9 / 19

第9話 ルール

蓮の、あまりにも不器用な謝罪。 その言葉が、凍りついていた部屋の空気を、静かに溶かしていく。 陽は、信じられないものを見るかのように大きく見開かれていた目を、何度か瞬かせた。 (……なんで、昨日のオレ、あんなにキレちゃったんだろう) あの怒りは、本物だった。だが、その奥にあったのは、もっと別の感情だった気がする。 (そうだ。オレ、悲しかったんだ) 蓮に、自分の心を、どうでもいいガラクタみたいに扱われたのが、たまらなく悲しくて、悔しかったのだ。 でも、なぜ?今まで、もっと酷いことをされても、ただ笑って、演じて、やり過ごしてきたはずなのに。なぜ、蓮の、あの無機質な言葉だけが、あんなにも許せなかったんだろう。 (……そっか) 答えは、あまりにも、シンプルだった。 (オレ、こいつのこと……特別だって、思ってるんだ) その、不意にたどり着いてしまった自分の本心に、陽は戸惑う。だが、その戸惑いと同時に、すとんと、胸のつかえが取れるような感覚もあった。だから、傷ついたのだ。だから、わかってほしかったのだ。 「……オレも」 ぽつり、と。か細い声が、静寂に落ちた。 「オレも、ごめん。……無視とかして、ごめん」 陽の言葉に、蓮は何も答えなかった。だが、それだけで十分だった。二人の間にそびえ立っていた氷の壁に、確かな亀裂が入る。もう、この部屋は、ただの気まずいだけの空間ではなかった。 蓮は、一度、短く息を吐くと、いつもの調子を取り戻したように、ソファに深く座り直した。その瞳は、もう感傷に浸ってはおらず、敵を分析する冷徹な光を宿していた。 「陽。一つ確認させろ」 「……なに?」 「あの『作者』と名乗る男……あいつがお前の家庭環境について知っていた情報。あれは、お前が元子役だからとか、ネットで調べればわかるような類のものか?」 その問いに、陽ははっきりと首を横に振った。 「いや、絶対に無理だ。……誰にも話したことない。親しい友達にだって」 「そうか」 蓮は、静かに頷いた。その表情は、まるでパズルの最後のピースがはまったかのように、険しく、そしてどこか納得しているようにも見えた。 「なら、話は早い。これは、単純な身辺調査じゃない。お前の個人情報が、どこかからか能動的に漏洩している。それも、極めてプライベートなレベルでだ」 蓮は、有無を言わさぬ口調で続けた。 「今すぐ、そのスマホをよこせ」 陽が戸惑いながらもスマホを手渡すと、蓮は自らのノートパソコンにケーブルで接続し、凄まじい速度でキーボードを叩き始める。 「おい、何してんだよ!」 「お前のデジタル機器全てに、盗聴器かスパイウェアを仕込まれた『侵入口』になっている可能性がある。まずは、一番肌身離さず持っているスマホからだ。通信記録、インストールされているアプリ、全ての脆弱性をチェックして、セキュリティホールを特定し、塞ぐ」 その口調は一方的だったが、そこには以前のような無機質さではなく、明確な目的を持った専門家の、有無を言わせぬ説得力があった。医師が患者に緊急手術の必要性を告げるのにも似ていた。陽は、その気迫に押され、何も言い返せない。 「PC、タブレット、他にネットに繋いでるものは。全部、一度俺に渡せ。バックドアが仕掛けられていないか、解析する」 「……」 「安心しろ。これは、お前を守るための、最も合理的で、当然の措置だ」 自分のためだとは、わかっている。それでも、その徹底したやり方は、陽の想像を遥かに超えていた。陽は、自分の全てが、蓮という名の要塞に守られていくような、不思議な感覚を覚えていた。 思わず、心の声が漏れた。 「……なんで、お前が、オレのためにそこまでするんだよ。面倒だろ、普通。オレのことなんて、どうでもいいって思ってたんじゃないのかよ」 その、魂からの問い。 一瞬、陽の心に、愚かな期待がよぎった。自分にとって蓮が特別であるように、蓮にとっても自分が、何か特別な存在であってほしい、と。 蓮の指が、ぴたりと止まった。 彼は、ゆっくりと顔を上げると、少しだけ、迷うように目を伏せる。自分の内面を語ることに、慣れていないようだった。 「……俺の母親は、世界的に名の知れたホワイトハッカーだ」 唐突に、蓮は切り出した。 「あの人は、俺にプログラミングの全てを教えた。そして、一つだけ、俺にルールを課した」 蓮の声が、わずかに、低くなる。まるで、遠い日の記憶を、なぞるように。 「『その力は、誰かを傷つけるためではなく、正しいことをなすために使いなさい』と。……ガキに言い聞かせるような、青臭い理想論だ」 自嘲するように、蓮は鼻で笑った。だが、その瞳は、笑っていなかった。 「だが、俺は、その約束を破る気はない」 「目の前に、助けを必要としている人間がいる。そして、俺には、そいつを助けるだけの力がある。……ならば、俺がやるべきことは、一つしかない」 蓮は、陽の目を、再び、真っ直ぐに射抜いた。 「これは、俺自身の問題だ。俺が、俺であるための、ただのルールなんだよ」 それは、陽への同情や憐憫ではない。ましてや、陽が心のどこかで期待してしまったような、特別な感情でもない。ただ、黒崎蓮という人間の根幹を成す、揺るぎない信条の告白。 その、あまりにも不器用で、あまりにも誠実な「正義」の形を前に、陽は、もう、何も言い返すことができなかった。 「……そっか」 陽は、ふっと、どこか寂しさを滲ませた笑みを浮かべた。 期待していた答えとは違った。けれど、それ以上に、蓮の本当の心に少しだけ触れられたことが、陽の胸の奥を温かくした。

ともだちにシェアしよう!