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第13話 代償
土曜日の昼下がり。
寮の部屋は、珍しく、蓮一人だった。
陽は、「ワークショップの資料を探しに神保町へ行く」と言って、午前中に出ていった。その背中を、蓮は、何も言わずに見送った。
『大丈夫だって。都内だし、昼間だしさ』
そう言って笑った陽の軽い口調が、なぜか耳にこびりついて離れない。
(……非合理的だ)
蓮は、自らのデスクで、調査用のディスプレイに意識を集中させようとして、失敗した。胸の奥で、正体不明のノイズが思考をかき乱す。心配、などという非生産的な感情であるはずがない。だが、陽が出て行ってから、どうにも落ち着かなかった。
結局、蓮は、自らが陽のスマホに仕込んだ監視アプリを起動させていた。画面の地図上には、神保町の古書店街を示すエリアで、陽の位置を示す青い光点が、ゆっくりと動いている。
(……よし)
何が「よし」なのか、自分でもわからない。だが、その光点が正常に機能しているのを確認すると、胸のノイズが少しだけ、静かになった気がした。蓮は、自分自身に舌打ちをすると、今度こそ、と調査に戻った。敵の金の流れを追跡し、その本拠地を特定する。それが、今、この瞬間の、最も合理的なタスクのはずだった。
神保町の雑踏の真ん中で、陽は、ただ立ち尽くしていた。
握りしめていた紙袋が、いつの間にか手から滑り落ち、買ったばかりの戯曲が、足元に無様に転がっている。車の走行音も、人々の話し声も、全てが分厚いガラスの向こう側のように、遠く、現実感がない。
頭の中は、真っ白だった。
ただ、蓮の、あの不機嫌そうな顔だけが、何度も、何度も、浮かんで、消える。
あいつの命が、未来が、自分の選択一つに、かかっている。
(……そうだ)
心の中で、何かが、ぷつりと切れる音がした。
(オレが、行けばいいだけだ)
プライドも、恐怖も、もう、どうでもいい。
それで、あいつが助かるなら。
陽は、まるで操り人形のように、ゆっくりと、地面に転がった戯曲を拾い上げた。そして、それを再び紙袋に戻すと、目の前で辛抱強く待っていた浅野の顔を見ることなく、ただ、か細く、しかし、はっきりと告げた。
「……わかりました」
その声に、浅野は満足そうに頷くと、近くの路上に停車していた、一台の黒いセダンを顎で示した。何の変哲もない、街の風景に溶け込んだ車。
陽は、もう何も考えず、ただ、その車の後部座席のドアへと、一歩、また一歩と、鉛のような足を進めた。
ドアが開き、中に吸い込まれていく。
閉ざされたドアの向こうで、神保町の喧騒が、急速に遠ざかっていくのが見えた。
寮の部屋で、蓮の指が、ぴたりと止まった。
金の流れの終着点。神奈川県の山奥にある、巨大な廃墟と化した研究施設。その所在地を、ついに特定した。
よし、と小さく呟き、蓮は、数時間ぶりに、思考の海から浮上した。
何気なく、先ほどから開きっぱなしにしていた監視アプリの画面に目をやる。
その瞬間。
地図上にあったはずの、陽を示す青い光点が、何の予兆もなく、プツリと消えた。
画面の隅に、無機質な赤い文字が点滅している。
『SIGNAL LOST』
ザアッと、蓮の全身から、血の気が引いていくのがわかった。
すぐに、陽の番号をコールする。だが、呼び出し音は鳴らない。ただ、『おかけになった電話は、電源が入っていないか…』という、無慈悲なアナウンスが響くだけだった。
最後の信号が途絶えた場所は、神保町の、あの古本屋の前。
――やられた!
蓮の脳内で、バラバラだった懸念と事実が、一つの、最悪の結論へと収束する。
俺が感じていた、あの胸騒ぎは、正しかったのだ。
行かせるべきではなかった。俺が、ついて行くべきだった。
あの胡散臭い連中の掌の上で、まんまと、陽を奪われた。
俺の、保護対象を。俺の……。
「クソッ!!」
椅子を蹴り倒すように立ち上がり、蓮はありったけの力で、拳を机に叩きつけた。
ガンッ、と鈍い音が響き渡る。
捜査に夢中になるあまり、最も近くにいるはずの存在を、この手で危険に晒した。
その、取り返しのつかない後悔と、自らへの激しい怒りが、蓮のプライドを、炎で焼き尽くしていた。
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