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恒常(こうじょう)

朝を知らせる陽の光がカーテン越しに部屋へ差し込み、静かに匠の頬を照らしていた。ぼんやりとした頭で目を開くと、すぐ隣に遙の寝顔があることに気づく。 (あ、そっか。昨日も散々……しかも俺から……っ) 頬がじんわりと熱を帯びる。思い出してはいけないような、でも忘れたくないような、そんな夜の記憶。隣で寝息を立てる男は、いつもの姿とはまるで違う。無防備で、しかし整った顔。 「……お前、起きてんだろ。寝たフリすんなっての……」 小声でそう呟いた瞬間、ふわりと身体を引き寄せられた。 「……バレたか。お早う、匠」 「お、おはよっ……」 目を開けた遙の声は少し掠れて甘く、あまりに反則的だった。 (ホント、朝からクソイケメンムーブかよ。マジで卑怯だろ……) 幸せ慣れしてない自分が、これは本当に現実なのかと少し疑ってしまう。だが遙に包まれた事で腕の力、熱が全身に伝わり、夢じゃないと分かって頬が緩む。 「何て顔している……」 遙の低くて落ち着いた声が鼓膜を溶かす。匠は赤くなった顔を隠すように遙に背を向ける。 「べ、別に……何でもねぇよ……」 「ふふ……今日も朝から可愛いな。だが、少しは危機感を持った方が良い……」 後ろから抱き着くと匠の耳元で艶のある声で囁く。 「遙、お前……また朝から盛りやがって……!」 「お前が可愛過ぎるのが悪い」 遙の右手が匠の腰を掴む。そのまま仰向けにされ、口付けようとした。次の瞬間。カーテンが閉まったままの薄暗い部屋の中で、微かにお腹の音が鳴り響いた。 「あっ……うぅっ……」 顔を更に真っ赤にして唇を噛む匠。そんな音を聞き逃すはずも無く、遙は静かに肩を揺らして笑う。 「腹が減ったのか。ふふ……色気もへったくれも無いが、まぁ可愛いから良しとしよう」 「だっ、だって俺……すげぇ運動したし……」 震える声で絞り出す匠。余程恥ずかしいのか、枕に顔を埋め、脚をバタバタとさせる。遙は青灰の瞳を優しく細めると、そっと柔らかい茶髪を撫でた。 「……仕方ない。俺は今すぐにでもお前を食べたかったんだがな……」 珍しく狂気を含まない、穏やかな声色。 「……可愛いな、本当に」 そう囁きながら、遙は枕に沈んだ匠を優しく引っ張り上げて、顎に手を添えると口付けを落とす。 「……ん……っ」 甘い声が零れそうになるのを必死に堪える匠。 「……朝食、用意するから……ちゃんと良い子にして待っていろ」 遙はそう告げて、ゆっくりとベッドから離れた。一人取り残されたベッドの上で、ふぅ……と溜め息をつく匠。 (……全く、朝から全開過ぎんだろ……) キスの名残を拭う事もせず、枕をギュッと抱き締め横になる。ふとキッチンの方から食器の音が聞こえた。琥珀の目を瞬かせ、少しベッドの上で迷った後、渋々起き上がる。全裸だったので急いで部屋着を羽織り、リビングへ向かう。遙は長い銀髪をまとめ、白いシャツを着て真剣な顔で何かを切っている。包丁がまな板を叩く音が、何だか心地良い。 「……起きたか。出来たら起こすつもりだったんだが」 「腹減ったから……」 「簡単なもので良いか?」 「うん……」 ソファに腰掛け、フワッと欠伸をして目の前に置いてある新聞を手に取る。読みたい気分では無かったが、手持ち無沙汰だったので文字の羅列を目でなぞる。だが、匠には内容が堅くて数秒で読むのを諦め、テーブルにポンと置いた。そうこうしてるうちに、ダイニングテーブルに運ばれる料理。いい匂いが部屋に広がり、鼻腔をくすぐる。しかし、その数と出来栄えに思わず驚愕する匠。 (簡単なもの……?これが……?) 塩麹漬け焼き鮭、匠好みの甘いだし巻き玉子、すりゴマで和えたほうれん草のおひたし、刻みネギとおろし生姜が乗った冷奴、豆腐とわかめの味噌汁、白米。これらが全部、二人分ダイニングテーブルの上に綺麗に並べられた。 「ふふ……昨夜はお前から誘ってきたとはいえ、少々無理をさせてしまったからな」 「少々!?」 思わず匠の声は裏返った。遙は平然と笑みを浮かべ、ダイニングチェアに座ると茶碗によそった白米に、そっと梅干しを乗せた。 「さぁ……出来たぞ。腹が減っては戦が出来ぬと言うからな。きちんと朝食を摂って、体力を回復しておけ。俺は、いつでも戦が出来るが」 「やめろ!何でもかんでも下ネタに繋げんなバカ!」 「……下ネタ?面白い冗談だ」 慌てて席につく匠。いただきます、と呟いてから箸を手にし、白米を一口。程よく硬く、食べ応えがある。毎日カップラーメン生活だった為、ここに住めば間違いなく毎日美味しい食事が出来る。健康的でもあり、何より人と一緒に食べるご飯は、幸福感がある。遙が作ってくれた料理と同時に、幸せも噛み締めるように咀嚼する。 「……美味い……」 自然と口をついて出た一言に、遙の青灰の瞳が細くなる。 「それは良かった。匠を想って作ったんだ、当然と言えば当然だな」 「何かムカつくけど、普通に美味い。くそ……やっぱりムカつく」 「拗ねる匠も可愛いな。しかし、お前が作った料理も食べてみたい」 「カップラーメンにお湯注ぐか、コンビニ弁当のレンチンぐらいしか出来ねぇよ……」 「……そうか。なら今度、教えてやる。俺が手取り足取り、な」 「また始まった。お前が言うと全部がエロく聞こえるんだよ、この歩く18禁……」 不平を言いつつ、匠は次々と箸を進めていく。昨夜の記憶も羞恥も、食事の温かさと一緒に少しずつ溶けていくようだった。 (そういや、即席しか飲んだ事無かったな……) ふと昔を思い出し、まだ湯気が立つ味噌汁を特に何も考えず、啜った。 「あっつ!!!!」 「……!?」 舌に鋭い熱が走り、痛みが広がると思わず顔をしかめて後ろに仰け反る。 「猫舌か?大丈夫か……」 遙は慌てず騒がず、すぐに匠の手から椀を取り上げると、冷えたお茶を差し出した。 「ご、ごめん……大丈夫、だと思う……」 お茶を飲み干し、口元を手で仰いで軽く笑ってみせる匠。 「念の為、見せてみろ。ほら、舌を出せ……」 遙は静かに立ち上がると近寄り、匠の顎を掴む。必死に抵抗する匠だったが、いつもの強引な遙が顔を覗かせたので、潔く諦めた。 「だ、大丈夫だって言ってんじゃん、やめろよ……」 「……ダメだ、よく見せろ。あまり暴れるならこのままキスするが……?」 「や……やだっ……!!」 「なら大人しくしていろ……」 観念したように椅子にもたれ掛かる。口を少し開けて舌先を出すと、それをじっくりと見つめる遙。無意識に全身が羞恥に染まり始めていく。青灰の目が細くなるのを見て匠は胸騒ぎを覚える。遙の指が、ゆっくりと舌に触れた。 「あっ……」 「……どうした、ただ火傷の具合を確認しただけだが?」 「っ……もういいから、離せよ!」 琥珀の目が揺れ、視線を逸らす。上ずった声を出す匠に、遙はフッと微笑むと、隙を見て匠の舌を舐めた。 「なっ……!」 「後で蜂蜜でも舐めると良い……」 平和で温かい朝食風景は、この男にかかるとすぐに官能的な雰囲気になってしまうのであった。 昼下がり。夏の厳しい陽射しがレースのカーテンを白く光らせていた。リビングは空調が効いている。匠はソファに横になり、まるで猫のように膝を抱えて丸くなり、すうすうと寝息を立てている。茶髪の前髪が頬に掛かり、無防備で、子供のような寝顔。遙はその向かいのソファに本を手にして座っていたが、ページを捲る手がいつの間にか止まっていた。 「……全く。可愛過ぎるだろう……」 思わず零れた独り言に、苦笑する。本を閉じ、起こさないよう静かに立ち上がって、匠の隣へ腰を下ろした。寝返りを打った匠の額に掛かった髪を、そっと指で解かす。その指先は、まるで壊れものに触れるように、慎重で優しい。 「こんな顔、俺にしか見せるなよ。……絶対に」 囁きはほとんど吐息に変わり、匠の眠りを妨げる事も無い。遙は細く柔らかな茶髪をスッと梳くたびに、胸の奥に熱が滲んでくるのを感じていた。 (……愛している。どれだけ言葉と身体を重ねても、全然足りない……) それは恋だとか愛情というより、もっと深い、匠そのものに執着するような、形容しがたい感情。隣で眠る匠の体温、息遣い、匂い。その全てが遙の中の独占欲を刺激し、そしてその存在が何よりも堪らなく、幸福だった。 「お前が……俺の隣に居てくれる……それだけで、十分だ……」 そう呟くと、遙は匠の髪にもう一度そっと触れ、前髪にキスを落とそうとするが、寸前で止めた。 「……起こしてしまうな。たまにはしっかり安眠させてやるか……」 微笑みながらその手を引き、隣でそっと目を閉じる。静寂の中で唯一、時計の針が時を刻む音だけを鳴らす。この穏やかな時間が、永遠に続けば良い。そんな願いを胸に抱きながら。 陽はいつの間にか傾き、窓の外には茜色が滲んでいた。匠がふと目を覚ますと、夕日のオレンジが、まるで夢の続きのように部屋を包んでいる。横を見れば、遙が静かに寄り添うようにソファに座り、本のページを捲っていた。 「……ん、今……何時……?」 「十八時少し前だ。よく眠っていたな」 「マジかよ……やっべぇ、寝過ぎた……」 「ふふ……たまにはこうして、何もしない休日を堪能するのも悪くないだろう」 遙の穏やかな声に、匠は軽く頷いた。寝起きのぼんやりとした頭で、隣に居る恋人の横顔を見つめながら、ふと思う。 (課題があったはずだけど……こんな風に、何もしないまま一日が終わるのも……悪くねぇかな……) そして夜になっても二人は変わらず穏やかだった。食後に一緒に入浴を済ませ、リビングで少しのんびりした後、気づけば自然とベッドに並んで横になっていた。いつもより早い就寝。 「なぁ、一応聞くけど……今日は、何もしねぇよな……?」 ベッドの中。向かい合って寄り添い、遙の腕の中で匠は恐る恐る聞いた。今日一日、やけに大人しかった遙。舌火傷事件以降、変な絡みも減っていた。しかし油断は出来ない。この男は、唐突に理性を破り捨てる事が稀によくある。 「安心しろ。今日は、ただ隣で眠るだけだ」 落ち着いた声が耳元をくすぐる。低くて、優しくて、だけど妙に色っぽい。逆に不安に駆られる匠を、遙が強く抱き締める。 (別に、したくないってワケじゃねぇ……ただ、昨日は俺からだったし……って、何考えてんだ俺……!) 「どうした……何を考えている……?」 「あ、いや……何も……」 段々と雲行きが怪しくなってきた。遙の青灰の瞳がゆっくりと細まっていく。目を逸らしたいのに、何故か逸らせない。そればかりか、昼に寝過ぎたせいか、目が冴えてきてしまった。遙の腕が、更に強くなる。まるで逃がさないとでも言うように、匠を胸元に閉じ込めた。 「……眠れそうか?」 「ぜ、全然余裕、眠いなー」 匠は嘘と共に息を吐いた。抑揚の無い声ではあったが、遙は微笑んで匠の髪を梳く。 「……そうか」 遙の胸板に顔を埋め、鼓膜に響くのは規則正しく刻まれる心音。心地良くて、温かい。けれどやっぱり、油断は出来ない。 (落ち着くけど……何か、落ち着き過ぎて逆に怖い……) 「……お前の警戒心は、俺にだけは少し緩めて欲しいものだな」 「いや、ゆるめたら秒で食われそうだから、やだ!」 「ほう……?過度な警戒は、逆に期待と捉えるが?」 「ひぇっ……」 冗談だ……と遙は笑うが、それが冗談に聞こえないのがこの男の恐ろしい所だ。どれだけ穏やかでも、優しくされても、ちょっとした気配で匠のセンサーは作動してしまう。 「安心しろ。今日は本当に何もしない……」 「……今日は?明日はどうせヤるんだろ」 「当然だ。俺が一日我慢するだけでも奇跡だ、寧ろ感謝して貰いたい」 「何それ怖い」 口では文句を言いつつも、匠の身体は既に遙の腕の中に馴染んでいる。遙に抱かれるのは嫌じゃない。嫌どころか安心する。心が解けていく。 「……調子狂うぜ……全く」 目を閉じながらポツリと呟くが遙は無言で、そっと匠の額に唇を寄せた。今夜はそれ以上何もせず、ただ寄り添って眠る。部屋の明かりが落ち、静寂に包まれる夜。微かな寝息と心音と、肌の温度だけがそこにあった。匠はもう抵抗する事もなく、遙の腕の中で深い眠りに落ちていった。 カチッ。 時計の針が二つに重なり、時刻は丁度0時。日付が変わった瞬間、遙は闇の中、動き出した。 「ん……な、何……」 「昨日、我慢した。もう今日だ……この意味が分かるな……?」 「え……ちょ、ちょっと待って……あっ……」 閉じていた目を開けてみると、そこには薄暗い中、毛布を退かし匠に覆い被さる遙の姿。やっぱり瞳は細められ、底知れぬ笑みを浮かべていた。遙の指先がそっと匠の頬に触れると、その指はまるで皮膚が溶かされるほどの熱を感じる。匠の首筋に唇を寄せ、軽く吸った後に耳元で低く、甘く、狂おしい声で囁く。 「……昼間、十分寝かせてやった。今夜は、もう寝かせない」 「や、やめ……遙……っ!」 そして。 遙にとっては日常、匠にとっては非日常な、日付トラップが発動したのであった。 ────── 例え明日、また喧嘩して 互いの心を傷つけ合っても それでも、この腕の中で眠る限り もう二度と離さないと誓える 独占に狂う男と 愛を信じたいと願う青年と 二人の時間は、恐ろしくも愛おしく重なりながら確かに、未来へ続いていく

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