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到達(とうたつ)

弱々しく瞼を開くと窓の外は既に朝の光に満ちていた。 「うっ……痛ぇ……」 身体を起こそうとすると遙によって与えられた痛みと倦怠感が全身に走る。 (夢じゃねぇのか……) 震える手で髪をかきあげると、そこには何事も無かったかのように静かに佇む遙の姿。淡い朝の光を背に、銀髪がふわりと揺れている。 「……起きたか。寝顔も可愛かった」 その声は昨日までの底無しに冷たい声ではなく、一見するといつも通りの穏やかさを装っていた。 「お前っ……」 匠は思わず視線を伏せ、胸の奥がひりついた。 (何だコイツ……人の事、襲っといて、何でこんな普通にしてんだよ……っ) いつものように近づき、頬に触れてこようとする遙。 「……触んな!!」 声は掠れて震え、それでも必死に絞り出すような激しい拒絶。しかし遙は少しも動じない。青灰色の瞳が細くなり、口元に薄い笑みを浮かべている。 「こうでもしないと、お前は俺のものにならない」 その冷たく静かな声が匠の胸を鋭く貫いた。 「ふっざけんな!!……もう帰れっ!!」 声が裏返り、涙が滲む。遙はフッと小さく笑い、静かに立ち上がる。 「……また連絡する」 そう言い残すと玄関へ向かい、普段通りの顔をして去っていった。 「くそっ!!」 玄関の方へ枕を投げ捨てた後、シーツをグシャッと力一杯掴む。声が詰まり喉の奥から嗚咽が溢れる。涙で視界が滲む中、何度も自分の身体を抱き締めた。 (……普通に犯罪だろ) 普通に生きてきて、男に強姦されるなど夢にも思わなかった。想像した事も無い。自分が何か悪い事をしたとでも言うのか。あの銀髪の男に全部、狂わされていく。 「もう……何もかも嫌だ……」 部屋には匠の嗚咽だけが、ずっと響き続けた。 玄関の扉を閉めた遙は一瞬立ち止まる。そして、ゆっくりと深呼吸。 「……ふふ」 思わず漏れる笑い声。匠を抱いた。その事実が、遙にとってどれだけ重要な事か。手順を間違えはしたが問題無い。ここからリカバリー出来ると考え、次の計画を立てる遙。自宅マンションへと戻ると洗面所の鏡の前で結われた長い銀髪をほどき、さらりと指で梳かす。その動きは優雅で色気のある、完璧な大人の男。浴室に入るとシャワーの音が静かに響く。 「……匠の匂いが残っているな……」 濡れた髪を撫でながら匠の顔を思い出し、目を細める。 「……可愛かった……足りない……もっと抱きたい……」 浴室の蒸気に紛れて小さく呟く声は甘い余韻を含んでいる。入浴を終え髪を乾かしまとめると、整ったスーツに着替える。シャツのボタンを留め、ネクタイをきっちりと締める。鏡を見れば昨日までの優雅な仮面を完璧に取り戻していた。 「……さて」 腕時計を着け時刻を確認し、滑らかな黒い本革の鞄を肩に掛ける。いつも通りの時間に自宅を出て颯爽と歩く。すれ違う人々が振り返るほどの端正な顔と隙の無い仕草。しかし、その青灰色の瞳の奥底には誰にも気づかれない狂気と、たった一人だけを支配する強烈な欲望が潜んでいるのだ。 「ふふ……今日も良い一日になりそうだ」 優雅に微笑むその顔は、会社の誰もが憧れる「九条 遙」になっていた。 遙のデスクには、会議資料や海外クライアントから届いた提案書が無駄なく整然と並べられている。整った字で書き込まれたメモ、規律正しいデータ整理、完璧なスケジュール管理。傍から見ればまさに「理想のエリート商社マン」の姿。だが彼の脳裏では、別の映像が脈打っていた。 (……今頃、どんな顔しているんだ) 昨夜、必死に抵抗してはいたが結局は遙の手によって堕ちてしまった匠。思い出すと昂る、あられもない姿。顔は紅潮し、息も上がって頑張って声を殺す仕草。処女だったので優しくするつもりだった。しかし理性が先に限界を超えてしまい、あの後何度も何度も匠の身体を狂ったように求めてしまった。耳の奥に残るのは、匠の拒絶しながらも零れる甘い声。 「……ふふ」 資料をめくる指が僅かに止まる。けれど、同僚には気づかれないよう表情は完璧に保たれている。 (……次はどう責めてやろうか) 淡々とページをめくるフリをしながら、頭の中では数え切れないほどの想像が繰り返される。匠が泣きながら喘ぎ、自分の名前を掠れるように呼ぶ様子。冷たくも甘い熱に支配されていく顔。 「…………」 無意識にペンを握る手に力が入る。ペン先がカチ、と静かな音を立てた。 (……もっと、もっと泣かせたい。泣きながらも自分から誘うように腰を動かす所を見たい。壊れるほど求めながらそれでも縋ってくるお前が見たい、欲しい) 「あの、九条さん。この書類、午後のミーティングで使いますよね?」 若手の女性社員が仄かに頬を赤く染めながら遙に声を掛ける。遙はその女性社員の様子を気にも留めずに、とりあえず穏やかな笑みを向けた。 「あぁ、有難う」 返事は流れるように滑らかで何処にも淀みは無い。ただ、その声の底には誰にも気づかれない深い熱と執着が潜んでいた。 (早く、また逢いたい。……といっても、朝の様子を見る限り、俺から行かないと逢えないだろうな……) 口元にだけ僅かに滲む冷たい笑み。次の会議資料を手に取ると、その中で脳裏に浮かぶのは壊れたように震える、あの小さな匠の姿だけだった。 「そういえば前から気になってたんですけど、九条さんの髪って凄く綺麗ですよね、どんなお手入れされてるんですか?」 書類を渡してきた若手の女性社員が遙に質問をしてきた。彼女に悪気は無い。ただ社内一のイケメンに、つい気になって聞いてしまっただけだった。遙は一瞬だけ手を止め、資料から視線を外さずに答える。 「……トリートメントをしているだけだ」 穏やかで抑揚の無い声。だがその背中から何故か冷気のようなものが漂い始める。 「へぇー、そうなんですね。ちなみに、髪の色も銀色ですけど、地毛ですか?」 オフィスの空気が凍った。遙の眉が僅かに動き、資料を置いた手が机の上でピタリと止まる。ゆっくりと女性社員を見やる、その眼差しには怒気が滲み出ていた。 「純日本人では無いのでな」 冷ややかな言葉に続くのは更に冷たい、氷のような声だった。 「で、この話題は業務に関係あるのか?」 女性社員の表情が、みるみる青ざめていく。 「す、すみません!!」 慌てて頭を下げた彼女の前で、遙は静かに息を吐いた。 「……興が冷めるな。全く」 彼はもう彼女を視界から外していた。再び資料へと目を落とし何事も無かったかのように業務に戻っていく。同時に、昨日の匠との情事の映像を頭の中で再生させる。密かに口角を吊り上げる遙に、もう誰も声を掛ける事は無かった。 静かな夜の街並み。定時で自分の仕事を終えた遙は、完璧な所作で歩きながら会社の資料を軽く見ていた。ふと、前方に見覚えのあるシルエットが視界に入る。茶髪ショート、肩に掛かる襟足。震えるように立つその青年を見て遙はゆっくりと足を止める。 「……こんな所でどうした。何か用か?」 低く抑えた声。しかし、その瞳は何処か楽しげに光る。 「あり過ぎて困ってんだよ……このクソバカ野郎……」 顔を伏せ、手はパーカーのポケットの中で握り締めている。言葉は強気。でも肩は小さく震え足元は少し不安定。 「お前のせいで……」 声が途中で掠れる。 「……全部、ぐちゃぐちゃだ……!!」 顔を上げると琥珀色の瞳は迷いと悔しさと、何処かに宿る微かな決意で揺れていた。遙は静かに、しかし深く匠を見つめる。その視線には昨日のような狂気の光と、今にも溢れそうな欲望が隠れている。 「……まさかお前から会いに来てくれるとは思わなかった。話したいなら、全部聞いてやる」 低く甘い声が、夜風に混じって匠の鼓膜を叩いた。

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