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第2話

 美しき月(ルナ・エルモーサ号)の朝は、威勢のいい起床喇叭(ラッパ)の音でやって来る。  目を覚ました船員たちは、それぞれのハンモックからと起き出すと、磨き石を持って甲板へ出る。明け始めたばかりの空はまだ昏い群青色に(けぶ)って、東の水平線の上には明けの明星が、しんと光っている。  彼らは濡れた甲板にひざまずき、板を石で擦って磨く。朝の海風は身を切るようで、水に浸した足と手は凍ってしまいそうに冷える。誰もが、この朝の労働が一刻も早く終わることを祈っている。  乗組員たちが甲板を磨くあいだ、厨房を預かる俺は手早く朝食の支度をする。人数分のビスケットを用意して、硬いコンテチーズを薄く切り分ける。それから温かいものを鍋いっぱいに作る。今日はえんどう豆とベーコンのスープ。本当は芋もあるといいのだけれど。次にどこかの港へ寄るときには、沢山仕入れておこうと心積もりをする。  朝食の合図の喇叭が吹かれると、水夫たちは一斉に調理場(ギャレー)へ降りてくる。かじかんだ手で食事を受け取り、三々五々に甲板の上や寝室で食べ始める。ひどく固いビスケットを齧り、温かいスープに口をつける。すると彼らは皆揃ってほっとした顔をする。それは、陽に灼けた老斑だらけの肌に深い皺を刻む老水夫も、まだふっくらとした紅い頬にいくつかの面皰(にきび)をこさえた少年水夫も、誰しもが同じだ。そういう顔を見て、俺はかつて食堂で働いていた頃を思い出す。お客が最初のひとくちを食べて美味そうに口元を緩める、その瞬間を見るのが好きだったことを。  船長室に食事を運ぶのは、いつも航海長のオクトーの役目だ。だから、ステラがどんな顔でこの朝のスープを飲むのか、俺は知らない。たいていはその後に「美味かった」と、すれ違いざまにひとこと、素っ気なく教えてくれるだけだ。それだって時々「もう少し塩が強いほうがいい」なんて注文をつけられることもある。  料理を作りながら、俺は何度もステラのことを考える。この皿を食べるあいだ、彼は少しでも俺のことを思うだろうか。できることなら一緒に食事をしてみたい。豪勢じゃなくていい。かつて弟と囲んだ食卓みたいな、二、三皿しか乗らない小さなテーブル。そこで彼と何でもないことを話しながら、簡単な朝食を食べる──もしもふたりで船を降りたならば、いつかそんな日が来るだろうか。  ステラに恋をしてからというもの、船上の日々は、馬鹿げた甘ったるい空想と、くすぐったい歓びに彩られて、白猫の尻尾みたいにふわりふわりと心の中を流れてゆく。  しとしとと銀糸のような細い雨が降る、風のない夜だった。船全体がしっとりと濡れそぼって、ステラの小さな部屋の中もひんやりとした水の気配に満たされていた。ベッドサイドのランタンだけが、あたたかな光を灯している。  ベッドヘッドを背にふたり並んで座って、投げ出した脚の上にブランケットを掛けると、冷えていた足先がじんわりとあたたまってくる。毛布の内側で、ステラの足が俺を蹴っとばす。彼はこういう悪戯が好きだ。だから俺は、行儀の悪いその足の(くるぶし)を、つま先でそうっと撫でてやる。そうすると、ステラは頬をちょっと赤らめて大人しくなった。 「今夜のは、短いからふたつ」  ステラはそう言って、貧しい家に押し入ってしまった泥棒の話と、いかさま師と両替屋と驢馬の話を読み聞かせてくれた。 「この話は……騙した詐欺師が悪いんじゃなくて、騙された両替商が悪い、っていう結びなの?」 「そういうこと、みたいだな。俺も初めて読んだ」  ぱらぱらと頁を捲って、ステラが確かめるように目で文字を追う。 「欲をかいて、結果、騙されるほうが馬鹿だ、っていうことなんじゃないか。欲深いことが悪いっていう教訓なのかも」 「そっか」  俺が頷くと、ステラは本に目を落としたまま「この物語はさ、海のない、大きな川の畔の国で生まれたらしい」と言った。 「ずっと遠くの国……」 「ああ。土地が違えば、そこに住んでるひとたちの善し悪しの基準なんかも、変わってくるってことなんだろうな」  住む場所が変われば、言語も文化も価値観もまた異なる。そんなふうなことを、ステラは言った。陸に住む人々と、海に暮らす海賊たち。彼らもそれぞれに違う文化や考え方を持っているのだろうか。ステラと俺はどうだろう。全く違う境遇で過ごしてきたふたり。少し眠たくなってきた頭で、そんなことをぼんやりと考える。  ゆら、とランタンの灯が揺れた。隣りに置いてあった硝子瓶がそれを反射して、緑色の腹をぬるりと光らせる。 「これ、前に海から引き揚げたやつか」 「そう、嵐の次の日に流れてきた」  ステラは口元に小さな笑みを浮かべて、ワインボトルを手に取る。 「そう言えば、中に入ってた紙。なんて書いてあったんだ」  訊くと、ステラは軽く挿してあったコルク栓を引き抜いて、中の紙片を俺のほうへ寄越した。 「自分で読んでみたら?」 「……」  にやりと片頬を持ち上げたステラを横目に見て、わざとらしく恭しい手つきでそれを広げ、咳払いをひとつしてみせた。そうして、たどたどしくも何とか、一文字ずつ読み上げる。 「しん、あ、い、なる、とも、よ、つき、のな、い──」  親愛なる友よ  月のない夜に  千の星々(ミル・エストレージャス)の灯台へ来られたし 「おお、読めるじゃんか、マレ!」 「合ってる?」 「合ってる合ってる!」  やっぱり俺の教え方がいいからだな、なんてステラが満足そうに腕組みして笑う。それから子どもにするみたいに「よくできました」と頭を撫でられて、そのくすぐったさに俺も笑った。  さて、読むには読めた。でも。 「ミル・エストレージャスの灯台って?」  初めて聞く言葉だった。そういう地名の灯台があるのだろうか。 「ああ、マレは知らないか」  俺の手から紙を抜き取って、ステラが言う。 「海賊たちにつたわる言い伝え、おとぎ話みたいなものかな。七つの海の真ん中にある灯台。その場所を見つけた者はひとつだけ、どんな願いでも、海の神様に聞き入れてもらえるんだ」 「どんな願いでも?」 「そう、なんでも。灯台のてっぺんには、赤ん坊の頭ほどもある大粒の真珠がおさめられていて、夜になるとポラリスよりも明るく光るって言われてる」  ステラはセピア色に灼けた手紙を大事そうに広げると、柔らかく目を細めてそれを眺め、話し始めた。 「謂れは、こう」  むかしむかし、ある国の王様が海の精霊に恋をし、求愛するために、それはそれは見事な灯台を作った。石灰で作られた真っ白な灯台の壁には、ルビーにサファイヤ、アメジスト、ダイヤと言った千個の宝石が埋め込まれた。しかし九百九十九個の宝石を飾り付けたところで、残りのあとひとつ。宝石が足りなくなった。王様は国じゅうを探させたが、もう宝石はない。国のうちで見つけられないのならばと、王様はその海を通る船を片っ端から捕まえ、荷を奪い、宝石を探した。しかし自分への求愛のために、そんな酷いことを繰り返す王様を見た精霊は嘆き悲しんで、その灯台のてっぺんに身を隠し、閉じ籠もってしまった。王様が出てきておくれと頼んでも、海の神様が宥めても、彼女は決して降りてはこなかった。そうして長い長い年月が過ぎ、精霊はひと粒の大きな真珠になった。それは今も灯台の先端で、青白い光を放ち輝いている。 「──とまあ、こんな感じ」 「海賊行為を諌めようとした精霊の灯台なのに、海賊たちはこの伝説が好きなのか?」  腑に落ちない気がして訊ねると「はは、まあ海賊は宝石が好きなんだよ」と、ステラは可笑しそうに笑った。 「しかし、たいそうロマンチックな物語だな」 「船乗りたちはだけど、意外とロマンチックさ。だってほら、年がら年じゅう波の音と星明かりの歌ばかり聴いているんだから」  ステラの言葉に、ロマンスとは無縁そうな髭面の航海長の顔を思い出して、ちょっと変な気分になる。オクトーも、このおとぎ話が好きだろうか。 「もしも灯台を見つけたら──」  俺の肩へ頭を(もた)せかけて、ステラが言う。 「マレはそこで何を願う?」 「そうだな……ステラとずっと一緒にいられますように」  その身体を抱き寄せて答えれば 「はは、ずいぶん気障(きざ)なこと言うんだな」  ステラは鼻の付け根に皺を寄せて、胡散臭そうに俺を見た。 「君が言ったんだろ、船乗りはロマンチストだって。料理人だって例外じゃないよ」  髪を撫でて額へ唇を寄せると、彼は「ふうん」と小さく笑って目を閉じた。  白く美しい瞼にキスを落として、頬っぺたの頂点、そして鼻の頭にも。それから吸い寄せられるように、ふっくらと艶やかな唇に口づけた。何度味わってもそのたび驚いてしまうような、甘いくちびる。吸って、舐めて、喰んで、傾けてまた合わせる。唇のわずかな隙間から舌を差し入れると、歯の内側にしまわれていた舌が、小さく震える。舌を伸ばしてそれを搦め捕ると、遠慮がちにステラが応えた。両の腕が俺の首を抱き竦める。唇の熱は上がる。柔く舌を吸ってやれば、ふ、と彼の鼻から切なげな吐息が漏れた。すると今度はそれを真似て、おそるおそる、彼が俺の舌を吸う。  ステラの浅い呼吸が苦しげで、一度唇をほどく。彼の大きな()の縁は真っ赤に充血して、とろりと潤んでいる。それを見るともう何も考えられなくなって、またすぐに顎を掴んで口づけた。唇が腫れ上がって痺れてしまうまで、幾度も、幾度も、俺たちはそれを繰り返す。 「海の精霊は、その王様のことが好きだったと思うか?」  俺の腕の中で、ステラはぽつりと言った。雨は先刻よりも少し強くなったようだった。とつ、とつ、と上甲板を打つ雨音が、波の音を覆い隠そうとするように響く。  目にかかる前髪のひと房をよけてやって覗き込むと、ステラは眠そうな瞳で俺を見上げた。 「だって、好きでもない奴のために、真珠になるほど長いあいだ、灯台にひとりで閉じ籠もっていられるかな」 「……そうかも知れない。愛していたからこそ、彼女は王様の行いが許せなかったのかもな」  ステラをしかと抱き寄せて、ブランケットを首元まで掛けてやる。静かな雨のせいで、今夜は冷える。  ふたり分の体温を抱え込んだベッドの中は、うっとりするような手触りで微睡みを誘う。絡めた腕と脚が互いの熱を移し合って、一緒くたに熔け落ちていくような心地がした。心臓の音が近い。俺の心音なのか、それとも彼の。ふたつの鼓動はゆっくりと重なって、やがてひとつになる。  ステラの体温は苦しいほどこの胸を高鳴らせるのに、同時に、無上の安らぎをくれる。ゆらりゆらり、海みたいに大きな大きな生き物の腹の中で、ふたり抱き合って揺蕩(たゆた)う。そんな気分だ。  それからステラは、今にも眠りに落ちてしまいそうな声で 「自分の身が真珠になってしまうほどの愛って、どんなものだろう」と言った。  俺は答える代わりに右の眦にキスをして、その瞼を閉じさせた。 「おやすみ、俺のお星さま(ミ・エストレージャ)」  夕食の後片付けを終えて布巾の類を干しているところへ、オクトーがやってきた。飯の時間が終わった後に、彼が調理場を訪ねてくることは、日頃あまりない。そしてこれまた珍しいことに、常に地声のでかい男が急に声をひそめて言った。 「マレ、頼む。チーズを少し切ってくれないか。あとなんか、酒の肴になりそうなもん」 「んん?いいけど……でも、いつも別に肴なんかなくたって飲んでるじゃないか」  何はなくとも、こいつらは年がら年じゅうラム酒を飲んで酔っ払っている。今日に限ってつまみを強請られたことを少し不思議に思って訊くと、オクトーは俺の耳に顔を寄せて「今日は特別なんだ」と、にやりと笑った。 「特別?」 「上等な葡萄酒が手に入ったんだよ!昼間行き合った商船から巻き上げたんだ。しかもキャプテンには見つかってねえ」 「ああ、そういうことか」  船長には献上せずに、自分たちだけで飲んでしまおうという(はら) なわけだ。いい歳をした航海長が、浮かれすぎてそわそわと足踏みをしている。 「わかったよ、チーズを切るよ。あと腸詰めが少しあったはずだ、焼いてやる」  苦笑いで応じると、オクトーは「お前にも飲ませてやるからな」と肩をぶつけてきて、豪快に笑った。  ソーセージを焼いていると、オクトーが三人の水夫とステラを伴って降りてきた。人数分のグラスを並べてやると、厨房はあっという間に酒盛り場になった。 「んん、美味しい。確かにいいワインだ」  俺もご相伴にあずかって、まずはひとくち。 「だろ?ブルゴーニュから来た赤ワインだ」  楽しそうに言って、オクトーは本当に味わっているのか信用ならないような速さで、マホガニーの色をした葡萄酒をがぶがぶと飲み干した。 「オクトー、ほんとに味わかってんのか」 「うるせえ、(ぼん)だって大してわかっちゃいねえだろ」  酒気にほんのりと頬を赤く染めたステラが、オクトーを揶揄(からか)ってげらげらと笑う。周りの男たちも笑いながら「ワインは久しぶりだ」と、グラスを割れんばかりに打ち合わせて杯を乾かした。 「おいステラ、キャプテンには絶対言うなよ」 「言うかよ、知れたら俺だって殺される」 「それもそうだな」 「赤ワインはキャプテンの好物だ」 「そうなのか」 「マレ、腸詰めまだか」 「いい頃合いだ。少し待って、ピクルスも出そう」 「こんなに食っちまって大丈夫なのか」 「明日の朝のスープは肉無しだな」 「まじかよ」  高価な年代物のワインが二本、三本と空になって転がっていく。  無人島に眠るといわれる財宝の噂、オクトーの失敗譚、酒場での眉唾物の武勇伝、下品な冗談。グラスを傾けては、手を叩いて笑った。いつの間にか誰かがヴァイオリンを持ってきて、水夫のひとりが弾き始めた。これがなかなか上手い。オクトーが空のワイン樽を手で打って調子をとる。男たちは足を踏み鳴らし踊り出す。海賊たちの酒宴は、かくも愉快だ。 「なあ、こんなに大騒ぎして大丈夫なのか。キャプテンに怒られたりしないか?」  訊くと、オクトーが芝居がかった仕草でボトルを片手に高く掲げた。 「キャプテンは酔い潰れていつも早々に寝ちまうんだよ!起きやしないさ!」  そうだそうだ、と皆が口々に囃す。 「マレも踊れよ、テーブルに乗れ!」  誰かが言った声に「踊れないよ」と取り合わずにいると、酔っ払いの馬鹿力で無理やりにテーブルまで引き上げられた。 「踊りなんか分かんないよ!」 「いんだよ、なんでも!」  テーブルに飛び乗ったステラが、俺の腰を引き寄せて左手を握った。たん、たたん、と靴底で天板を鳴らす。 「ほら、マレ!」  酔っ払った顔で、俺をぎゅうぎゅう抱きしめながらステラが笑う。ついに俺は観念して腰を抱き返すと、でたらめなステップを踏んでみせた。 「いいぞいいぞ!もっとやれ!」  男たちがどっと沸く。樽を叩くリズムはどんどん早くなる。ヴァイオリンの音色は熱を帯びすぎて、キイキイと引き攣れた。歓声。野次が飛ぶ。手を繋いでくるくる回って、しまいには、ステラが楽しそうにぴょんぴょん飛び跳ねた。 「色気がねえなあマレ、スカートでも穿け!」 「俺が穿いてどうすんだよ」 「そうだな、こんな大男じゃねえ!」  オクトーが大笑いしてテーブルへ躍り上がった。肩を組んでぐらんぐらんと横に揺れる。片手に持ったグラスから、ワインが盛大に撥ねて舞った。  海賊船の陽気な夜は、自由気ままなリズムと笑い声を響かせて、騒がしく更けてゆく。  ひとり、ふたりと酔い潰れたところで、宴はお開きになった。 「寝床へ連れて行こう」 「ハンモックに乗せられるか?」 「下に転がしとけ。ハンモックの中に吐いたら大惨事だぞ」 「それもそうだ」  引き揚げていく男たちを眺めて、俺はひとり後片付けに取りかかった。しかし、あの大騒ぎにもかかわらずグラスや皿がひとつも割れなかったのは、まさに奇跡だ。 「マレ」  声に驚いて振り返ると、オクトーが立っていた。てっきり、ステラたちと一緒に寝室へ戻ったものと思っていた。酔いのせいか、目が据わっている。 「なんだ、まだいたのか──」  言い終わらぬうちに、ぐいと胸元を掴まれた。そのまま押し込まれて、逆らえずに後ずさる。数歩下がったところで調理台の縁まで追い詰められた。 「オクトー、どうしたんだよ」  わけが分からず、宥めるように言う。まさか、彼は酔うと暴れるタイプなのだろうか。  するとオクトーは「お前」と低く凄んだ。 「遊びじゃねえんだろうな?……坊のこと」  胸元を掴む拳に更に力が入って、俺の首元を締め付ける。苦しい。けれど、上がりかけた顎をぐっと引いて、彼の目を真っ直ぐに見据えた。 「ステラを愛してる。誓って言う、俺の命にかけて」  オクトーの鳶色の目が、眼窩の奥で強く引き絞られる。彼は俺の顔をしばらくじっと見て、それから酒臭い息をひとつ吐くと、ようやく手を離した。 「……なら、いい」 「知ってたのか」  シャツの襟を直しながら訊くと 「隠してるつもりがあったのか。お前も坊も、ダダ漏れだ」  オクトーはやれやれといったふうに肩を竦めてみせた。ダダ漏れか、それはちょっと困る。 「俺のほうがステラに遊ばれてるとは思わなかったのか」 「坊はそういうタイプじゃねえ。純情なんだ」 「ふふ、純情、か」  ステラの真っ直ぐな瞳と、たどたどしい口づけを思い出して、つい口元が緩む。するとオクトーは存外に真面目な顔で言った。 「坊は俺が育てたようなもんだ。何しろ、七つのときからずっと一緒なんだからな」  オクトーの静かに細められた目を見て、思う。七つでひとり船に乗せられたステラのことを。それから、今夜、楽しそうにはしゃいでいた彼のことを。  この船は、ステラの家族だ。自ら望んだことではなかったとしても、彼はここで長い時間を過ごし育った。彼が船を降りる決断をしきれないのは、それも理由のひとつなのかも知れないと、今日ふと思った。彼は家族を愛している、でも、その生業は受け入れることができない。それは彼のアイデンティティが抱える矛盾だ。葛藤だ。身を両側から引き裂かれるような、その心持ちを想像してみる。──離れるしかないんじゃないのか、この船を。彼らは海賊をやめるつもりはないだろう。彼らはそうするしか、生きていく術を知らないのだから。しかしその矛盾を、苦しみを、胸の内に抱えたまま海賊船で暮らし続けることをステラに強いるのは、あまりに(むご)いことのように、俺には思えた。 「泣かせたら、ただじゃおかねえからな。切り刻んで魚の餌にしてやる」 「ああ。肝に銘じておくよ」  しっかりと頷くと、オクトーは大きな拳で俺の左胸をどん、とひとつ叩いて寝床へ帰っていった。叩かれた場所がじわりと熱くなった気がして、俺は胸に手を当てて、大きく息を吸った。  甲板掃除に駆り出された、暑い午後のことだった。じりじりと灼けつくような太陽を背に受けて、顎の先からはひっきりなしに汗が滴っていた。板を擦る合間にマストを振り仰ぐと、水夫たちが縄梯子(シュラウド)をひょいひょいと軽い身のこなしで登っていくのが見える。そうして帆桁までたどり着くと、彼らは殆ど足場もないような場所でロープを器用に操って帆を張った。身も竦むような高い所で、よくぞあんな恐ろしいことができるものだと、その軽業師のような芸当に、俺は暫しのあいだ手を動かすのも忘れて見入った。 「おい!誰か落ちたぞ!」  舳先(へさき)のほうで上がった声に、ぎょっとして目を剥く。 「どこだ!」 「バウスプリットだ!」 「おい、これでもう何人目だ?」 「おお神よ、げに恐ろしきかな後家製造所(ウイドウ・メイカー)!」 「誰が落ちたんだ?」 「わからねえ」 「誰だ、死んだか?」 「いや生きてる!」  その場にいた男たちは一斉に船首へ走って、船の上はにわかに騒然となった。俺も慌ててあとに続く。 「ボートを降ろせ!」 「だめだ、このあいだの嵐でボートが壊れちまってる」 「じゃあ縄梯子だ!梯子を持って来い!」  ふたりの水夫がロープを担ぎ上げた、その時だった。年若く細い声が叫んだ。 「ステラさんです!ステラさんが落ちたんです!」 「なに、坊!?なんであいつそんな素人みたいな……くそっ、ああもう!あの野郎、何年船に乗ってると思ってんだ!」  声を荒げて船縁(ふなべり)から下を覗き込んだオクトーに、痩せた少年水夫は殆ど泣きそうに顔を歪めて言った。 「俺が落ちそうになったところを、ステラさんが腕を掴んで助けてくれたんです。そしたら、体勢が崩れて、下に……」  ──まさか。ステラ?本当にステラが?  どっ、どっ、と心臓が嫌な音を立てる。船首にひしめいている男たちをかき分けて先端までたどり着くと、その勢いのまま海を覗き込んだ。  男が波間で腕をめちゃくちゃに動かして藻掻いている。派手に白く飛沫(しぶき)が上がる。パニックを起こしているのかも知れない。その頭は時折り海の中へ潜ってしまう。けれど、何とかして息を吸おうと腕が波を叩いて、顔が上を向く──その顔は、間違えようもなくステラだった。  気がつくと、足の裏が船縁を蹴っていた。海面にぶち当たったかと思うと、一度深く沈んだ。水面を目指して浮かび上がる。顔を打つ波、波、波。押し戻される。必死に掻く。水が重たい。海水をだいぶ飲んでしまった。キンと耳鳴りがする。ステラ、ステラ、ステラ。もう少し。無事でいて。 「ステラ!」  声が届いたかは分からない。けれどステラは首を動かしてこちらを見た。俺を見つけて、その目が見開かれる。 「ステラ!ステラ!」  彼の腕を掴んで、胴体を引き寄せた。二本の腕が俺の肩にしがみつく。 「ステラ、もう大丈夫だから。力抜いて。だいじょうぶ」  暴れるステラを宥めて抱き寄せる。片腕で泳いで、水を蹴って、船を目指す。ふたり沈みそうになっては、だいじょうぶ、大丈夫だから、と何度も繰り返した。するといつの間にかステラは大人しくなって、俺に抱きかかえられるままになっていた。  夢中で泳いで、潮の流れに引き戻されては、一心不乱に手足を動かした。そうしてやっと、船腹へ降ろされた縄梯子を視界にとらえて、思わず肩の力が抜けた。  ステラを背負って船の上まで登り切ると、もう腕にも足にも力が入らなくなって、甲板へ倒れ込んだ。いくら吸っても吸っても、空気が足りない。陸へ打ち上げられた魚みたいに、床に這いつくばって、はくはくと口を動かす。目線の先に、ちょうど俺のブーツがてんでばらばらの方向に脱ぎ捨てられているのが見えて、俺は海へ飛び込む前に靴だけは脱いだのかと、その妙な冷静さを何となく可笑しく思った。 「ステラさん!」 「ステラ!」 「マレ!大丈夫か」 「誰か!毛布持ってきてやれ」  皆が集まってきて抱き起こしてくれて、やっとステラの顔が見えた。 「ステラ……」  口からこぼれた名前は、息だけみたいな掠れた音にしかならなかった。それでも、彼は顔を傾けて俺を見つめた。その目がほんの少しだけ、笑むように撓む。顔は紙のように白い。けれど彼はしっかりと「マレ」と俺を呼んだ。その声に、身体がぐにゃりと溶けてしまうほど安心して、一瞬だけ目を閉じた。すると荒っぽい手にぐるぐると毛布で巻かれ、抱え上げられた。その後のことは、何だかよく憶えていない。  目を開けると、ステラの部屋の床に寝かされていた。恐らくほかの誰かのものだろう、つんつるてんの、けれどきちんと乾いたシャツを着せられ、擦り切れた毛布に(くる)まれていた。ゆっくり身体を起こすと、隣りにあるベッドにはステラが寝ているのが見えた。 「ステラ……?」  呼びかけると、彼はぱっとこちらを向いて、ベッドから飛び降りた。 「マレ!大丈夫か。目が覚めたか。どっか痛いとこないか?」  ステラが俺の肩を掴んで、乱暴に揺する。頭や腕をしきりにぺたぺたと触って、瘤や傷がないかを確かめてくれているようだった。 「俺は大丈夫だよ。ステラは?怪我はないか」 「俺もだ。落ちたときにちょっと腕と足を打ったけど、痣になった程度だ」  ほっとしたように、ステラが眉のあいだを緩める。その頬にはバラ色の血色が戻っていて、俺も胸を撫で下ろした。 「なにか飲むか?水はある。あと冷めちまったけどスープもあるぞ。ああ、オクトーが作ったやつだから美味くないけどな」  ステラがテーブルのスープ皿へ手を伸ばすと、ばん、と勢いよく部屋の扉が開いた。 「マレ!目が覚めたか!」  大声で言いながら入ってきたのは、船長だった。 「えっ、あ、はい…」 「お前が海に飛び込んでステラを助けてくれたんだってな!」  キャプテンは大袈裟な仕草で腕を広げてみせると、ハグと言うよりは絞め技なんじゃないかと思うような強さで俺を抱きしめた。 「礼を言うぞ、マレ。お前が助けに行かなきゃ、ステラは死んじまってた」 「あ、いや、そんな大したことでは、」  涙ながらに礼を言うキャプテンに俺はすっかり恐縮してしまって、しどろもどろに返事にもならないような返事をした。 「何でも望みを言え。金貨でも宝石でも酒でも、好きなものをやる」 「いえ、そんなつもりじゃ!要らないですよ、そんなの」  慌てて首を振ると、何が面白かったのか彼は声を上げて笑って 「まあいい、ゆっくり考えてくれ。疲れただろう、とりあえずは飯でも食って、よく寝ろ」  と俺の肩を叩いた。それから息子のほうを見ると、打って変わって眉を吊り上げて言った。 「お前もな、ステラ。とりあえずは寝ろ。話は明日だ」  ステラがふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまうと、キャプテンは苦り切ったように眉を顰めて「じゃあな、マレ」と部屋を出ていった。  また少し微睡んで目が覚めると、わずかに円を欠く月が、空高く懸かっていた。小さな窓から射す銀光は、眩しいほどに明るい。  目が冴えて、もう眠れそうになかった。何度目かの寝返りを打つと、ステラがくるりとこちらを向いて、月夜に相応しい密やかな声で言った。 「眠れないんなら、星でも見にいこう」  甲板にふたりして寝転んで、星を眺めた。降り注ぐような星空だった。金銀の星が、黒天鵞絨(ビロード)のような夜空いっぱいにさんざめいて、北極星よりも少し低い西の宙には、オリオンの三つ星が整然と並び青白く光っていた。  ステラの手が、俺の手の甲に重なる。俺は手をひっくり返して、その手を握った。 「マレ。ありがとう……助けてくれて」  耳許でささやいた声は、夜の海の澄み切った静けさの中にぽっかりと浮かぶような、何か特別な輪郭があった。顔を寄せて、見つめ合う。真っ黒な瞳は、星空と見紛うほどに煌めいた。 「それから、ごめん。油断してた。あんなつまんないことで、下手すりゃお前まで死なせるところだった。……なのに、俺を助けてくれた。マレ、ほんとに、ありがとう」  ステラの()の中の星明かりが、ゆらゆらと揺らめく。たまらず抱き寄せて、瞼に口づけた。 「ステラが無事で、本当によかった。俺のことなんかどうだっていいんだ、君さえ助けられたなら」  瞳に映る星はじわりと滲んで、睫毛の縁からこぼれた。あとからあとから頬へ落ちる流れ星の尾を、唇で辿る。 「君が波間に沈んでいくのを見たら、もう何も考えられなくなった。頭が真っ白になって……ああ、本当に。ステラ。君が生きててよかった。この腕にもう一度、君を抱くことができて、本当に……俺は──」  込み上げる何かに胸がつかえて、もう言葉にならなかった。ただ抱きしめて、唇を合わせた。あたたかく肌を濡らす涙は互いの頬の上で混ざって、もうどちらのものか分からなくなった。身体がくっついてしまうんじゃないかと思うぐらい、俺たちはきつく強く抱きしめ合った。  ふたつのからだが離れてしまうことが耐えられなくて、ステラの部屋で、彼を抱いた。そうするほかなかった。心が昂って、張り裂けてしまいそうだった。抱き合う以外に、この気持ちを、この愛を、身の内に正しく留めおく方法が分からなかった。  止められないキスで、息はすっかり上がっていた。シャツの襟を力任せに引っ張って、ステラの白い首筋にむしゃぶりつく。今は呼吸よりも、彼の肌に口づけることのほうがずっと大事だった。  頭に血が上りすぎていて、上等な貝の小さな釦は手の中でつるつると滑った。釦ひとつすんなりと外せない俺を、けれど、ステラは笑いはしなかった。そうして自分の胸元に手をやって、神妙な顔で、ぷつり、ぷつりと丁寧に釦を外した。肩からシャツが落ちる。途端に現れた美しい乳白色のはだかに、俺は我を忘れて夢中で口づけた。ムードもへったくれもなかった。 「脱げよ、お前も」  ステラが言って、俺の肩を叩く。俺が釦に指を掛けると、彼も手を伸ばし同じようにした。でもよく見ると、その指先は小さく震えていて、不安げな、桜貝みたいな爪がどうしようもなく愛おしかった。思わず握りしめて、口に含むように口づけた。 「ステラ。愛してる」 「マレ……俺もだ、マレ」  シャツを脱ぎ捨てると、ステラが俺の胸の中央へ遠慮がちに唇を這わせた。そうして、愛撫と言うよりは何かを確かめるみたいに、俺の肌に触れた。鎖骨を端から端まで指でなぞって、胸の先を味見でもするようにぺろりと舐めて、柔く吸う。腹の筋肉のおうとつを掌で撫でて、脇腹を喰んだ。 「お前の肌の色が好きだ。太陽に愛された、この肌の色」  とろりと溶けてしまいそうな声でステラは呟いて、俺の下腹に刻まれた文字に、キスを落とす。そうして、今度は脇腹に浮かぶ墨色の文様を、まるで大切な手紙を読むみたいに、指の腹でそうっと撫でた。 「こんなとこに墨が入ってたんだな…ああ、こっちにも。知らなかった」  ──それを知らないまま俺は、死ぬところだった。吐息だけでささやいて、彼は俺の腹へ顔を寄せ、ぎゅっと抱きついた。 「ぜんぶ見て。ぜんぶ知ってよ、ステラ。俺のすべて」  包み込むように、彼の頭を掻き抱く。 「俺の全ては、君のものだよ」  ステラが顔を上げて、ひたり、と俺を見た。彼の美しいふたつの眸。火花が散るような、射抜かれるような、その輝き。 「ああ。お前のうちの何かひとつでも、俺のものじゃないなんて、そんなの我慢ならない。ぜんぶ、ぜんぶ俺のだ」  そうして彼は煌めく宝石を瞼の奥に隠すと、口づけて言った。 「俺の全てもお前のものだ、マレ」  俺たちは、何かに急き立てられるみたいにして繫がった。まるで、そうしていないと死んでしまうかのように、必死にからだをくっつけ合った。 「ステラ……痛い?」 「わかんない。痛いのか、気持ちいいのか、なんか、もうわかんない。ただ、あっつい……」  ステラは苦しげに眉を寄せて、喘ぐように浅い息を繰り返した。 「うん、熱い……熱いな」 「でも、やめるな……このままで」  汗に濡れた両腕が、俺にしがみつく。彼の腰を抱き寄せて、深いところまで押し込んだ。 「ん!んぅ、」 「ごめん、でももう少し。もう少しだけ、中にいさせて」  額に口づけながら言うと、ステラは目を瞑ったまま何度も小さく頷いた。  こんなにも深く、強くからだを結び合っても、まだ足りなかった。もっと欲しい。もっと近くに。焦れったくて、身体じゅうの血が煮える。 「ステラ、愛してるんだ、ステラ」 「マレ……マレ、ああ、」  淡い朝焼けの色に火照った身体が、俺の腕の中で戦慄(わなな)く。まるで教会の壁画みたいな、完璧な色彩。溺れるように見つめた。瞬きさえできない。 「マレ……俺も、おんなじことを、願うよ」  潤んだような声が、耳のすぐ後ろで言った。 「え?」 「おとぎ話の灯台を見つけたら、マレとずっと、ずっと一緒にいられますようにって」  ふふ、と笑ってステラは、俺の頬へ鼻先を擦り寄せた。まるで甘える猫みたいな仕草だった。  その瞬間の、その気持ちを何て呼んだらいいのか、俺には分からない。ただ胸がいっぱいになって、あふれて、あふれて、息が止まってしまいそうだった。  それは宙に浮かび上がるようで、水底(みなそこ)へ沈んでいくようで。ナイチンゲールの歌声さながらに甘美なのに、深い森の樹々のざわめきのような、不安めいた焦燥をどこかに秘めている。愛している。そばにいて。愛して。失いたくない、絶対に。感情は絡まる。絡まって、恋しさは募る。  ステラをただ必死に抱きとめた。彼が生きて、ここに存在することを、この身体ぜんぶで感じていたかった。甘い汗の匂い。なめらかで瑞々しい肌。濡れた睫毛。浅く早い呼吸。しがみつく腕。つんと尖った桃色の乳首。心臓の音。熱くぬめる内側。呻く声。赤く腫れ上がった唇──そういう目の前にある彼のすべてが、どうしようもなく欲しくて、愛おしくて、くらくらした。酒に強かに酔うみたいだった。天地がひっくり返って、身体の下で幾つもの星が明滅した。もう何ひとつ言葉は浮かんでこない。いま、彼だけが世界だった。ステラ、ステラだけが。ただひとつの。  後ろから抱きしめて、ミルク色の背中に口づけた。汗が冷えて、その表面はわずかにひんやりと冷たい。肩のあたりに淡いそばかすが点々と散らばって、その星たちを繋ぐように、いくつもいくつもキスを落とした。 「ん、ふふ、なんだよ」  ステラが無理に首を捩って笑う。 「星みたいだ……そばかすが」 「ただのそばかすだろ」 「きれいだ」  頬をぺたりとくっつけて、また唇で触れる。 「俺だけが、描ける星座」  うっとりと口にすれば、彼は可笑しくて仕方ない、というふうに身体を折り曲げて笑った。  笑い声が食べてしまいたいぐらいに可愛くて、その唇へキスをして飲み込んだ。唇の隙間から、また笑う吐息がこぼれて、啄むようにして唇をぴったりと縫い閉じた。そうしてふたたび熱が兆せば、肌に手を這わして、際限なく互いの身体にふけり、溺れた。  こぼれた溜め息が、そのまま星屑になって空へ昇っていくような、甘やかで幸福な夜だった。この夜が永遠に明けなければいいと、心の底から願った。ふたりのためだけに星は瞬き流れ、月は満ち、波はさざめき、海は輝いていた。こんな夜には、きっとセイレーンさえもが、真珠を抱いてやさしい愛のうたを歌うだろう。  今日の夕食は久しぶりのカオマンガイだ。よく肥った鶏が三羽、手に入った。この船の乗組員たちは皆この料理が好きだ。そして勿論、ステラも。  大鍋に鶏肉と、それが浸かるぐらいの水を入れて火にかける。そこへパクチーの根と大蒜(にんにく)、それにナンプラーなどの調味料も一緒に入れて蓋をする。暫くして煮立ったら少し火を落として、あとは丁寧に灰汁を取ってやる。鶏が茹で上がるまでのあいだに、フライパンで米を炒めておく。ここで手に入る米は、俺が昔食べていたものとは種類が違うのか、どうも粘り気が強い。ひと手間ではあるが、油で炒めておいてから炊けば、炊き上がりが水っぽくならない。  ああ、そろそろ鶏の具合も良さそうだ。それからソースをどうしようかと考える。水夫たちは辛いものがあまり得意ではないようだった。前回よりも唐辛子の量は減らして、でもコクが無くなるから辣油は減らしたくない。ステラはもう少し味が濃いほうがいいと言ってたな──  食べるひとたちの顔を想像しながら作る料理は、楽しい。食堂で働いていた頃みたいに。いや、もしかしたら、その時以上かも知れない。そうしていつしか、俺は自分の店を持つことを夢みるようになっていた。それは、決して大きくも美しくもない平凡な夢だけれど、特別で、大切な夢だ。今まで生きてきた日々の中で、初めて抱いた(のぞ)み。それに想いを馳せるとき、俺は胸の奥に小さな灯をともすような、あたたかい気持ちになる。  少し前の俺ならば、自分の店を持つなんて、思いつきもしなかっただろう。金も希望も情熱も、俺はひとつとして持っていなかった。今こんなふうに希望を持てるようになったのは、ステラのおかげだ。彼は俺に文字を教え、誰かのために料理を作る楽しさを思い出させてくれた。そして、生き方は自分で変えられるのだと、そう言ってくれた。信じさせてくれた。だからこそ俺はステラの隣りで、この小さな夢をえがけるようになったんだ。  もう暫くこの船で働いて金を貯め、頃合いを見計らって、ステラと一緒に船を降りる。そしてどこかの小さな町で、ふたりで食堂を開く。看板料理はもちろんカオマンガイ。ステラの包丁捌きがいまいちだって問題ない。俺が料理を作って、彼には給仕をやってもらおう。でもステラは文句を言うだろうな。「俺だって作れる!」と包丁を奪おうとするステラを想像して、つい頬が緩んだ。  この計画を話して聞かせたことはないけれど、きっとステラも頷いてくれるだろう。ふたりで船を降りて新たな生活を始めることは、そんなふうに、俺の中で次第にくっきりとした輪郭を持ち始めていた。  ふっくらと鶏が茹で上がった。食欲をそそるいい香りだ。茹で汁は捨てずに、そのままスープにする。本当は具材には冬瓜が欲しいところだけれど、手に入らないからズッキーニ。玉葱もまだもう少しあったはずだから切ろう。しゃがみ込んで食糧庫の下段を探っていると、上から降りてくる数人分の足音がした。不審に思って顔を上げると、ひょろりとした長身に浅黒い顔の水夫と、その後ろにふたりの男が立っていた。どの顔も知っているが、話したことは殆どないように思った。まず名前が分からない。 「なにか用か」  素早く立ち上がって向かい合うと、男は俺よりも更に頭ひとつ分も上背があった。顎先にだけ蓄えられた薄く疎らな髭が、どこか卑屈そうに見える。こちらを見る細い目は睨むようにぎらりと濁って、今夜のメニューを訊きに来たというような友好的な雰囲気は、ひと欠片もなかった。  男は問いかけには答えず一歩こちらへ近づくと、突然、俺の胸ぐらを掴んだ。 「お前、キャプテンから何を貰ったんだ」 「は?どういう──」  聞き返す間もなく、男は俺の左頬を殴った。目の奥が、ぐわんと揺れる。咄嗟に目の前の腹を、足裏でめいっぱい蹴り込んだ。長身の男はよろけて俺のシャツから手を放したが、すぐに横から別の拳が飛んできて、俺の腹を殴った。その隙にもうひとりが後ろへ回って、羽交い締めにされる。まずい、身動きがとれない。  けれど顎髭の水夫はもう殴りつけることはせずに、俺から少し距離をとって言った。 「ステラを助けた褒美を貰っただろう。金か、酒か?これ以上殴られたくなかったら、寄越せ」  その言葉に、ようやく合点がいった。同時に、しまった、と思った。  船から落ちたステラを助けて以来、俺は何かとキャプテンから目を掛けられるようになっていた。些細なことではあるが、甲板掃除を免除されたり、新しいシャツを貰ったりした。そういう幾つかの出来事が、ほかの乗組員たちの目についたのだろう。こんなふうに殴られるのは勿論ごめんだし、ステラとのことや、今後の計画もある。船の中で注目を集めるようなことは、今は極力避けたかった。 「そんなものない。このシャツを貰っただけだ。褒美は、今度港町へ寄るときに、新しい鍋と包丁を買って欲しいと頼んだだけだ。だから、お前らが思うようなものは持ってない」  静かに言えば、隣りに立っていた男が、無言でもう一度腹を殴った。 「本当だ。どうせ俺の寝床や厨房は、もう探したんだろう?ブーツの中を見てくれたっていいんだぜ、パン屑ぐらいしか出てこないけどな!」  腹を殴った男の脛を蹴りつける。背後の男の腹へ右肘を打ち込むと、肩を締め付けていた腕がわずかに緩んで、拘束を振りほどいた。壁を背にして、三人と対峙する。体勢を整えてはみたものの、俺の分が悪いことに変わりはない。奥歯をぐっと噛んで、拳を握った。 「おいマレ──」  いつもの、騒がしいオクトーの声だった。 「あっ、お前ら何やってんだ!新人いじめか?」  どかどかと階段を踏み鳴らして、航海長が降りてくる。助かった、と思った。三人は声の主を振り返る。 「大概にしとけよ。こいつの腕が使い物にならなくなったら、飯が出てこなくなるんだからな」  オクトーが俺を指して言うと、男たちは鼻白んだように首を振った。それから互いに目配せをし合って、小さく舌打ちをしながら引き揚げていった。 「助かった、オクトー。ありがとう」  ほっとして身体からいっきに力が抜ける。我ながら情けないような声で礼を言えば、オクトーはどうでもよさそうに欠伸をした。 「別に何もしてねえよ」  それから大鍋の中を覗き込んで「お、今日はカオマンガイか」と呑気そうに言った。 「そう、鶏が手に入ったから、久しぶりに──」  けれど、そう言う俺を振り返った彼の目は、険しかった。 「マレ、気をつけろよ。ああいう奴らに弱みを見せると、面倒なことになる」  心の中を見透かすかのような鋭い眸に、どきりとする。皆まで言われずとも、ステラとのことだ、と思った。やはり早い内に、下船する算段を始めたほうがいいかも知れない。腹の奥でちりちりと、嫌な予感めいたものが焦げつくのを感じる。今夜にでもステラと話そう、と決めた。  頬の内側に痛みを感じて、舌で触れてみる。殴られた拍子に切れたらしい。舌の上に血の味が徐々に広がって、鉄臭いそれはひどく苦く、纏わりつくようだった。 【或る日の船乗り猫のひとりごと】  今日は、最近俺の身に起きたいいことと、ちょっと困ったことの話をしようと思う。  まずは、いいことの話を。そう、俺の友人、ステラとマレの話だ。賢明な読者諸君はとうにお気づきだったと思うが、あいつらはやっと気がついたんだよ!猫に喋ってる暇があったら、当人たち同士でさっさと話し合えばいいんだってことにな。  ある日を境に、彼らは例のおかしなひとりごとを俺に聞かせなくなった。そして気がつくと、ステラの部屋や深夜の厨房で、ふたりは髪や頬を撫でて、互いに毛繕いをし合うようになっていた。あとそれから、よく口と口をくっつけ合ったりもする。あれは何だろう、あれも毛繕いの一種なんだろうか。楽しいのか?でもまあ、飽きもせずいつも随分長いことちゅうちゅうやってるから、きっと面白いんだろうな。  ステラはかねてからの望み通り、マレに抱っこしてもらえるようになったし、マレはステラのふかふかのベッドで眠れるようになった。彼らは満足そうだった。仲良きことは美しきかな。上機嫌のふたりから、俺はベーコンやチーズを大盤振る舞いしてもらったし、腹を無理やり吸われたり、苦しいぐらいに抱きしめられたりすることもなくなって、暮らしはすっかり平穏を取り戻した。  ──と、思ったんだが。ここでちょっと困ったことが起きた。さっきも言ったように、マレはたびたびステラの部屋で眠るようになった。そういう夜、俺は狭いながらも、ステラの頭の横へ身を滑り込ませて寝た。本当は彼の腹のあたりにくっついて眠るのが好きなんだが、そこはマレに譲ってやったかたちだ。それだって言うのに、ある夜、それさえも許されず、俺は部屋の外へつまみ出された。仕方なくオクトーの寝床へ行ってみたが、毛布からは変な匂いがするし、奴のがうるさすぎて五分と居られやしなかった。結局その日は、麻袋の中でじゃがいもと一緒に寝た。  それからも時々、そういう夜があった。しかも冷え込む日に限って、だ。そもそもが小さなベッドだ。男ふたりが寝たら、それだけで充分に窮屈なことだろう。そこへ猫の一匹ぐらい入ったとて、狭苦しさはもう大して変わらないと思うんだが。マレは俺を抱きかかえて部屋の外へ連れ出しながら、眉を下げて「ごめんな」なんて謝ってくるけれど、どうにも納得がいかない。しかもそんな時、あいつは大抵シャツを脱いでる。寒いから一緒に寝るんじゃないのか?どうしてわざわざ服を脱ぐんだ。暑いのか、寒いのか、どっちなんだ。  度重なる、この理不尽な仕打ち。一体どういうことなんだ。ベーコンの切れ端ぐらいじゃ割に合わない。困ったもんだぜ。ああ本当に、ひどい話さ。

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