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第18話 盗聴
第18話 盗聴
陽が攫われた翌日、日曜日の朝。
寮の部屋は、PCの冷却ファンが発する低い唸りと、キーボードを叩く乾いた音だけが支配していた。
蓮は、一睡もしていなかった。徹夜で酷使した目は充血し、思考は、カフェインとアドレナリンによって、危険なほどクリアに冴え渡っている。昨日の昼下がり、陽の信号が途絶えた瞬間から、彼の戦いは始まっていた。
昨夜のうちに、敵の拠点が神奈川の廃墟であることは突き止めた。だが、そこからが本当の地獄だった。施設のネットワークは、予想を遥かに超える鉄壁の要塞だった。一晩中、あらゆる攻撃を仕掛け、システムの僅かな応答の遅れから糸口を探り続けたが、決定的な侵入口(エントリーポイント)は見つけられずにいた。
だが、夜が明け、敵のシステム管理者が油断するであろう、日曜の朝。ついに、蓮はその壁に、僅かな、しかし、見逃すことのできない脆弱性を見つけ出していた。施設の維持管理システムに使われている、旧式のプロトコル。
(……見つけた)
数十分にも及ぶ、息の詰まるような攻防の末、蓮はついに、施設の内部ネットワークへの、細い、細い活路をこじ開けた。
目的は、施設のマップ、警備カメラの映像データだ。陽の監禁場所を特定し、救出の足がかりにする。
だが、ネットワークの階層を潜っていく中で、蓮は一つの、奇妙な音声ファイルに気づいた。『被験体BH-07 - 初期接触記録』とだけ記された、暗号化レベルの低いデータ。
(……初期接触記録?)
胸騒ぎがした。蓮は、思考の片隅で、陽が言っていた「実験」という言葉を反芻する。本来の目的を一時中断し、蓮は、その音声ファイルの通信を、強制的に傍受した。
ノイズ混じりの音声が、ヘッドホンから流れ込んできた。
それは、神保町の雑踏の音。そして、陽と、あの浅野と名乗る男の会話だった。
『君が大人しく我々の元へ来れば、我々は黒崎くんへの干渉を止め、彼の安全を『保証』しよう。だが君が断るなら――我々は彼を敵とみなし、全力で『排除』に動くだけだ』
心臓が、鷲掴みにされたかのように、きしんだ。
なんだ、これは。
俺の、命を、取引に?
『……わかりました』
ヘッドホンの向こうで、陽の、諦めに満ちた声がした。
その瞬間、蓮の世界から、音が消えた。
陽は、攫われたのではなかった。
俺を、守るために。
自らの意志で、地獄へ足を踏み入れたのだ。
(……そういう、ことかよ)
ふつふつと、腹の底から、氷のように冷たい怒りが湧き上がってくる。だが、それは、もはや敵に対してだけのものではなかった。陽に、こんな残酷な選択を強いる原因を作った、自分自身への、どうしようもない怒りだった。
その、凍てつくような激情の最中、蓮は、別の、今まさにリアルタイムで動いている音声ストリームに気づいた。『実験室3 - 定時モニタリング』。
蓮は、震える指で、その通信を、強制的に傍受した。
最初に聞こえたのは、医者のように、穏やかで、しかし、どこか歪んだ男の声だった。
『……君にとって、黒崎蓮くんとは、一体、何なのですか?』
陽の声にならない抵抗が、ノイズの向こうからでも痛いほどに伝わってくる。システムの警告音。誰かが何かを叫ぶ声。
これは、ただの尋問ではない。何らかの方法で、対象者の意思を乗っ取り、心の奥底にある本音を、強制的に「自白」させているのだ。
人の心を、尊厳を、土足で踏み荒らし、玩具のように弄ぶ、外道の所業。
(――てめえら、全員、絶対に許さねえ)
蓮の瞳が、静かな殺意に満ちた色に変わった。
その、凍てつくような怒りが最高潮に達した、まさにその時だった。
ヘッドホンの向こうで、陽の、最後の抵抗が、破られた。
『……す、きな……ひと』
それは、血が滲むような、絞り出すような、諦めと絶望に満ちた、告白だった。
好きな人。
その言葉が、蓮の鼓膜を通り抜け、脳髄で、心臓で、直接爆発した。
世界が、止まる。
今まで組み立ててきた、全てのロジックが、状況分析が、そして、今しがた燃え上がったはずの冷徹な怒りさえもが、こなごなに砕け散った。
なんだ、それ。
なんだよ、それ。
意味が、わからない。
陽が、俺を?
蓮は、自室の椅子の上で、身動き一つできずに固まった。
これは、事件だ。陽は、保護対象だ。
そう、頭ではわかっているのに。
耳の奥で、陽の悲痛な告白が、何度も何度も木霊していた。
そしてその告白の裏にある、あまりにも重い、自己犠牲の真実が、蓮の論理を完全に破壊していた。
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