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陥落(かんらく)
「……匠くん」
低く、囁くような声。ビクッと肩を跳ねさせ反射的に数歩後ずさる匠。しかし部屋は狭く、すぐに背中が壁にぶつかる。
「な、何だよ……」
遙はゆっくりと、だが確実に距離を詰める。
「……そんなに怯えるな」
目の前に遙の顔が近づく。
「俺はただ、君と……」
遙の瞳が深く鋭く、妖しく光る。
「ち、近ぇよ……何だよ離れろよバカ……」
声が震え、掠れる。遙という名の壁に阻まれ、たじろぐ。不意に遙の手が、ゆっくりと匠の頬に触れた。
「二人きりで話がしたいだけだ……」
低く甘い声。指先は優しく、けれどそこには逃げ場のない支配があった。
「っ……」
その瞬間、脳裏にあの夢が一気にフラッシュバックする。
(……や、やめろ……やめてくれ……)
身体が震え、背筋から冷たい汗が滴る。思わず無意識の衝動で遙の手を思い切り払い除けた。
「……やめろ!!」
匠の激しい拒絶が部屋に響く。青白くなっていた顔は火がついたように真っ赤になり、呼吸は乱れ肩が大きく上下する。視線は合わせられず足元を見つめる。熱に浮かされたような視界。遙は払い除けられた手を見つめ、ゆっくりと瞳を細める。
「……そうか」
その声は決して怒りでは無かった。むしろ更に深い執着と甘さを帯びている。匠は依然、顔を真っ赤にして息を切らしながら壁に張り付いていた。
「はっ……はぁ……っ」
身体中が熱く、同時に冷たい恐怖が背を這う。遙は払い除けられた手を静かに下ろし、ゆっくりと匠を見つめる。
「何をそんなに怯えている?」
低くて耳心地の良い、けれど底が見えない声。
「俺が、何かしたか?……そうだな、例えば夢の中で……とかな」
その瞬間、匠の中で何かが弾ける。
「っ……!」
遙の切れ長の瞳は淡々と微笑んでいるように見えて、奥に鋭く光る狂気が、はっきりと覗いていた。
「ゆ、夢なんか見てねぇ……いいから早くどけよ!」
必死に視線を逸らし更に壁に押し付けるように身を震わせる匠。
「どんな夢を見たかは知らないが、その夢……正夢にしてやろう……」
甘さに満ちた声で囁かれる。だが、その甘さの奥に潜む支配と欲望が痛いほど匠の鼓膜に突き刺さった。
「……や、やめろってば!!」
匠は震える脚で必死に壁を離れ、玄関の方へ走ろうとする。しかし遙に腕をがっしりと捕まれた。そのまま引っ張られ、遙の腕が匠の身体をそっと、でも絶対に逃げられない強さで包み込む。
「やめろ!!お前本当に、いい加減にしろよ!!」
もがく匠。しかし、遙の腕はまるで鉄の檻のよう。
「……お前は、俺のものだ……」
低く耳元で囁く声。その声は優しい、だが底無しに冷たく匠の心を貫いた。
「ふ、ふざけんじゃねぇ……」
恐怖で震える声しか出せない。足元が崩れ落ちそうになる。
「……もう、逃げられない。やっと捕まえた」
遙の唇が匠の耳元を掠めるように近づく。
「っ……!?」
震える声を絞り出すことすら出来ない。身体中の力が抜け、匠はその場で崩れ落ちるように遙の腕の中に沈んだ。琥珀色の瞳は揺れ、呼吸は浅く乱れ、完全に呆然としていた。頭の中が真っ白で思考はもう追いつかない。
「……匠」
突然、遙の声が更に低く、冷たく、そして鋭く響いた。遙はもう微笑んではいない。瞳にあった仄かな優しさすら完全に消え失せている。
「……やっと静かになったな」
柔らかさなど一切無い凍りつくような声。その切れ長の青灰色の瞳は獣のように光っていた。ゆっくりと匠の顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。
「……限界だ。お前が俺を好きになってくれるまで待とうと思ったが、もう面倒だ」
その言葉は甘さなど一切無い、完全に支配者の宣告。
「今からお前は俺のものだ」
顔を近づけ今にも触れる距離で視線を絡める。
「や、やめ……っ」
か細い声と共に、匠は最後の力を振り絞って遙の胸板を押そうとする。必死に手を伸ばし身を捩る。だが遙の腕は鉄の檻のように匠をがっちりと捕えている。
「もう遅い……」
低音で冷たく鋭い声。もう普段の穏やかさは無く、理知的な雰囲気も無い。完全に本性を剥き出しにしていた。匠の小さな抵抗など全く意味を成さない。むしろ、その弱々しい拒絶すら遙の支配欲を更に煽るだけだった。
「うぅっ……」
力が完全に抜け、匠は遙の腕に沈むように倒れる。視界が滲み、呼吸は浅く、全身が熱と恐怖で溶かされたように、完全に支配されていく感覚。遙はそんな匠を腕に抱え静かに、しかし狂気を帯びた光を宿して見下ろす。
「……良い子だ」
血に飢えた獣のような囁きが耳に落ちた。
(……どうしてこんな事に……)
遙は匠の頬をそっと両手で包み、逃げられないように固定する。
「……お前を、今すぐ抱く」
その響きは熱と執着に満ちていた。
「抵抗しようが、拒もうが……」
匠の額に自分の額を押し付け、至近距離で視線を絡める。
「……もう、どうでもいい」
その一言で、匠の意識が深い闇に引きずり込まれるような錯覚に陥る。遙の瞳は捕食者のように光り、支配の熱で燃えている。
「目を開けて……俺だけを見ろ」
頬を撫でる指は優しいのに、その言葉は鎖のように重く絡まる。匠の瞳から光が消え、全身の力が完全に抜けるとその場に崩れ落ちる。
「……だ……」
声が掠れ、喉の奥から必死に絞り出される。
「……だ、だくって……なに……それ……」
途切れ途切れの声。息は荒く、涙が頬を伝う。脳裏に浮かぶのは、夢の中での熱、甘い言葉、奪われる感触。遙はそんな匠を見下ろし、ゆっくりと腰を屈めた。
「成人しているのに、分からないか?」
低く、鋭く、でも甘い声。
「お前は今から俺とセックスするんだ」
匠の柔らかい髪をそっと掴み、顔を上げさせる。
「……心配するな。たっぷり感じさせてやる」
その言葉は、決定的な宣告だった。
「はっ……!?」
匠の瞳は完全に焦点を失い、脳は真っ白。口を半開きにしたまま微かに震える唇。遙は匠の猫っ毛の髪を掴んだまま、その隙を逃さず唇を重ねた。
「んっ……」
一瞬で世界がひっくり返るほどの衝撃。深く、深く、呼吸すら奪うほどの激しい口付け。舌が絡み唾液が混ざり合う。匠は必死に遙の胸を押し、頭を振ろうとする。
「んんっ……!!」
しかし遙の力は圧倒的だった。どれだけ抵抗しても押し返せない。同じ男で、こうも力の差があるのかと匠は絶望した。
(男同士なのに……こんな……やだ……やめろっ!!)
心の奥で悲鳴を上げる。遙の支配に抗えず、身体の自由は奪われる。唇が離れた瞬間、匠の口から弱々しい息が漏れた。
「はっ……はぁっ……」
遙は至近距離で匠を見下ろす。
「……もう諦めろ」
完全に狂気に染まった声。
「お、お前の言う友達って……これかよ……」
声は震えて途切れ、掠れる。
「俺……嫌だ……」
唇が震え頬が濡れ始める。様々な感情が一気に押し寄せ、ひたすら言葉を紡ぐ。
「……やだよ……っ」
熱い涙が無防備に零れ落ちる。胸の奥がギュッと締め付けられ、酸素が足りないほど苦しい。遙はそんな匠を見つめ、静かに、ゆっくりと満面の笑みを浮かべる。その笑顔は優しげだが、完全に歪んだ狂気しかない。
「……可愛いな、本当に。しかし、この状況で煽るとはな……お前は馬鹿なのか?」
低音で甘美な、でも底無しの支配者の声。匠の頬をそっと撫で、親指で涙を拭う。
「もう遅いと言っただろう。お前が泣こうが喚こうが無駄だ……分かったか」
大粒の涙を拭われるたびに、匠の身体は大きく震える。
「……やめ、やめろ……お願いだから……」
「ふふ……」
遙の瞳は、まるで今から獲物を喰らう狼そのものだった。
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