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第11話 白昼の勧誘
週末の神保町は、古書の匂いと、学生や文化人たちの落ち着いた活気で満ちていた。
陽は、目的の戯曲が置いてあるという古本屋の店先で、ガラスケースに並べられた年代物の万年筆をぼんやりと眺めていた。蓮との和解から数日。寮の部屋の空気は、まだ少しだけぎこちないが、以前のような息苦しさはない。隣にいる蓮の存在が、陽の心を、不思議と穏やかにさせていた。
(……帰ったら、またゲームでも、誘ってみるか)
そんなことを考えて、ほんの少しだけ口元が緩んだ、その時だった。
「白石陽くん、ですね」
穏やかな、学者然とした声に呼び止められ、陽はぎくりと足を止めた。
振り返ると、そこに少し着古したツイードのジャケットを羽織った、人の良さそうな男が立っていた。年の頃は40代ほど。大学の教授か、出版社の編集者か、この街の風景に溶け込むような、ごく自然な佇まいだった。
「……どちら様ですか」
「これは失礼。私は浅野と申します」
男――浅野は、物腰柔らかく、会釈をした。
「先日お会いした『作者』から、使いの者として参りました」
その一言で、陽の全身が強張った。あの悪夢が、こんな、何の変哲もないインテリの姿をして、追いかけてきたのだ。
「我々のプロジェクトに、是非ともご参加いただきたい。先日は、我々の代表が少々失礼な真似をいたしましたこと、お詫び申し上げます。ですが、彼の言葉に嘘はありません。我々は、あなたのために新しい『帰る場所』を用意しました。もう何も演じる必要のない、安息の地です」
浅野は、まるで教え子を諭すかのように、淀みなく語りかける。その言葉は甘く、魅力的で、そしてひどく胡散臭かった。
陽は、手にしていた戯曲の入った紙袋の持ち手を強く、強く握りしめる。
脳裏に浮かんだのは、寮の自室の、半分を占める殺風景な空間。
そして、いつも不機嫌で、他人の心などお構いなしの、同室の男の顔。
人の好きなものを「ノイズ」と平気で切り捨て、こちらの気持ちを考えずに正論ばかりを振りかざすあの冷たいロジック。
でも――。
あの男の前が一番息がしやすいことに、気づかないわけにはいかなかった。怒鳴り合い、喧嘩しても変わらないでいられる存在。
『これは、俺自身の問題だ。俺が、俺であるための、ただのルールなんだよ』
そう言って陽を守ろうとする、不器用で、どうしようもなく誠実な、たった一人のルームメイト。
憎まれ口と、不器用な優しさが同居するあの部屋こそが、今の陽にとって一番の『安息の地』だった。
「……必要ありません。」
はっきりと、陽は言った。
「あんたたちの誘いには乗らない。迷惑です。もう関わらないでください」
陽の心に芽生えた、ささやかな、しかし確かな抵抗。
それを聞いても、浅野の表情は、少しも変わらなかった。少し困ったように眉を下げたが、その人の良さそうな笑みは崩さない。
「おや、それは残念だなあ。君のためを思って言っているんだが、まあ、仕方がない。我々も、これ以上君に干渉するのはやめよう」
浅野は、心底残念そうに肩をすくめた。その、どこまでも変わらない態度が、逆に陽の背筋を凍らせる。一瞬、安堵しかけた陽の心を、続く言葉が無慈悲に打ち砕いた。
「その代わり、と言っては何だが……君のルームメイトが、君の事情を余すところなく知ることになるだろうね」
「……え?」
「黒崎蓮くん。彼は我々が思う以上に優秀だ。我々が君を保護しなければ、彼が君の全てを暴くのは、もはや時間の問題だろう」
浅野は、一歩、陽に近づく。その声も、表情も、穏やかなままだった。だが、その瞳の奥だけが、ガラス玉のように何の温度も映していなかった。
「想像したことがあるかい? 君がひた隠しにしてきた家庭の事情、その全てを、彼が知ってしまった時のことを。あのプライドの高い彼が、君に向ける同情と憐憫の眼差しを。君は、それに耐えられるかな?」
世界から、音が消えた。
目の前で、男が静かに、そして親しげに微笑んでいる。陽は、買い物袋を提げたまま、まるで時が止まったかのように、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
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