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第16話 矛盾

夜が明けたのかどうかも、白い部屋の中ではわからなかった。 陽は、ほとんど一睡もできずに、ベッドの上で身体を丸くしていた。眠りに落ちれば、夢の中でさえ、あの実験室の光景が、椎名の穏やかな声が、追いかけてくるような気がした。 やがて、無慈悲にドアが開き、昨日と同じ研究員たちが現れる。陽は、もう抵抗しなかった。無意味だと、昨日、骨の髄まで思い知らされたからだ。 まるで屠殺場に引かれていく家畜のように、無言で彼らに従い、再びあの実験室の椅子に座らされる。 頭部に、冷たい電極が取り付けられていく。 目の前のモニターに、自分の心が、不気味な模様として映し出された。 「おはよう、白石くん。よく眠れたかな?」 そこに、悪魔がやってきた。椎名は、昨日と寸分違わぬ穏やかな声で挨拶をすると、早速本題に入る。 「では、今日の実験を始めようか。単刀直入に聞くね。君に、恋人はいますか?」 恋人。 その言葉の響きに、陽の胸の奥が、ずきりと痛んだ。 恋愛など、自分には縁のないものだ。元子役という経歴から、好意を寄せられることは何度もあったが、そのどれもが、自分の「肩書」に向けられているようで、ひどく空々しく感じた。そして何より――あの義父の、歪んだ「愛情」が、陽の中から、誰かと深く関わることへの欲求を奪い去っていた。 答えを知っているくせに、なぜ、わざわざ聞くのか。 その侮辱的な問いに、陽は唇を固く結ぶ。だが、身体は、脳は、もう自分のものではなかった。 「……いない」 意思とは無関係に、声が漏れる。 「怖いから」 口が、さらに残酷な本音を紡ぎ続ける。 「誰かに……特別な好意を、向けたり……向けられたりするのが、気持ち悪いから」 言ってしまった。 それは、陽が心の奥底で抱え続けてきた、人間関係に対する根源的な嫌悪感。人を愛することも、人から愛されることも、全てが汚らわしいものに感じてしまう。自分は、もう、そういう風にしか物事を見られない、壊れた人間なのだと、自白しているのと同じだった。 陽は、悔しさと情けなさに、奥歯を強く噛みしめる。 椎名は、そんな陽の様子を意にも介さず、興味深そうに手元の端末の数値を記録していた。 「なるほど。データとして記録します。被験体は、他者との情緒的な接続に対し、強い拒絶反応を示す、と」 その分析は、どこまでも冷徹で、事務的だった。 椎名は、ふと顔を上げると、まるで面白いパズルを見つけた子供のように、無邪気に目を輝かせた。 「しかし、これは実に興味深いな」 彼は、手元の記録と、目の前の陽を交互に見比べる。 「君の『内面の感情』は、今、他者との接続を『拒絶』している。だが、記録によれば、君の『外面的な行動』は、全く逆なんだ。君は自らの意志でここに来た。ルームメイト、黒崎蓮くんの安全を確保するという、取引のためにね」 椎名は、心底不思議そうに、首を傾げた。 「一つのデータは、他者への執着を『拒絶』している。もう一つのデータは、他者のために自己を『犠牲』にしている。この二つの事実は、論理的に両立しない。これは、我々の研究において、極めて稀なケースだ。面白い、実に面白いよ」 その、純粋な好奇心に満ちた視線が、陽の心を、じりじりと焼いていく。 男は、陽の葛藤そのものを、最高の娯楽として、最高の研究対象として、楽しんでいた。 「教えてくれないか、白石くん。君の中で、この矛盾を成立させている、その根源は何だい?」 モニターに映る脳波の模様が、激しく乱れ始めた。 その問いは、陽が心の奥底で、ずっと目を背け続けてきた、核心だった。 「君にとって、黒崎蓮くんとは、一体、何なのですか?」

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