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第10話 矜持と諦念
翌朝、陽は重い瞼をこじ開けた。部屋の空気は、まだ少しだけ気まずい。だが、昨日までの、息が詰まるような冷たい沈黙とは、明らかに何かが違っていた。
部屋の右側、蓮の世界では、既に主がデスクに向かい、ヘッドホンをしてスクリーンに没頭している。その背中は、相変わらずの世界を拒絶するオーラを放っていたが、陽にはもう、それが彼の鎧のようなものだとわかっていた。
陽はベッドから抜け出すと、キッチンへ向かい、二人分のコーヒーを淹れた。自分の白いマグカップと、そして蓮の、黒いマグカップを取り出して。
ことり、と音を立てて蓮のデスクの隅にそれを置く。
蓮の肩が、わずかに揺れた。ヘッドホンを少しだけずらし、訝しげな視線が、黒いマグカップと陽の顔を往復する。陽は、ばつが悪くなって「……別に、ついで」とだけ呟くと、そそくさと自分のソファへと戻った。
蓮は何も言わず、ただ、ゆっくりと、その黒いマグカップに手を伸ばした。
その日の午後。蓮は唐突に「昨日の続きだ」と言って、陽の方へ向き直った。
「お前の安全を確保するには、行動パターンと思考ルーチンの把握が不可欠だ」
「はあ? なんだよ、それ」
「質問に答えろ。これは、お前という脆弱なシステムを守るための、セキュリティ対策の一環だ」
そう言って始まったのは、蓮による、あまりにも一方的な「尋問」だった。
「まず、オフの日はどこへ行くことが多い」
「別に決まってないけど……強いて言うなら、演技のワークショップかな。有名な演出家のやつとか、海外の俳優が特別に来てやるやつとか、面白そうなのがあれば」
「ワークショップか」と、蓮は感情を挟むことなく、ただのデータとしてPCに打ち込んでいく。その無機質な態度に、陽は少しだけカチンときた。
「なんだよ、その言い方。オレだって真剣なんだからな。学業優先でプロの仕事はセーブしてるけど、だからって何もしなかったら、どんどん錆びついていくだけなんだよ、役者ってのは」
蓮の表情は変わらなかった。だが、その指は、キーボードの上で止まっていた。
「……いつからだ」
「え?」
「いつから、役者をやっている」
それは、尋問ではなく、純粋な問いだった。陽は一瞬戸惑ったが、観念したように、息を吐いた。
「……物心ついた時から。気づいたら、現場にいた。母さん曰く、カメラの前だと、オレ、すごく楽しそうに笑ってたんだってさ」
陽は、遠い目をして続けた。
「『天才子役』なんて呼ばれてたけど、自分じゃ全然わからなかった。オレにとっては、ただの最高に面白い『ごっこ遊び』だったんだ。台本の中の、自分じゃない誰かになるのが、ただ、楽しくて仕方がなかった」
それは、蓮が初めて聞く、陽の魂の告白だった。
「でも、大きくなるにつれて、周りの期待とか、プレッシャーとか……まあ、いろいろあって。そんな時に、母さんが言ってくれたんだ。『陽は今までずっと頑張ってきたんだから、少し休んで、普通の高校生活も経験してみたら?』って。二人でたくさん話し合って、プロの仕事は一度セーブして、学業に専念することに決めたんだ」
「……それで分かったんだけど、やっぱり、オレと演技って切り離せないんだなって。これまでもそうだし、これからもきっとそう」
長い、沈黙。
やがて、蓮は、PCから陽へと、その視線を完全に移した。そのヘーゼル色の瞳が、探るように、陽の内側を覗き込んでくる。
「……お前は、ほとんど常に何かを演じているように見える。学校で見せる顔も、そうだ。……疲れないのか?」
それは、蓮からの、初めての、踏み込んだ問いだった。陽は、一瞬だけ虚を突かれたが、すぐに、ふっと口元を緩めた。
「疲れる、か。考えたこともなかった。求められた役を、完璧に演じてみせる。それが、役者・白石陽としてのプライドだから。面白いだろ? オレの価値は、オレじゃない誰かになることで証明されるんだ」
その言葉には、プロフェッショナルとしての確かな矜持と、ほんの少しの諦念が滲んでいた。
「でも」
陽は、続ける。その声のトーンが、少しだけ、柔らかくなる。
「なんでだろうな。お前の前だと、どうやったって演じられないんだ。お前、人の演技とか、嘘とか、全部見透かして『非合理だ』って切り捨てそうじゃん。だから、演じるだけ無駄っていうか……」
陽は、そこで一度言葉を探すように視線を彷徨わせた。何か、本質的なことを言いかけて、しかし、その言葉が喉の奥に引っかかったようだった。ふい、と彼は顔を逸らし、耳の端を赤くしながら、吐き捨てるように言った。
「……ていうか、そもそも! お前みたいな傍若無人でいちいち腹立つやつへの対応なんか、演技でどうにかなるもんじゃないんだよ!」
それは、陽なりの、最大の照れ隠しであり、そして、不器用な信頼の証だった。
その、あまりにも子供じみた言い訳に、今度は蓮が、言葉を失う番だった。
蓮は、ふい、と視線を逸らす。
部屋に流れる、どこか心地よい静寂。
失っていた日常が、以前とは全く違う、新しい音色を伴って、戻ってきた気がした。
その夜。
陽はソファに寝転がり、スマホで何かを検索していた。
「何を見ている」
「ああ、今度参加するワークショップで使う戯曲を探してるんだ。ちょっとマニアックな海外のやつでさ。神保町の古本屋にしかないみたいなんだよ。週末、探しに行こうと思って」
その言葉に、蓮の目が、鋭く光った。
「一人で行くのか」
「そうだけど。大丈夫だって。都内だし、昼間だしさ」
陽が軽く笑って返した時、蓮の瞳の奥に、陽にはまだ読み取れない、わずかな懸念の色が浮かんだことに、彼は気づかなかった。
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