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第19話 環境変数

第19話 環境変数 耳の奥で、陽の、あの悲痛な告白が、何度も何度も木霊している。 『好きな人』 蓮は、自室の椅子の上で、身動き一つできずに固まっていた。 頭の中で、走馬灯のように、陽との記憶が逆再生されていく。 いちいち突っかかってくる、負けず嫌いなルームメイト。 ゲームに負けて、本気で悔しがっていた、あの顔。 ゲームに勝って、子供みたいに、はしゃいでいた、あの笑顔。 蓮の謝罪に、驚いたように目を見開いて、気まずそうに「……オレも、ごめん」と呟いた、あいつのぎこちない顔。 音楽の趣味が合わないと、くだらないことで、毎日飽きずにしてきた、あの喧嘩。 その全てが、蓮にとってはただの日常であり、時には「非合理だ」と切り捨ててきた、意味のないノイズのはずだった。 だが、もし。 あの、一見、意味のないように見えた全ての行動に、陽の、不器用な、隠された感情が込められていたのだとしたら。 (……俺は) 蓮は、暗い部屋の中で、モニターの光に照らされながら、静かに自問した。 (俺は、あいつのことを、何一つ、わかっていなかった) 初めて、自分の完璧なはずの分析能力が、全く機能していなかったことを認めた。人の心、白石陽という、最も近くにあったはずの難解なプログラムのソースコードを、俺は一行も読み解けてはいなかったのだ。 そして、蓮の思考は、今度は、鋭いメスのように、自分自身の内部へと向けられていく。 なぜ、俺は、陽の告白に、これほどまで動揺した? なぜ、俺は、ただの「保護対象」のはずのあいつのために、徹夜でPCにかじりついて、ここにいる? なぜ、俺は、あいつがいない寮の部屋を、これほど「異常」だと感じている? 白石陽がいないと、俺は、どうなってしまう? 疑問が、思考の回路を駆け巡り、一つの結論を導き出そうと、高速で演算を繰り返す。 感情という、最も不確定なバグを、蓮は、自分自身の得意な言語で、ロジックで、数式で、再定義しようと試みていた。 やがて。 長い沈黙の末、蓮は、一つの「解」に辿り着く。 (――白石陽という存在は、俺の日常を構成する、極めて重要な『環境変数』だ) (あいつの存在が、俺の思考を、精神を、最も安定した状態で『運用』するための、必須コンポーネントだったんだ) そうだ。 あの、うるさくて、非合理で、気に食わないはずの存在が、いつの間にか、俺というシステムの根幹に、深く組み込まれていた。 あいつがいるから、俺の日常は正常に稼働する。 あいつがいない世界は、前提条件が崩れた、ただのエラーでしかない。 蓮は、ゆっくりと椅子に深く座り直した。 その瞳には、もう、先程までの動揺の色はなかった。 あるのは、絶対的な目標を再設定した、冷徹なまでの、静かな光。 陽を、取り戻す。 それは、感傷や、愛情などという、不確かなものではない。 (――これは、俺自身の、正常な機能を維持するために、必要不可欠な、最も合理的な、タスクだ) 目的は、定まった。 蓮は、PCのモニターに、先ほど突き止めた施設の詳細な設計図と、警備システムの構造図を並べて表示させる。 これから始まる、最も重要なタスク。そのための、作戦立案を開始する。 その目は、すでにただの高校生のものではなかった。敵陣へと乗り込む、戦士の目をしていた。

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