1 / 4

第1話

 時は十七世紀。人々が神の御言葉(みことば)を解さず戦争に明け暮れ、やがて疲れ果てた頃。飢えた大国たちは”新大陸”に富を求め、続々と万里の波濤(はとう)を越えて行った。彼らは綿花や煙草、香辛料、そして奴隷を船に乗せて運び、海上交易は活況を呈した。  しかし奪う者はまた、奪われる者である。高価な荷を積んだ商船は、者どもの格好の餌食となった。貿易により都市が富み栄えた一方で、海賊たちもまた略奪し、美酒と快楽にふけり、その栄華を極めた。  これはそんな時代の、ある美しい海に浮かぶ一隻の海賊船の話。大海原に在ってただひとつの道標(みちしるべ)、北極星のように気高く光り輝く、愛の物語。  果てることなき波の音のような、静かな憂いを帯びたふたつの瞳を持つ青年が、一本の研ぎ澄まされた菜刀のみをその身にたずさえ、海賊船に乗り込むところから、物語は始まる。 「なあ新入り!この鶏も積み込むのか?」  男はほとんど叫ぶように大きな声で言った。桟橋は船荷の揚げ下ろしをする人々の往来や掛け声で、ひどく騒がしい。  荷役の陽に灼けた腕に抱えられた狭い鶏籠の中で、三羽の雄鶏が鋭い鳴き声を上げながら、茶色い羽をはばたかせた。 「そう!あと、この籠も。こっちは雌鳥が五羽」 「鶏を食うのか?」 「ああ。チキンライスにする。鶏を茹でてそのスープで米を炊くんだ。絶品さ」 「へぇ、食ったことがないな。前の料理人のときは、牛と豚ばかりだった。半分腐った塩漬け肉ばかりでね。あれは食えたもんじゃなかった」  男はその味を思い出したのか、苦々しく顔を歪めながら、船上の乗組員に籠を引き渡した。 「まあ何でもいいが、旨いメシを頼むぜ。この美しき月(ルナ・エルモーサ号)の、新米料理人さんよ!」 ヨーホー・ヨーホー 俺たちゃ気ままな海賊暮らし 奪えよ金貨 かっさらえ旨い酒 とっ捕まえろいい女 逆らう者はみなごろし 俺たちゃ気ままな海賊暮らし ヨーホー・ヨーホー  甲板の上、海賊たちは高らかに歌う。空はよく晴れて雲ひとつなく、風は南西から強く吹いて帆を膨らませていた。遠く高く飛ぶカモメたちが、その腹を太陽にきらりきらりと白く光らせている。  もう少しこの清々しい潮風に吹かれていたかったが、そうもいかない。夕飯の支度を始めるために俺は調理場へと降りた。  この船に乗り込んで一週間と少しが過ぎた。今日は何羽か鶏を潰してチキンライスを作ってもいいかも知れない。カオマンガイ、と呼ばれるこの暑い国の料理は、俺の得意なメニューのひとつだった。 「よお、マレ」  がたがたと騒々しく階段を踏み鳴らして降りてきたのは、首に赤いスカーフ──と言ってもひどく汚れていて、元々は赤だったと思われる黒ずんだボロ布を巻いているに過ぎないのだが、ともかくも、それをトレードマークにしている白髪交じりの大柄な男だった。 「ああ、航海長」 「オクトーでいいって。で、今日の夕飯は何だ」  彼はたびたび食事のメニューを訊きに来るという体で、この航海に新しく加わったばかりの俺の様子をうかがい、何くれとなく世話をしてくれている。海賊船というのはもっと殺伐とした所かと思っていたが、意外に仲間意識のようなものは強いのかも知れない。 「今夜はカオマンガイにしようと思ってる」 「ああ、前に言ってた鶏料理か」 「そう。鶏を捌くのに誰か手伝いがいるといいんだけど…」  首を傾げて見せると、オクトーは早速「おう、じゃあ上にいる奴に声をかけてやるよ」と親指で甲板をさした。 「でもお前、本当に大丈夫なのか」  わずかに声をひそめるようにして、オクトーは俺のほうへ顔を寄せた。 「なにが?」 「この船だよ。だって海賊船だって知らずに乗っちまったんだろ?」  ほかの乗組員の誰かから聞いたのだろう。元々海賊でもないのに新たにルナ・エルモーサ号に加わった料理人というのは、その物珍しさから船内で噂になっているのかも知れなかった。 「ああ。……でもまあ、金払いが良いのはありがたいからね。ここへ来る前は、その日食うものにも困ってたから。船が堅気だろうとそうじゃなかろうと、正直どっちでも構わなかった。料理人だと酒場で何気なく話したら、それならうまい仕事があるぜって具合に、この船に連れてこられたんだ」  するとそのとき突然、脛のあたりを何か柔らかいものが撫でた。しかし心当たりがあった俺は、狭い台所でゆっくりとしゃがみこんだ。 「……やっぱりお前か。腹が減ったのか?」  話しかけて、白猫の顎下をくしゃくしゃと撫でてやる。すると彼は気持ちよさそうに喉を鳴らして、淡い水色の目を細めた。船には似つかわしくない、真っ白な長い毛並みの雄猫。その身体はところどころ灰色に汚れてはいるが、その佇まいには他を寄せつけぬと言うような、気位の高い風情があった。 「こいつ、しょっちゅう餌をねだりにここへ来るけど、ちゃんとネズミ捕ってんのかね」  何か猫が食べられるような余り物があっただろうか、と食料庫を探っていると、後ろでオクトーが笑った。 「このニクスはネズミ捕りの名手だぜ。そりゃお前、ずいぶんと気に入られたな。ニクスがステラ以外にこんなふうに懐くのは初めて見たよ」 「そうなのか。ええと、ステラって……?」  振り返ると、甲板から静かに降りてくる男がいた。太陽の光を背負って、その輪郭は曖昧にぼやけている。 「ああ、ちょうどいい。こいつさ」  オクトーが顎をしゃくって男を指した。男は顔を上げる。俺を見る。  なんて美しい()だろう、と思った。長い睫毛に縁取られた深い焦げ茶の瞳は硝子玉のように透きとおって、まるで夜空の星を閉じ込めたみたいにきらきらと瞬いた。ああ、なんて。見つめるとその輝きに吸い込まれてしまうようで── 「こいつがステラ。船長の息子だよ。で、(ぼん)、こっちはマレ。新しい料理人だ」  オクトーが彼のほうを振り返りながら紹介する。それでも俺はその美しい男から目が離せなかった。意思の強そうなくっきりとした眉に、アーモンド型の勝ち気な瞳、象牙色のきめ細やかな肌。緩くウエーブのかかった黒髪は陽射しに灼けることもなく艶めいている。歳は俺よりも少し下、二十歳ぐらいだろうか。  彼は不機嫌そうにオクトーを睨みつけると「(ぼん)はよせ」と低く言った。そうして俺の頭から足の爪先までを値踏みするようにひと通り眺めて 「お前が海賊船とは知らずに雇われたっていう料理人か。……鈍くさい奴だな」  と吐き捨てると、俺の腕から白猫をひったくるようにして抱き、そのまま上がって行ってしまった。  彼の姿が消えた後も、甲板へと続く階段を呆然と眺めた。ニクスのいなくなった空っぽの腕が、なぜだかじんじんと痺れて、俺は思わず口の中で「ステラ」と、彼の名を呟いていた。  この夜のカオマンガイは結果として、大変に好評を博した。  この船には様々な土地の人間が乗っているが、東の果ての国の料理にはあまり馴染みがなかったようで、皿に盛り付けてやると皆が一様に怪訝そうに眉を顰めた。しかし、食える時に食えるものを食う、それが船乗りのルールだ。ひとたび口にすれば、彼らは今までに知らなかったエキゾチックなスパイスやハーブの風味の虜になった。むちりとジューシーな鶏肉、そして肉の脂を纏ってふっくらと艶めく米は彼らを夢中にさせて、結果、チキンライスを炊いた大釜はすぐに空になった。  いつも食事は、航海長以下の船員たちは、見張り当番の者を除いて一斉にとることになっている。そして船長とその息子であるステラだけが船長室のテーブルに着く。だから料理人の俺が船長と顔を合わせる機会というのはあまりないのだが、この時はルナ・エルモーサ号を()べる男がわざわざ甲板下へ降りてきた。 「お前か、新しい料理人ってのは」  調理室へ足を踏み入れた彼は、俺を見るなりその分厚い掌で豪快に肩を叩いた。  ルナ・エルモーサ号の船長──”黒いダイヤ(ディアマンテ・ネグロ)”の異名を持つ男、と言えば、海賊や彼らと繋がりを持つ輩のあいだでは、なかなかに名の知れた人物だった。初めて間近に見る彼は決して大柄ではなかった。身長は俺よりも少し低いぐらいで、しかし引き締まった体躯は、年齢よりも若々しい精悍さを彼にもたらしていた。そして何より印象的なのは、その眸だ。丸くぎょろりとした大きな瞳には、見る者を圧倒するような、ひとに何か畏怖の念を抱かせずにはいないような、そういう鋭い光があった。  ステラと面差しは似ていない。けれど、強い瞳。見つめていると喰われてしまいそうだ。そういう稀有な両目を持っているという一点においては、この父子は似ていると言えるのかも知れない。そんなことを考えながら、数時間前に目を奪われた男の顔を、俺は思い出していた。 「今日の夕食は美味かった。あれは何ていう料理なんだ、お前の故郷の料理なのか」 「ありがとうございます。あれはカオマンガイというんです。俺のふるさと……というか、俺は訪れたことはないですが、亡くなった母が昔よく作ってくれた料理で。東の果ての、美しい花々が咲く暑い国の料理ですよ」 「そうか。……お前、名前は」 「マレです」  マレ。船長は艶のあるバリトンでそう繰り返すと「とにかく、気に入った。また鶏が手に入ったら、あれを作ってくれ」と、子どものように無邪気な笑顔で言った。 「Por supuesto(もちろんです)!」  去っていく背中に返事をする。海賊船という未知の職場でこれから何とかやっていかれそうだと、俺は知らぬうちに詰めていた息を大きく吐き出した。  ステラがひとり調理場へと降りてきたのは、その翌日のこと。  昼食の後片付けを終え、俺は床の拭き掃除をしているところだった。小麦粉や乾物の類を詰め込んだ背の低い棚の上では、白猫のニクスが陽の光を浴びて気持ちよさそうに居眠りをしていた。そこは午後の時間帯には窓からの陽がちょうどよく射し込む場所で、最近の彼は、昼飯に何かしらの食料を俺からせしめた後は、ここで惰眠を貪ることに決めたらしかった。 「おい、マレ」  そんな長閑な(ひる)下がりを乱したのは、船長のひとり息子だった。彼の唇から飛び出した自分の名前に、何故かどきりと心臓が跳ねた。 「はい、ええと……坊っちゃん」 「坊っちゃんは絶対にやめろ」  昨日オクトーに訂正したときと同じように、嫌そうに眉を寄せ彼は言った。 「じゃあ……ステラ、さん」 「ステラでいい」 「はあ……じゃあ、ステラ。俺の名前、よく知ってましたね」 「昨日聞いただろ。俺はひとの名前はきちんと覚える」 「ふうん。鈍くさい奴の名前でも?」  この年若いお坊ちゃんをちょっと揶揄ってみたくて蒸し返すと 「それは……悪かった。昨日はちょっと虫の居所が悪かったんだ」と、彼はばつが悪そうにそっぽを向いた。  おや、と謝罪の言葉を少し意外に思う。横柄な物言いとは裏腹に、このお坊ちゃんの性格は案外と素直なのかも知れなかった。 「それで。ええと……どうしたんです?ああ、ニクスならそこで寝てますよ」  来訪の理由がそのぐらいしか思い浮かばず、陽だまりの白猫を指し示す。と、彼は大きな目をぱちぱちと何度か(しばた)かせてから、口元を引き結んで真っ直ぐに俺を見据えた。 「マレに頼みがあって来た」 「頼み、ですか」  彼の真剣な表情に気圧されて、なんとなく半歩後ずさる。 「俺に、料理を教えてくれないか」 「……料理?」 「そう、料理の作り方」  俺と目を合わせたまま、ステラはこくりと頷いた。その素朴な仕草は彼を少しだけ幼く、そして愛らしく見せた。 「ええと、それは……昨日のカオマンガイがお気に召したってことですか?それだったらわざわざ作り方を習わなくても。俺がまたここで作りますよ。キャプテンからも直々に、また作れってお達しがありましたから」 「親父が?へえ、そうなのか。……あ、そうじゃなくて!」  彼は身を乗り出すと、ぐいと俺の手を握った。 「料理に興味があるんだ。昨日のカオマンガイ、すごく美味かった。あんなの初めて食べた。だから頼む、俺に教えてくれ」  ステラが俺を見上げる。その瞳は強く輝いて、晴れた海を思わせた。それでいて深く静かに澄んで、凪いだ海の底を覗くようだった。  くらりと、微かに眩暈がした。まただ。この眸だ。見つめていると何も考えられなくなる。いつまででも眺めて、そうして、沈んで溺れてしまいたいような気さえする。 「なあ、マレ……だめか?」  催促するように腕を引かれて、周りの音がはっと戻ってくる。やっと彼の言葉は俺の脳みそまで届いた。ええと、料理を教える、ステラに。特に断る理由はないように思えた。船長の御子息たっての依頼。危ないことをさせるわけではないし、俺のここでの仕事に不都合もない。それに、この美しい彼にもっと近づいてみたいという、好奇心というよりはもう少し色めいた感情が自分の中に湧き上がっていることを、俺はひっそりと自覚していた。 「いいですよ」  俺が言うとステラの顔がぱっと輝いた。まるで南国の花が咲いたような、満面の笑み。 「ほんとか!」 「ええ、教えますよ。なにも難しいことじゃない」  するとステラは大袈裟なぐらい喜んで「ありがとう」と、握った俺の腕をぶんぶん振り回した。 「お安い御用です」  邪気のない笑顔は初対面のときの印象とはだいぶ様子が違っていて、なんとなく胸の内があたたかくなるのを感じた。つられて、俺も笑う。すると彼は「じゃあ、あらためて」と、海の男にしては柔らかい手で俺の手をぎゅっと握った。 「よろしくな、マレ」 「よろしく、ステラ」  見つめ合った彼の頬はバラ色に上気して、俺をやけに落ち着かない気分にさせた。 「ステラ、あぶない!」 「違うって!そこに左手を置いてたら親指がなくなっちまうよ」 「あー!生肉を切ったまな板にパンを置くんじゃない!」  ステラに料理を教えるのは、想像以上に骨が折れた。まず彼はとにかくで、何かを丁寧にやるということに全く不向きだった。そして長年の船暮らしがそうさせたものか、衛生観念もまるで備わっていない。彼は何日経っても一向に包丁を上手く扱えるようにならなかった。 「なんでそんなに刃物の使い方が分かってないんだ。海賊ってのはロープとナイフの扱い方なんてのは、基本中の基本じゃないのか」  呆れて肩を竦めた俺に、彼は頬を膨らませてぷいとそっぽを向いた。そしてぽつりと「好きで船に乗ってるわけじゃない」と呟いた。 「……ステラ?」 「俺は海賊には、ならない」  その声は小さかったけれどやけに頑なで痛々しいような響きがあって、俺はそんなふうに彼を(なじ)ったことをすぐに後悔した。  それきりステラは口を噤んで、危なっかしい手つきでちまちまとチーズを切り分け始めた。俯いた顔の横にくっついた形の良い耳の先から細い首のラインは、まだ少年のように頼りなげな雰囲気を残していて、なんとなく、もう長いこと会っていない歳の離れた弟を俺に思い出させた。  少し迷ってから、腕を伸ばしてステラの後ろ髪をそうっと撫でた。見た目よりも少し硬い髪の感触。けれどそれはなめらかに滑って指に心地好く、拒まれないのをいいことに、手櫛を通すようにして撫で続けた。 「なあステラ、どうして料理を覚えたいの」  すると彼はゆっくりと顔を上げた。不貞腐れた子どものような目が俺を見る。 「ちょっと興味があるとか、きっと、そんなんじゃないんだろ」  もともと料理が好き、とてもそんな風には見えなかった。それなのに、俺に喧しく色々言われながらも教えを請い厨房へ立つのは、何かしら譲れない理由があるのだろうと思われた。  ステラは少しのあいだ考えるように片頬を歪めて、それから静かに口を開いた。 「……船を降りてもひとりで食っていけるように、何か取り柄が欲しかったんだ」 「船を、降りる?」 「俺は親父のように海賊として生きていくつもりはないんだ。いつかは船を降りて、真っ当な仕事を見つけて街で暮らしたいと思ってる」  甲板の上を気にするように、ステラの目がちらりと動く。 「それは……船長は?」 「伝えてないよ。言えるわけないだろ。あのひとは…親父だけじゃない、この船の誰もが、俺が親父の跡を継ぐことをこれっぽっちも疑ってない。海賊ってやつは血を重んじるんだ。ここにいるのは、父親も、その父親も海賊だったような奴らばかりさ」  彼は淡々と言いながらも、怒りにも似た烈しい感情を目元に滲ませていた。  その眸の色に、どきりとする。魅入られる。冴え冴えと光る、鋭い刃のようなまなざしは、ぞっとするほどに美しかった。彼の身の内からあふれる熱量、感情のエネルギーのようなものに曝された気がして、かすかに背筋が震えた。彼の内側にはきっと、苛烈であざやかな何かが燃えているに違いなかった。その火花がふたつの眸を透かしてわずかに外側に発露し、彼の瞳を煌めかせるのだ。 「ステラ……」  吸い寄せられるように手を伸ばした。今度は迷うことなく、自然に、気づけばステラの髪に触れていた。ふ、と彼の表情が緩む。俺に宥められたように感じたのだろう、彼はこちらをじっと見て、それから止めていた息を吐くようにして小さく笑った。 「なあマレは?ずっと料理人だったのか」  世間話のように和やかに問われれば、髪に沿わしていた手をどうしたらいいのか急に分からなくなって、おずおずと引っ込めた。 「ええと、いや、そんなことない。色々やってきたよ」  誤魔化すように言うと、頬杖をついたステラに「色々って?」と促され、俺は簡単に生い立ちを語った。  十二のときに母親が死んだこと。父親はとうの昔にいなくなっていたから、それからは幼い弟と自分が食べていくために何でもしたこと。駄賃稼ぎのような荷運びや靴磨き、どうしようもないときには盗みもやった。十七のときに小さな食堂で下働きとして雇ってもらい、そこから料理の道に入った。いくつかの店を渡り歩いたが、半年前に勤めていた店が潰れ、それからは定職が見つからなかった。家賃が払えず家を失い窮しているところへ、この船の料理人の口があいていることを知った。 「だからさ、ステラ」  彼は途中で口を挟むこともなく、俺の話をただ静かに聞いていた。この大して面白くも珍しくもない来歴が、彼の密かに抱えている思いにどう働いたかは、よく分からなかった。けれどこの若き青年の願いが叶うといい。そして俺にその手助けができたなら、もっといい。 「ひとは案外、何やったって生きていけるもんだよ。俺だってまさか自分が海賊になるとは、ついひと月前には想像もしてなかったんだから。海賊のルールのことは俺には分からないけど。船を降りたいのなら降りるべきだと、俺は思う。それで、料理の腕を身につけることがその助けになるなら、俺はいくらでも協力するよ」 「……ありがとう」  小さく言って、ステラはゆっくりと時間をかけて微笑んだ。柔らかな笑顔は午後の陽に照らされて、光の中へふわりと溶けていくようだった。 「でも教えられることは教えるけど。このペースじゃあ、いつになったら一人前になるのか見当もつかないな」 「はあ?これは俺の実力じゃない!教える側に問題があるんじゃないのか」 「いやいやいや、そこは明白だろ」 「ふざけんな!」 「わっ危ないな!やめろよ、冗談だって」  包丁を振りかざすステラを慌てて止める。と、彼は真顔になって「俺だって冗談だ」と、包丁を置いた。 「……」  ふ、と堪えきれずに笑い出したのは、ふたり同時だった。顔を見合わせて、くつくつと笑う。込み上げる笑いがどうしても止められなくて、腹を抱えてふたりで笑い続けた。「やめろよ」とステラが俺の肩を小突いて、俺も「そっちこそ」と胸を押した。馬鹿馬鹿しいぐらいに、いい気分だった。  いつの間に出て行ったのか、陽がわずかに傾く頃には、白猫は棚の上から姿を消していた。そうして、小さな丸窓から注ぐ乳色の光が、あたりをやさしく照らすばかりだった。  少しずつではあるけれど、ステラの料理の腕は上達していった。刃物を使うことについてはコツが掴めてきたようだったし、彼は意外にも勤勉で、何か用事がない限りは夕食前に甲板下へ降りてきて、俺と一緒に食事の用意をした。 「坊、なんだ、こんな所にいたのか。ああニクス、お前もか」  今夜のメニューを確認しに来たオクトーは、そこにステラを見つけると太い眉をひょいと持ち上げた。それから昼寝中のニクスにも挨拶をしようと手を伸ばし、しかし届かぬうちに牙を剥かれて、すごすごと引き下がった。 「最近、上で見かけないと思ったら……なんだ、マレの仕事を手伝ってるのか」 「……料理を覚えたくて。習ってるんだ」  後ろめたいようにぼそぼそとステラが言う。するとオクトーは「坊が?」と目を丸くして、すぐに顔を顰めた。 「それは……キャプテンは?」 「言ってない」 「そんな暇があるんなら、って怒られるんじゃねえのか」 「たぶんな」  ステラは後ろ髪をぐしゃぐしゃとかき乱しながら、投げやりな返事をした。船長に知れると不興を買うようなことだったのか、と今更ながらにどきりとする。航海長はこのことを上司に報告するだろうか。  オクトーは面倒くさそうにステラと俺の顔を交互に眺め、暫くのあいだ「うーん」と唸っていた。けれどついには、観念したように天を仰いだ。 「しょうがねえなあ。キャプテンには内緒にしとくよ」 「ありがとう、オクトー!」  今夜のお前の皿は大盛りにしてやる、とステラがオクトーの肩を抱いて揺さぶる。それを見て俺もほっと身体の力が抜けた。 「それにしても」と、オクトーが面白そうに笑う。 「ずいぶんと懐いたもんだな、ニクスも、坊も」 「おい!懐くってなんだ。俺を猫と一緒にするな」  ステラが顔を真っ赤にして声を荒げる。言われてみればステラとニクスはどことなく似ている。白くて美しくて、気が強い。  浴びせられる文句を受け流して、オクトーはげらげらと笑いながら階段を上がって行った。その背中に思わず「ありがとう」と言えば、彼は振り返ることなく片手をひらひらと振った。 「よかったな」 「……うん。でもまあ俺が口止めすれば、オクトーはきっと黙っていてくれると思った」 「そう?」 「ああ」  お決まりの場所でだらりと寝そべっていたニクスを、ステラがひょいと抱き上げる。白猫は抗うことなく腕の中におさまり、ステラが腰を下ろすと膝の上に丸くなった。眠たげに目を細くする表情が可愛い。俺が小さな額を撫でてやると、ニクスはごろごろと控えめに喉を鳴らした。 「本当にマレによく懐いてるんだな」 「そうかな」 「ニクスは今まで、俺以外の人間に撫でさせたりなんかしなかったんだ。お前がここへ来たら、やたらと厨房へ行きたがるようになって」 「なんでだろう。まあ、餌をやったからかな」  初めてここでニクスを見かけたときにやったのは、確かベーコンの切れ端だった。あれがそんなにもお気に召したのだろうか。  ステラは柔らかい毛並みを撫でながら 「最初はそれが気に入らなかったんだ。何しろ急に、ぱたっと俺のところへ来なくなったからな」と目を伏せた。 「ああ!それで初めてここへ来たとき、機嫌が悪かった?」  ぴんときて問えば、ステラは膝の上の猫を見つめたまま「そう」と歌うように言って、唇の端を小さく持ち上げた。  最近の彼は、時折り俺の前でこんなふうにやさしく笑う。それは甲板の上では決して見かけることのない、穏やかでどこか親密な笑みで、そのたびに俺は勝手に特別、なんて言葉を思い浮かべて胃のあたりがくすぐったくなる。蝶の羽ばたきが腹の中をひらりひらり、舞い上がるみたいに。──俺にだけ撫でさせる猫。俺にだけ柔らかく笑う、ステラ。 「猫を飼ったことが?」  ステラは頬に笑みを浮かべたまま言った。 「いや……ああ、子どもの頃に一度、弟が野良の子猫を連れ帰ってきたことがあったかな。真っ黒な毛並みで、目は金色だった。でも自分たちの食べ物すら満足に手に入らない生活だったから、猫にやれる餌なんてなくて。猫のほうもアテが外れたんだろうな、気がついたら居なくなってたよ」 「ふうん。そう言えば、弟はいま何してんの」 「ああ、弟は運良く、大きなお屋敷で住み込みの使用人として働けることになってね。もう心配ない。ちゃんと食べ物も住むところもある」  母親譲りのくっきりとした二重の目を濡らして、猫がどこかへ行ってしまったと泣きべそをかく小さな男の子を思い出す。彼の背丈はもう俺と同じくらいに大きくなったのに、瞼の裏に浮かぶのはいつも、高い声で「兄ちゃん」と俺の後をついて回っていた頃の姿だ。 「彼はいくつ?」 「十九になる。ステラより少し下だな。君を見てると、たまに弟を思い出すよ」  ──助けてやりたい。面倒を見てあげたい。守りたい。そういう、やさしくて、胸がぎゅっと切なくなるような感情を、ステラに出会って久しぶりに思い出したような気がした。弟と離れて暮らすようになってから、もうずっと独りで生きてきたのだと、このとき俺はふいに気がついた。  この船へ乗る前に最後に働いていた食堂は、店主の夜逃げによって突然に閉店し、俺は職を失った。周りの人間に聞けば、ずいぶんと借金があったのだという。そのあと、もっと必死になって探せば、頼み込めば、料理人の働き口はあったのかも知れない。ほかの大きな街へ移ったってよかった。けれど俺はそうしなかった。酒場や娼館の用心棒、荷物運び、そういう仕事でどうにか日銭を稼ぎ口を糊した。守るべき小さな弟は、もう巣立ったのだ。自分ひとり何とか食べて行かれればそれでいいというな心持ちが、疲弊したこの身の内いっぱいにあった。だからこのルナ・エルモーサの料理人になったのも、成り行き以外の何物でもなかった。つまりはどうでもよかったのだ。この船が商船でも軍艦でも、たとえ海賊船であっても。 「おとうと。……そっか」  ステラはまるで初めて聞く言葉みたいにぎこちなく呟いて、抱いていた白猫を足元へそっと降ろした。ニクスはぶるりと一度身体を震わせると、足音も立てずに元居た棚の上へ飛び上がった。けれどステラの視線はそれを追うことなく、今しがた猫が降りたあたりの床をただじっと見つめていた。伏した長い睫毛が、そばかすひとつない白い頬の上へほのかに青い影を落として、その眺めは言いようもなく儚く、美しかった。  ──その頬に触れてみたい。美しい印影を指でなぞりたい。  衝動は鮮烈で、明らかだった。闇夜に浮かぶ燈台の灯のようにくっきりと、あざやかに、胸の中に浮かび上がった。心臓の鼓動はわずかに早くなる。欲望をごまかすように強く拳を握れば、内側がじわりと熱を持って汗に湿った。 「──弟より君のほうが……ずっときれいだけど」  つい、口からこぼれた。すぐに口元を覆って、あまりに陳腐な口説き文句を後悔したが、もう遅い。 「はあ!?」  ステラは首が取れてしまいそうなほどの勢いで顔を上げて、俺を睨んだ。その顔は耳まで真っ赤に染まっている。おかしなことを言って怒らせてしまったかも知れない。 「いや、悪い。変なこと言った」  咄嗟に謝ると、ステラはそれ以上何も言わなかった。そうしてこちらを睨みつけたまま唇をもごもごと動かして、つっけんどんに「ハンサムと言え」と顔を背けた。可愛らしい曲線を描く耳の先は、まだピンク色だ。 「うん。君はハンサムだね、とても」  そこにも触れてみたいと思ったけれど、手は伸ばさず代わりに言った。自分の声が妙に甘ったるい気がして、そのくすぐったさに小さく笑う。そんな俺を見てステラは呆れたように緩く首を振ると、ニクスのそばへ行ってしまった。白猫の背を撫でる横顔をずっと眺めていたけれど、ステラはもう、怒ったりなんかしなかった。  その夜は、俺がこの船に乗り込んで初めての嵐だった。  甲板に激しく雨が打ち付け、絶えずドドウ、ドドウ、と身の竦むような重たい波音が(ふなべり)を叩いて船全体を軋ませていた。水夫たちは「この程度の嵐なら、この船は大丈夫だ」と慣れた様子で帆を畳み、舷側の砲門を閉じた。それから彼らは船荷をロープで括り付け始め、俺も見様見真似でそれを手伝った。時折り船尾が気味悪く持ち上がって、あたりの物に必死に掴まって体勢を保ったが、そのたびに胃は縮み上がって吐き気を催した。  東の空が薄っすらと白み始めた頃、ようやく嵐はやんだ。船荷のあいだに俺はぐったりと身を横たえて、少しだけ微睡んだ。そうして、彼は子どもの頃から幾度もこんな夜を過ごしてきたのだろうかと、ステラのことを思った。  空を厚く覆っていた黒い雲は、朝になるとすっかりどこかへ消え去って、眩しい太陽がささやかに波打つ海面を魚の鱗のように光らせていた。船腹へ寄せる(さざなみ)は、昨晩とは打って変わって甘くララバイのように歌う。  穏やかな海には様々なものが漂っていて──その多くは木片、折れたマストや帆、漁網などだったが、時には船の積荷と(おぼ)しき酒樽や紅茶の缶、女物のドレスなんかもあった──嵐のあとには船の上からそういう雑多なものを眺めるのが好きなのだと、ステラは内緒話をするみたいに言った。 「食糧になるようなものは流れてこないかな」 「海水に浸かってるからなあ……あんまり食えるようなものはないと思うぜ」  海を覗き込む俺に、ステラは愉快そうに笑った。 「ん、あれ何だろう」  波間にちかちかと光るものが浮かんでいる。小さなそれはゆっくりと、けれど確かにこちらへと近づいてきた。指し示すとステラは望遠鏡を覗き込んで「瓶……みたいだな」と言った。 「葡萄酒かな」 「いや……中身は入ってなさそうだな。ただの空き瓶じゃないか」  興味を失ったステラは望遠鏡をぽんと俺に寄越すと、頭の後ろへ手を組んで甲板に寝転がった。閉じた瞼の上にも陽射しは燦々と降り注いで、さぞ眩しかろうと俺はその顔の上に手をかざし、陽を()けてやる。するとステラはそれに気がついて、目を瞑ったまま、ふふと満足そうに笑った。  しばらくすると、緑色の小さな硝子瓶は船のすぐそばまで流れ着いた。よく見てみれば中には液体ではなく、何か紙のようなものが入っている。どうにかして引き揚げられないだろうかと船の端まで近づいて見ていると、後ろから「まぶしい」とステラの不機嫌そうな声がした。 「マレ、なんで急にどくんだよ」 「ごめん。でもほら、あれ見ろよ」  ステラは俺の指の先を見て「ああ、やっぱり酒じゃないな。何が入ってんだ」と首をひねった。そうしてどこからか、先が鉤状になった釣り竿のようなものを持ってきて、その先端を海の中へ落とすと、器用に瓶を引っ掛けてするすると手元まで引き揚げた。 「開けてみよう」 「ああ」  コルク栓を抜くと、中から出てきたのは陽に灼けた一枚の紙だった。ステラはそれを広げると「子どもの字、みたいだな。きっと遊びで手紙を書いて海に流したんだろう」と俺のほうへ見せた。でも俺は 「悪い、字は読めないんだ」  短い文章のようだったが書いてあることは分からなくて、肩を竦めてみせた。 「そうなのか。学校へは?」 「行ってない。教えてくれるひともいなかったし、そういう時間もなくてね。大人になってから、覚えたいと思ったこともあったんだけど……」  もう長いあいだ忘れていたことを、何とはなしに口に上せる。幼い頃、母親が寝物語に聞かせてくれるおとぎ話が好きだった。そういう物語を自分で読めるようになりたいと思っていた。 「もうおとぎ話を聞かせてもらう歳じゃないからね」  いつか、と思いながら二十七になってしまった。そういうふうにして諦めてきたことがいくつもあったような気がした。今ではそれが何だったのかさえ、思い出せないけれど。  きまりが悪くて、紛らわすように笑う。するとステラは微笑んで「俺が教えようか」と言った。 「読み書きは少しできる。それに親父の部屋には、そう多くはないけど本があるんだ。稀覯本てやつだ、読むわけじゃない。本それ自体に価値があるから、アンティークとして置いてるんだろう。だから少しぐらい持ち出したって構やしないさ。中には古い物語を綴った本もあったはずだ」  料理を教わってるお返しってわけじゃないけどさ。そんなふうにからりと言って、彼は飴色に灼けた紙を巻くと元あったように瓶の中へ戻した。 「いいのか、本当に?」  思わず大きな声が出た。身を乗り出した俺に、ステラはけらけらと笑って「ああ、もちろん」と受け合った。  体温が急に三度ばかり上がったような気がした。足元がふわふわする。思いがけず積年の望みが叶えられたことに胸は躍った。そして、ステラがそれを申し出てくれたことにも。 「ええと……でも、その本を読めるようになるには時間がかかりそうだな。俺は物覚えがよくないから」  浮かれている自分が気恥ずかしくて、海を眺める振りで、ステラの視線を避けて立ち上がった。嵐のあとの風のない海は、銀砂を撒いたように静かに光っている。 「マレ」と、背中でステラが呼んだ。首だけで振り返る。 「読んで聞かせるよ、俺が」  あどけない表情だった。何の皮肉も揶揄(からか)いも含まない、無垢、と言って差し支えないような、素直な顔。 「……ステラが?」  俺が目を瞠ると、ステラは「嫌なら、いい」と眉根を寄せた。 「嫌なんかじゃない」  思わず彼の元へ駆け寄って、手を握る。 「頼むよ。聞かせて。俺に物語を読んでよ、ステラ」  もう隠しようもなく嬉しくて、掴んだ手をぐいぐいと引っ張ってねだった。するとステラはちょっと目を見開いて、それからにっこりと、熟れた果実が弾けるみたいに、瑞々しい笑みを顔いっぱいに浮かべた。 「わかったよ、マレ」  瞬間、胸の中で何かが膨れ上がって爆ぜた。熱くて、あざやかで、くらくらするような何か。  凪いでいた海の上を一陣の風が吹き渡る。潮風は真っ白な帆をぶわりとはためかせた。甲板は朝の陽にいっそう眩しく輝く。視界が白く霞むほどの光の渦の中、ステラの笑みだけが、くっきりと網膜に像を結んだ。それは瞳の奥に灼けつく。薄れようもない。  碧く透きとおる珊瑚の海の輝きも、沈む夕陽の潤んだ緋色も、雨上がりの庭に咲きこぼれるジャスミンの芳香だって敵わない、世界でいちばん美しいものを、いま見つけた。そう思った。  空は高く青い。飛魚の群れが遠く、この朝を祝福するように、銀色に光りながら波間を跳ねてゆく。 「──するとアラジンは答えました。この素晴らしい宝石をご覧になったら、まさかそんなことをお尋ねになったりしないでしょう……」  夜の波が奏でるやさしい音楽に寄り添うようにして、ステラの甘く深いテノールが、高く低く、心地好いリズムで物語を紡ぐ。ランタンの灯がなめらかな彼の頬へ映って、ほのかに笑みを含んだ唇の端の影をやわらかくしていた。その眺めは、さながら雪の日の暖炉に手をかざすかのようにあたたかで、満ち足りて、穏やかだった。こんな夜には、無骨な鉄のフライパンや鍋さえもが、琥珀色の灯りにひっそりと浮かび上がって、まるで魔法をかけられたみたいにロマンチックなオブジェになった。  約束通り、ステラはたびたび船長室から本を持ち出しては、俺に文字を教え、物語を読んで聞かせてくれた。それは朝だったり午下がり、あるいは夜だったりと時刻はまちまちだったが、今までの暮らしの中で俺が持ち得なかった、穏やかで静かなひとときだった。そんなとき、時間はとろりと蜂蜜が滴るみたいに、ゆっくり、ゆっくり流れた。  ステラの白く美しい指が、普段の彼からは想像もつかないほど繊細に、頁を繰る。彼の隣りへ座って物語りに耳を傾けながら、俺はぼうっとそれを見ている。 「…俺が昔聞いた話と違うな」 「うん?」 「現れたのは魔法使いじゃなくて、天竺から来たお坊さんだった。それに王宮へ引き連れていくのはたくさんの奴隷じゃなくて、象や孔雀や虎だったな」 「はは、アレンジされてたんだな」 「母親もどこかで聞きかじった話を、適当に俺たちに話して聞かせてたんだろうからね」  母に物語をせがむと、同じ話でもそのたびに少しずつストーリーが違ったことを思い出す。お姫様は悪者にさらわれたり、蛙になったり、時には三日月刀を携えて龍に乗り、砂漠の上を飛んだりした。 「でもまあ、物語なんてそんなもんだろう」  ステラが頁から顔を上げて、面白そうに笑う。 「聞いている誰かを楽しませるためだけに作られるんだから。この本だって、王様のために夜な夜な后が話して聞かせた物語を集めたものだって言われてる」 「へえ。なんでも持ってる王様でも、お妃様にをせがむんだな」 「そう、ひとは物語なしには生きていけない。ほら、ここにも。をせがむデカい男がひとり」  ふふふ、と笑って、ステラは悪戯っぽく俺を見る。 「君が読んでくれるって言ったんじゃないか」  額を指で弾くと「そうだったかな」と、彼はにやりと口の端を持ち上げてみせた。 「なあ、ステラは?お母さんのことは憶えてるの。いつからこの船に?」  訊ねると、彼は本をぱたんと閉じて膝の上へ置き、ちょっと首を傾げた。 「七つのときだな。それまでは母さんと婆ちゃんといっしょに、小さな港町に住んでたんだ。そうしたらある日突然、親父がやってきて俺を連れて行った。母さんは愛人のうちのひとりだったんだろうな。俺が七つまで無事に育ったのを見て、跡取りにするために引き取ったんだろう。それからは、ずっとこの船に」  深い緑色の表紙に金糸で刺繍された文字をなぞりながら「だから、そんなには憶えてない」と、ステラは言った。 「そうか」  俯く表情は薄明かりの中で(しか)とは分からなかったけれど、何となく、彼の肩を包むように撫でた。ステラはその手を上から握ると、ほんの少し目を細めた。 「この船はさ」  俺に物語を読み聞かせる時と同じ、柔らかな抑揚で彼が言う。 「襲うのはだいたい商船か、ほかの海賊船なんだ。でも港町へ降りて、店や民家を襲って品物とか食糧を奪うこともある。そんな時に小さな子どもを抱いて逃げていく女のひとなんかを見ると、俺の母親もあんなだったかなあって思い出して…すごく、苦しくなる」  ぱっと(おもて)を上げて、ステラが俺を見る。大きな瞳が縋るように揺れていた。 「本当はこんなことしたくないんだ。どうして俺はこんなことしてるんだろうって、本当にこうするしかないのかって。どうして……」  下瞼の縁に涙が兆す。水の膜がゆらりと盛り上がって、睫毛の上にかろうじて留まる。あふれてしまう。早く早く、その粒がこぼれ落ちる前に。考えるより先に、力任せに抱き寄せていた。  背中をゆっくり撫でると、ステラの手が遠慮がちに俺の背を抱いて、シャツをぎゅっと握った。首元で、すん、と洟をすする音がする。 「でもさ、マレに会って気がついたんだ。外に出ればいいんだって。海賊になりたくないって俺は言うだけで、結局、船の上で毎日メシを食ってぼんやり暮らしてて」  つまりは俺は、甘ったれの”坊っちゃん”だった。そう言って、ステラは俺のシャツの襟に顔を押し付けた。じわ、とあたりの肌はあたたかく湿る。 「でも、生きる場所は自分で選べるはずだ。生き方は変えられるんだってことに、俺は気がついたんだ」  ──お前のおかげで気づいたんだよ、マレ。  秘密を打ち明けるみたいに呟いて、ステラは俺の首にぎゅっとしがみついた。小さなその声は、それでも、(たが)うことなく確かな熱をのせて、俺の鼓膜をじんと痺れさせた。  棚の上で寝ていたニクスが立ち上がって、うーんと伸びをしたのを合図のようにして、俺たちはそうっと身体を離した。何だか照れくさくて、顔を見合わせてちょっと笑う。 「もう少し、切りのいいところまで読んでやる」  そう言ってステラは椅子に座り直すと、ぱらぱらと頁を捲った。その隣りへ腰掛けて、俺はまたぼんやりと、彼の横顔に見惚れる。  子守唄のように柔らかな、ステラの声。小さな厨房は、まどろむような安らかさに満ちている。それは人魚の棲む海の漣。妖精が遊ぶ庭の花びらを濡らす朝露。あるいは、女神が水浴びをする天上の湖の畔。そういう種類の、密やかで、純度の高い静けさだ。そしてそれはどんな国の王様だって手にしていないものだと、俺は思う。 「──そねむ者はなく、みながみな大きな幸運をつかんだのも当たり前だと言い合いました。…今日はこれでおしまい。続きはまた、あした」  そう言うとステラは本を閉じて、晴れ渡る夜空のような瞳に俺を映した。その頬に触れる。と、瞼がゆっくり下ろされた。長い睫毛が一度だけ、ふるりと震えるのを見て、そうして唇を合わせた。今はただ、それだけが、自然なことのように思えたから。 【或る日の船乗り猫のひとりごと】  吾輩は猫である。名前はニクス。と、この船では呼ばれている。この名をつけたのは船長の息子であるステラで、雪、という意味なのだと彼は言った。雪というのは空から降ってくる白くて冷たいもののことらしいのだが、俺はついぞ見たことがない。でもステラ自身も実際に目にしたことはないのだと、俺の背を梳かしながら彼は笑っていた。  お天道様が沈んで、この船の騒がしい人間どもが寝静まった頃、俺は日課の見廻りへ出かける。その際、テリトリーをうろつくような不届きな鼠がいれば、即刻この爪で仕留めて始末する。俺様が乗る船で、鼠がデカい面をしてのさばっているなんて噂が立ったら、末代までの恥だからな。そう言えば前に、親愛の情の証に、捕った獲物をステラに持って行ってやったことがある。俺としては最大級の好意を示したつもりだったのだが、彼はもの凄く嫌そうな顔で「もう絶対に持って来るな」と低く凄んだ。なんでだ。ステラは鼠が好きじゃないのか?人間というのは変な生き物だ、鼠を要らないだなんて。  そうして夜の散歩を終えたあとは、ステラの寝床へ潜り込む。ここは暖かいし、ふかふかで寝心地が好い。そして何より、毛布がほかの奴らのみたいに臭くないのがいい。ステラのいい匂いがする。  人間たちが慌ただしく動き回る陽の高い時間、俺はその殆どをステラの部屋で過ごす。船室の主は居たりいなかったりするが、そんなことは俺には関係ないので、勝手知ったる寝床でのんびりと過ごす。  しかし最近は、そんな日常にちょっと変化があった。それはマレという名の新しい料理人が、この船に乗り込んできたことに端を発する。新顔がどんな奴なのか、早々に俺は調理場まで偵察に行った。するとその男は俺を見ると「腹が減ってるのか?」と言って、何だか分からないが、やたらと美味い肉みたいなものをひと切れくれた。どうやらベーコンという豚の肉の加工品らしい。これは美味い。前の料理人はやたらと塩辛い腐った肉しかくれなかったのに。俺は思った。こいつは見どころのある、いい奴だ!今度、鼠を持って来てやろう。ほかの水夫たちのように煩くないのもいい。たまに俺を撫でてくる手は大きくて、なんだかほっとする。ステラの撫で方に少し似ているのかも知れない。  そんなわけで、俺は昼間の時間を静かな厨房で過ごすことが多くなったのだが、いつからかそこへステラもやって来るようになった。彼もマレにベーコンを貰ったのだろうか。  ステラはここでマレと楽しげに喋ったり笑ったりしながら、野菜やチーズを切り刻む。そういうときふたりは妙に上機嫌で、やたらと気前よく食材の切れ端を分けてくれるので、俺としては大変にありがたい。  でもステラが調理場から引き揚げたあと、たびたびマレはおかしなひとりごとを俺に聞かせる。 「ニクス、お前はいいよな。好きなときにあの膝に飛び乗れるんだもんな。あの手で撫でてもらって……しかも、お前、夜はステラのベッドで寝てるんだろ?もー……」  ニクス〜〜〜、と情けない声を上げながら、マレは俺の腹に顔を埋めた。やめろ、腹を吸われるのは嫌いなんだ。放せ、やめろって。  その後も「残り香……?」とか、わけの分からないことをぶつぶつ言いながら、マレは俺の全身をくまなく吸った。なんだ、気持ちの悪い奴だな。それに、ステラの膝に座りたいのなら、座ればいい。あのふかふかのベッドで眠りたいならステラにそう言えばいいのだ。簡単だ、何を躊躇うことがある?人間の考えることは本当に、意味が分からない。  それはそれとして、ステラのほうも最近はちょっと変だ。彼の部屋で昼寝をしていると、急に抱き上げられたりする。そうしてステラは俺を撫でながら言う。 「今日も抱っこされてたな、ニクス。いいよなぁ、お前は。足元へ行ってひと声鳴けば、抱き上げてもらえるんだもんな」  はー、とため息をつきながら、ステラが俺をぎゅうぎゅうと抱きしめる。ちょっと苦しい、やめてくれ。ほんとに。苦しいから。必死の思いで呻くように鳴くと、ステラは「悪い、苦しかったか」と、やっと俺を解放した。  でも何となくステラが淋しそうに俺を見るので、膝の上へ乗ってやる。いいぞ、好きに撫でろ。合図に、ぱたんぱたんと尻尾を振ってみせると、ステラは小さく笑って俺の耳をくすぐった。それから俺の頭へ頬を寄せて、ぽつりと言った。 「……なぁ、あの腕に抱っこされるの、どんな感じ?」  馬鹿じゃないのか。なんでそんなこと猫に訊くんだ。猫だぞ、猫。俺に感想を求めるぐらいなら、自分で確かめたらいい。言葉が通じるんだ、抱っこしてくれってマレに言えばいいじゃないか。ああもう。こいつらのやっていることは本当に、理解不能だ。

ともだちにシェアしよう!