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第12話 王手
目の前で、人の良さそうなジャケットを着た男が、静かに微笑んでいる。
蓮にだけは、知られたくない。憐れまれたくない。同情されたくない。その恐怖が、陽の身体を芯から凍らせていた。
だが――。
脳裏で、あの忌々しい『作者』の顔が、愉悦に歪む。
この男、浅野も、同じ目をしている。人間を、ただの駒としか見ていない、神を気取った傲慢な目だ。
こいつらの思い通りにされて、たまるか。
恐怖に震える心の奥底で、小さな、しかし燃えるような怒りが生まれた。
それに、と陽は思う。
蓮は、本当にオレを憐れむだろうか。どこまでも純粋な正義感で、陽を守ろうとしている男だ。オレたちの間にできた、あのぎこちなくも確かな繋がりは、同情なんていう薄っぺらい感情で、壊れてしまうものなのか?
「……構いません」
か細い、囁きのような声が、陽の唇から漏れた。
その言葉に、浅野の目が、ほんのかすかに見開かれる。予想外の返答だったのだろう。
陽は、一度固く目を閉じ、そして開いた。腹の底から、ありったけの勇気をかき集める。
「どうせあんたたちは、オレの家のことなんて、とっくに全部掴んでるんでしょう。蓮に知られるのも、あんたたちに知られてるのも、どっちにしたって同じことです」
そうだ、同じことだ。そう自分に言い聞かせる。
「それなら――!」
陽は、真っ直ぐに浅野の冷たい目を見据えた。
「オレは、あんたたちみたいな奴らの言いなりになんかならない!」
啖呵を切った。
それは、恐怖を、そして己のプライドを、全て懸けた、魂からの抵抗だった。こんな得体のしれない連中に、自分の、そして蓮との間に芽生えたささやかな日常の舵を握られてたまるか。
陽の、予想だにしなかった抵抗。
その言葉を聞き終えても、浅野の穏やかな表情は、やはり、崩れなかった。
彼は、ただ、心底残念そうに、そして、どこか哀れむように、小さく息を吐いた。
「そうか。君は、そちらを選ぶんだね」
その声は、まるでAIが事実を読み上げるかのように、一切の抑揚がなかった。
「黒崎蓮くんは、我々の存在に気づき、敵対行動を始めている。このままでは、彼は我々のプロジェクトにとって重大な障害となるだろう。我々には彼を『排除』する手段も力もある。……ですが、彼の才能は惜しい。そこで、君に選択肢を与えようと思ったんだが」
浅野は、そこで言葉を切り、慈悲深い医者が、末期癌の患者に告知をするような、悲しげな微笑みを浮かべた。
「君が大人しく我々の元へ来れば、我々は黒崎くんへの干渉を止め、彼の安全を『保証』しよう。だが君が断るなら――我々は彼を敵とみなし、全力で『排除』に動くだけだ」
心臓を、氷の矢で射抜かれたような衝撃。
先程までの恐怖とは、全く質の違う、絶望的な冷たさが全身を駆け巡った。
自分のプライドや、秘密がどうでもよくなるほどの、絶対的な恐怖。
これまでは、自分の問題だった。自分の心が、どう傷つけられるかの話だった。
だが、違う。
この男は、いとも容易く、蓮の命を、未来を、奪うと告げているのだ。
彼の命は、君のその選択一つにかかっている、と。
「……っ」
声が出ない。
呼吸の仕方も、忘れてしまった。
握りしめていた紙袋が、ずるりと手から滑り落ち、地面に散らばる。その音すら、耳には届かなかった。
目の前の男は、表情一つ変えない。
それは、絶対的な力の差の証明。
お前一人がどう足掻こうと、我々にとっては、虫ケラ一匹を潰す程度のことに過ぎないのだと、無言のうちに物語っていた。
王手だ、と陽は悟った。
最初から、自分に選択肢など、何一つ用意されてはいなかったのだ。
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