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第1話 ノイズとサイレンス

城鐘(じょうしょう)学園の学生寮、その一室。 二つのデスクと二つのベッドが、部屋の左右をシンメトリーに支配している。まるで、決して交わることのない二つの世界のように。 部屋の右側、白石陽(しらいしよう)の世界は、音と色に満ちていた。壁をには人気の映画やバンドのポスターが彩り豊かに飾られている。ソファの上には脱ぎっぱなしのパーカーと、週末の演劇ワークショップで使う予定の、書き込みで真っ黒になった台本が置かれている。そして、そこから軽快なビートが溢れ出した。今、誰もが口ずさむ、流行りのポップソング。それは、この部屋の半分を支配する静寂を破るには、あまりにも無邪気で、空虚な音だった。 対する部屋の左側、黒崎蓮(くろさきれん)の世界は、静寂とモノトーンに支配された精密な要塞だった。デスク上には複数のモニターが設置され、メインディスプレイには複雑なデータが、縦に置かれたサブディスプレイには、暗闇に滝のように流れ落ちる緑色の文字列が映し出されている。黒い石板のような静音PCが低い唸りを上げる以外、そこには何の音もない。無駄なものは一切なく、整然と束ねられたケーブル群にさえ、冷たい機能美が宿っていた。 この城鐘学園に、特進コーストップの成績で入学して数ヶ月。蓮にとって、ルームメイトの存在は、日常に紛れ込んだ最も理解しがたいバグだった。 静寂の世界から、吐き捨てるような声が飛ぶ。 「――うるせえ」 モニターの光が、その整っているが温度を感じさせない顔立ちを青白く照らし出す。切れ長のヘーゼル色の瞳。分厚い専門書から目を離すことなく蓮は続けた。 「そのノイズを止めろ。中身が空っぽなだけならまだしも、思考を麻痺させる」 「はあ? ノイズって何だよ。今一番流行ってる曲じゃん。お前が知らないだけだろ」 陽は、スピーカーのボリュームをさらに少しだけ上げながら、挑発的に言い返した。愛嬌のある華やかな顔立ち。そこに普段学校で見せる人懐っこい笑顔はない。学業に専念するため俳優の仕事はセーブしているものの、世間が求める『元天才子役・白石陽』の明るいイメージを、彼は今も無意識に演じ続けている。だがここでは、気を遣う必要も、その仮面を被る必要もなかった。この、いちいち気に食わない特進コースの天才様の前でだけは。 蓮が鼻で笑う。形の良い薄い唇が皮肉気に歪んだ。 「流行。その他大勢と同じであることに安住し、思考を停止させるための免罪符か。くだらねえ」 「お前に何がわかるんだよ! 好きなもんくらい好きに聴かせろっての!」 陽の反論は、心の底からの、剥き出しの言葉だった。学校や家で必死に抑え込んでいる感情が、この男の前でだけは、いとも簡単に溢れ出す。 最悪の空気だった。 一触即発の沈黙を破ったのは、陽の方だった。 「……もういい。ゲーム、やるぞ。お前、どうせ暇だろ。オレがボコボコにしてやるよ」 「……チッ。ほざいてろ」 それは、この部屋で唯一許された、停戦協定の合図だった。 コントローラーを握った瞬間、二つの世界の境界線が、わずかに溶け出す。 画面の中で、二つのキャラクターが激しくぶつかり合う。蓮の操るキャラクターは、計算され尽くした動きで、一分の隙もなく相手を追い詰める、論理の体現。対する陽のキャラクターは、誰も予測できないトリッキーな動きで、定石を破壊し、戦場をかき乱す、直感の化身。 食いしばられた奥歯。少し色素の薄い茶髪の下で、子供のように輝く大きな瞳。ギリギリでコンボを躱され、本気で悔しそうに歪む唇。ゲームに没頭する陽の姿は、蓮にとって、学校で見る「人気者の白石陽」とは全くの別人だった。 (……こっちが、本物か) 蓮は、陽の放つ、非論理的で破天荒な一撃に翻弄されながら、苛立ちと共に、奇妙な心地よさを感じていた。 勝負は、陽の奇策が、蓮の完璧なガードをこじ開けたことで決した。 「っしゃあ!」 歓喜の声を上げる陽。 「……チッ」 コントローラーを置き、本気で忌々しそうに顔を背ける蓮。 再び、部屋に静寂が訪れる。陽はスピーカーの電源を落とした。先ほどまで流れていたはずの音楽は、もう必要なかった。 その、時だった。 ピロン、と軽い通知音が、部屋の左右で、ほぼ同時に鳴った。 蓮のPCの画面の隅と、ソファに寝転がってスマホをいじっていた陽の画面。二つのディスプレイが、同じタイミングで、新しいメールの受信を知らせていた。 「え、マジで!?」 先に声を上げたのは、陽だった。勢いよく身体を起こすと、興奮した様子で画面を食い入るように見つめている。 「うわ、うわ、うわ! 蓮、ヤバい! 『プロジェクト・キマイラ』のβテスターに選ばれたんだけど!」 陽が、子供のような満面の笑みでスマホの画面を蓮に向ける。 そこに表示されていたのは、蓮が今まさにスパムだと断じようとしていたメールと、全く同じ文面だった。 『【重要】クローズドβテスト参加資格ご確認のお願い:『Project: CHIMERA』運営事務局』 「……てめえもかよ」 「『も』ってことは、蓮も!? すっごい偶然! やっぱ、オレたちみたいなトッププレイヤーには運営から声がかかるようになってんのかな!」 はしゃぐ陽を尻目に、蓮の思考は冷静に回転を始めていた。 『プロジェクト・キマイラ』。 "超高性能AIが自動生成する無限のシナリオ"を謳い文句にした、次世代のフルダイブ型VRゲーム。その革新性から、全世界のゲーマーがリリースを待ち望んでいるモンスタータイトルだ。テスターの募集は公には行われておらず、開発側からの完全招待制だと噂されていた。 偶然、か。 同じ高校の、同じ寮の、同じ部屋の二人が、同時に。 あまりに出来過ぎてはいないか? 蓮は、陽の浮かれた声を無視し、無言でキーボードを叩く。受信したメールのソースを表示させ、そのヘッダー情報を高速でスキャンした。 Receivedヘッダを遡り、送信元サーバーのIPアドレスを特定。黒いターミナル画面を開き、数秒でコマンドを打ち込んでいく。whois、dig……画面に表示された情報は、彼の疑念を嘲笑うかのように、完璧だった。送信元のIPアドレスは、開発元である『Elysion Games』が契約するデータセンターのものと一致。SPFレコードもDKIM署名も、何一つ不審な点はない。 「……送信経路はクリーンか」 蓮は忌々しげに呟く。偽装されたフィッシングメールなら、数秒で看破してゴミ箱に放り込むだけだった。だが、これは違う。あまりにも「本物」すぎる。まるで、蓮に調べられることを前提に、用意されたかのように。 これは、ただのゲームへの招待状ではない。何かの作為が、裏で働いている。 「なあ、これってすごくない!? あの『プロジェクト・キマイラ』だぜ? これでしばらくは退屈しなくてすみそうじゃん!」 無邪気に喜ぶ陽の声が、やけに遠くに聞こえる。 蓮はPC画面の招待メールを、探るような目で見つめた。 目の前に現れた、最高に歯ごたえのありそうな「謎」。ゲーマーとして純粋にそそられる、最高峰の「ゲーム」。そして、このフルダイブという新しい舞台でなら、隣にいるこの男の、また別の「本物」の顔が見られるかもしれないという、無意識の期待。 その、いくつかの感情が混じり合った高揚感が、蓮の背中を押した。 「……ああ。そうだな」 蓮は短く相槌を打つ。その口元に、挑戦的な笑みが浮かんだ。 「退屈は、しねえかもな」

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