は楽しそうに笑う。その余裕たっぷりの声音が更に匠を追い詰める。
「くっ……!」
思わずスマホを握り締め、言葉を探すが何も出てこない。脳内は真っ白。唯一残っているのは、自分でも理解出来ないくらい昂った感情と鼓動だけ。
(クソ……何で、何で俺がコイツのペースに飲まれてんだ……!?)
その瞬間、匠は強烈な後悔に襲われる。
(……勢いで電話なんかするんじゃなかった……!!)
「もう……もう切るっ!!」
ほとんど悲鳴に近い声を上げる。だが、遙の声はまた静かに、甘く響く。
「……また、君の声が聞けるのを待ってる」
「もうお前に電話なんかしねぇよ!」
そう言い放つと、匠は勢いよく通話を切った。スマホをベッドに投げ捨て頭を抱える。
「……何で俺、あんな電話……!」
顔を真っ赤にして、ジタバタと布団の上で暴れる匠。自分で自分が理解出来ない。切った後も耳に残る遙の声が甘く絡みついて離れない。
通話が切れる「プツッ」という音が遙の鼓膜に小さく響いた。だが、遙は眉一つ動かさずにスマホをそっとテーブルに置く。そして静かに、優雅に微笑んだ。
「……ふふ……可愛い子だ」
切れ長の青灰色の瞳は何処か遠くを見つめるように細められる。薄い唇が愉悦に、僅かに吊り上がる。
(一週間。もし一週間何も無かったら大学に行って直接会いに行くつもりだったが……)
遙はスマホの液晶を優しく撫でる。
(……手間が省けたな)
その思考に、恐ろしいほどの冷静さと確実さがあった。仕事では誰よりもスマートで理知的に見える遙。だがその本性は、ただ一人の青年に向けられる執着と狂気の塊。
(何故こんなに惹かれるのか……)
問い掛けるように自分の額に手を当てる。しかし答えは出ない。無論、それを知る必要も無かった。運命、必然、本能。在り来りだが、この辺の言葉に当て嵌めるとしっくり来る気がした。
(……知りたい。あの瞳の奥を、声の震えを、指の動きを、全部……俺だけのものにしたい)
思考の奥底に渦巻く欲望は冷たく、そして甘美だった。
「……藤宮匠……」
ゆっくりと、その名前を呼ぶ。それは愛の囁きにも、呪いのようにも聞こえた。遙は小さく息を吐き、ゆったりとした動作でソファに身を沈める。彼の脳内には、あの琥珀色の瞳と頬を赤く染めた匠の姿だけが無限に繰り返されていた。
朝。匠は床に倒れたままスマホを握り締めて寝落ちしていた。
「……っは!やっべぇ!!」
一瞬で目が覚め部屋の時計に視線を飛ばす。もう一限目が始まっている時刻、完全にアウト。
「マジかよ……!!」
慌てて床から起き上がり服を脱ぎ捨てると浴室へと飛び込んだ。ベッドでちゃんと寝なかったせいで全身が痛む。熱めの湯が頭から降り注ぐが冷や汗は止まらない。
(昨日の電話……あーもう俺のバカ!思い出すな!!)
頭を振りながらバタバタと身支度を整える。髪もちゃんと乾かさずにボサボサのまま大学へダッシュした。
大学構内にて。
「おーい、匠!お前また遅刻かよ!?」
「……うっせぇ!」
息を切らして教室に入ると、友達がニヤニヤして出迎える。
「いきなりだけどさ、この前の銀髪のイケメン、やっぱ気になるわ!あれ、絶対どっかのモデルか俳優だろ!」
「もうその話すんな」
うんざりした顔で手を振り払い席にドカッと座る匠だが、耳の奥にはあの声がまだ残っている。
(……あの声……クソッ!!)
その時、別の友達が声を掛けてくる。
「あ!そういえば今日の夜、合コンあるけどお前も来る?」
「え?」
突然の誘いに一瞬固まる匠。
(合コン……?)
心の中で自分に言い聞かせる。
(俺はホモじゃねーからな……女の子と話して癒されよう!)
そして即座に答えた。
「あぁ、行く行く!!」
「おっ珍しいな、お前が即答するとか」
「……いいだろ別に、うっせぇな!」
そう言いながらも胸の中に微かな引っ掛かりが残る。何故かは分からない。しかしそれでも無理やり忘れたかった。
(……早く、夜になんねぇかな……)
匠は視線を外し窓の外を見つめる。けれど胸の奥のざわつきは、むしろ強くなるばかりだった。
匠は大学近くの居酒屋で、奥の席で女の子達と笑顔を交わしていた。最初は楽しそうに話していたものの……。
(……何か、飽きてきたな……)
笑い声も、視線も、全てが薄っぺらく感じてしまう。相手は可愛いし愛想も良い。でも、どんなに話しても心に引っ掛かる感覚は消えなかった。
(……何でだよ……)
無意識に青灰色の瞳が脳裏に浮かぶ。見透かされているような、あの視線と低い声。
(やめろよ、こんな時に。もう思い出すな……!!)
「匠くん、二次会行くよね?」
「……わりぃ、今日は帰るわ」
そう言って立ち上がると周囲からは「えー!」と声が上がるが、匠は特に言い訳もせずリュックを掴み、机に自分の分のお金を置くとそのまま退店した。
(……早く帰ろ……)
外に出ると冷えた夜風が頬を撫でる。火照った顔を冷ますように深呼吸を一つ。
(何か微妙だったけど、これでいい……これで俺はホモじゃねぇ……)
そう言い聞かせ歩き出したその瞬間。
「……また会ったな。今帰りか?」
背後から低く、響く声が聞こえた。
「っ……!?」
身体が硬直する。ゆっくり振り返ると、そこには長い銀髪をポニーテールにまとめた男、九条遙が立っていた。街灯に照らされたその姿は、やけに静かで、そして恐ろしく優雅だ。
「お前っ……何で……」
言葉を失う匠。胸の奥が一気に熱くなる。さっき食べ過ぎた故の胸焼けでは無い。逃げるべきだと頭では分かっているのに、足はその場に縫い付けられたように動かない。遙はいつものように静かに微笑む。
「偶然だな……」
その瞳は、まるで夜の獣のように光っているように見える。
「い……今から帰るとこ」
匠は小さな声で呟き、そっぽを向く。頬にはほんのり赤みが差していて街灯の下でそれがよく見える。遙は微笑みを浮かべ、ゆっくりと一歩近づいた。
「……そうか。夕飯は?」
「もう食った……」
目を合わせられず、ひたすら俯く匠。指先はポケットの中で忙しなく動いている。
「俺は、まだ済ませていないんだ。良かったら付き合ってくれないか。……奢るから」
その言葉に匠はバッと顔を上げる。切れ長の青灰色の瞳がまっすぐに自分を見つめている。
(……何だよ、その目……)
お腹は空いていない。むしろさっき食べ過ぎた。それなのに言葉が出ない。低く柔らかい声とは裏腹に、有無を言わさぬ眼差し。拒否権など、まるで無いように見える。
「別に、いいけど……」
まあ奢ってくれるなら良いか、と安易に考え了承した。眼前の視線の圧が強かったから、も少しあるが。遙は小さく息を吐き嬉しそうに目を細めた。
「……有難う。では行こうか」
軽く手を差し出す遙に、匠は慌てて先に歩き出す。
「お前バカだろ、誰が手なんか繋ぐかよ!ガキ扱いすんな!!」
背を向けながらも耳まで赤く染まる匠。遙はその後ろ姿を、まるで宝物を見守るような瞳で追う。
(……やはり、可愛いな……)
心の中でそう呟く遙の唇には、静かな微笑が浮かんでいた。
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