3 / 4
第3話
暁の薄明かりが、群青色の夜空の縁をほのかに白く滲ませている。星々はまだその姿をとどめて、けれど幾つかは数を減らし、夜明け前の空に吸い込まれてしまいそうに儚く光っている。ごく淡い光は部屋の中にもぼんやりと満ち、すべてのものを、まるで海の底のように青く透きとおらせた。
シーツの上に乱れる後ろ髪を撫でて、裸の肩へ口づける。そのミルク色の肌へも、青い光はやさしく舞い降りていた。
「ステラ……そろそろ戻るよ」
あと四半刻もすれば、起床の合図の喇叭 が船に鳴り響くだろう。周りの水夫たちが起き出す前に自分のハンモックへ戻らなければならない。
「ああ、もうそんな時間か」
腕の中で、ステラが眠そうに目を擦る。微睡みから覚めたばかりの身体は熱っぽくとろりと融 けていて、言いようもなく離し難かった。自分から出立 告げたくせに、甘やかな身体を往生際悪く抱き寄せ、首筋に唇を押し当てた。
「んん、ねむ……」
「ごめんな、もう少し寝て。俺は行くから」
呻いて身を捩るステラの胸元に、おはようのキスと、さよならのキスを落とす。それでも名残惜しくて、頬にも、耳の縁にも、肩にも。つい、胸の先を唇に咥えたところで「やめろって」と、背中を叩いて窘められた。
まだ眠気の残るままシャツを羽織って、釦を留める。と、後ろでステラが言った。
「──この風なら二、三日のうちにはトルトゥーガに着くと思う」
わずかに硬さを含んだ声だった。
「大体みんな、情婦 か馴染みの娼婦のところへしばらく滞在する……行方をくらますなら、港に着いた日の夜だ」
振り返ると、彼は白い肢体を曝したままに、シーツの波間で膝を抱えていた。その姿は、どうしたって心細げに見えた。
この数日、いつこの船を降りるべきかを、俺たちは密かに話し合っていた。いまルナ・エルモーサ号は多くの海賊たちが拠点とする島、トルトゥーガへ向かっている。
ならず者たちのあいだでは、ステラは黒いダイヤ の跡取り息子としてちょっとした有名人で、彼の華やかな風貌も相まって、その顔は多くの海賊たちが知るところだった。そういう事情から、ステラと俺が人目に付かずに行動をするには、トルトゥーガという場所は不向きなのではと最初は思った。けれども、トルトゥーガ島を発った後に船がどこへ向かうのかは船長の気分次第であり、そこが近いのか遠いのか、身を隠せるような街かどうかは、全く予想がつかなかった。ならば、いたずらに時間を費やして待つよりは、トルトゥーガの乱痴気騒ぎに紛れて、どこか他の街へ移るのが上策だろうという結論に至った。
「トルトゥーガは小さい島だけど、すぐ隣りのサン・ドマング島にはかなり大きな街がある。そこへ隠れてしまえば、容易には見つからないはずだ」
昨夜、狭いベッドの上でステラはそう言って、地図を広げた。
「サン・ドマングから東側へ移ってプエルトリコを目指すのがいいと思う」
彼の指が、島の右側へすい、と滑る。
「こっち側は?」
「西はウィンドワード海峡。このあたりはたいてい海賊船がうろついてる。船旅はやめたほうがいいだろうな」
ステラには、下船した後の具体的な旅の道筋が見えているようだった。恐らくはずっと前から考えていたのだろう。それでも話す声色や、忙しなく動く瞳の様子から、彼がまだ胸の内の不安や躊躇いを手放しきれていないことが窺えた。
「ステラ」
彼の手をとって、手の中へ包むようにして握る。指先はわずかに冷えていた。
「心を決めかねてるんだったら、無理することない。もう少し先に延ばしたって……」
すると彼は小さく首を振って
「大丈夫。いいんだ。今回のトルトゥーガへの帰港が一番いいって、何度も話し合っただろ」
と、苛立たしげに言った。けれどそれは俺への苛立ちではなく、自分を奮い立たせようとするかに見えた。
「それは、そうだけど」
「ただ、うまく逃げ果 せるか、それが心配だ。親父は手下を使って俺を探させるだろう」
「もし追手に捕まったら?」
ステラは俺の顔をちらりと見て、ぐっと眉を寄せた。
「俺もお前も、殺されるだろうな」
常よりも低い声に、どきりとした。刃物で撫でられたように、背中がぞくりと粟立つ。
「……ステラまで?我が子なのに?」
「自分の子だって関係ないさ。船から逃げたんだ、裏切り者には死を。それがあのひとのルールだ。それにまあ、俺がいなくなったとしても、跡継ぎにできるような息子は他にもいるだろうからな」
吐き捨てるように言うと、ステラは俺の手をぎゅっと握り返した。
「だから、マレ。もしも追手に見つかったら、お前は何とかして逃げろ。マレはあの島の奴らに面が割れてない。ひとりなら逃げ切れるはずだ」
「ステラ……」
俺を見つめる眸 は力強く、けれど、縋り付くように悲痛な色を湛えていた。
握っていた手を引き寄せて、身体ごと胸へ抱き竦める。
「それは、約束できないけど」
「マレ!」
拳が俺の肩をどん、と叩く。噛み付くようにステラが顎を上げた。
「とにかく。見つからないよう慎重にやろう。君が言ったように、俺の顔はトルトゥーガじゃ知られてない。ふたり一緒なら、きっと何とかできるはずだ」
「……マレ」
ステラの口から不安そうに俺の名がこぼれ落ちる。その音色に、胸の奥が抓まれたみたいにきゅっと痛んだ。
その唇が閉じきらぬうちに、唇で塞いだ。強引に舌を吸って、シャツの中へ掌を滑らせる。背骨のおうとつを腰から上へ、ゆっくりと撫で上げた。
「ん、んん、」
唐突な俺の求めに、ステラが戸惑っているのが分かる。それでも腰を押し付けるようにすれば、すぐに興奮は彼の若い身体の中で膨れ上がり、徐々にその理性を奪っていく。はじめのうち抗うように俺の胸を押さえていた腕も、やがては力を失い、俺の首に絡みついた。
こんなやり方が狡いことは百も承知だった。けれど今、彼の決心を鈍らせている不安を、葛藤を、誤魔化してしまいたかった。そういうものから彼の目を逸らしてしまいたくて、必死だった。彼がここで過ごしてきた時間や、仲間や、この船よりも、俺だけを選んで欲しい。何の恐れもなく、誰も知らないところで、ステラとふたりきりで生きていきたい。
「愛してる。ステラ……俺を見て。俺だけを」
「あ、あ、マレ……」
からだを繋ぎ合わせる。離れないように強く。快楽は彼の思考を溶かし、やがて、聡明なふたつの眸は俺しか映さなくなってゆく。そうなってしまえば、この小さなベッドの上だけがすべてだった。この瞬間の、抱擁と交わし合う吐息の中にだけ、すべての意味が在った。
「ステラ、愛してる……なあ、愛していると言って」
ただ愛を乞う。ほかには、何にもいらない。
「トルトゥーガに着いた日の夜。Jim'sって酒場で落ち合おう。一番大きな娼館の裏通りにある。行けばすぐ分かるはずだ」
俺の寝癖だらけの髪を撫でつけながら、ステラは言った。
「わかった」
頷いて、冷えた肩を抱き寄せる。
「ステラ。大丈夫だ、きっと何もかも大丈夫」
うまくいくさ、と耳許で幾度も繰り返した。応えはなかったけれど、ステラの手は、俺の背をしかと抱き返した。背中に感じる掌の温度が、泣きたいぐらい愛おしかった。
「そろそろ行くよ。今日の朝飯はじゃが芋と豆のスープだ」
「ベーコンはないのか」
「ない。みんなニクスにやっちまった」
おどけて肩を竦めてみせれば
「とんだ料理長だな」
ステラが歯を見せて笑った。その顔には夜明けの淡い陽が射して、あたたかな血潮の色が灯っている。えくぼの影に唇を寄せた。頬の匂いを吸い込んでから、目を見て笑い合った。──もうすぐ、朝が来る。
濃い霧の日はよ、海を眺めてっと、セイレーンの歌が聞こえてくるんだ。それに耳を貸すと海ん中ぁ引きずり込まれっちまう。だからよ、薄気味悪りい陽気の日にゃあ、ぼうっと甲板に立ってちゃいけねえのよ──隻眼の老水夫はいつだったか、そんなふうに言った。
ちょうどその迷信を思い出すような、ひんやりとした曇天だった。昼間だと言うのに薄陽ひとつ射さない。灰白色の重たい霧が海面を這って、その分厚い幕の中へ、船一隻をすっかり包み隠してしまっていた。
昼食を終えて火を落とした調理場は、忙 しく立ち働いていてもなお肌寒かった。いつもならば食糧棚の上で寝ているはずのニクスも、今日は寒いと見えて姿を現さない。たぶんステラのベッドにでも潜り込んで暖をとっているのだろう。
洗い終えた食器を棚に片付けていると、にわかに甲板の上が騒がしくなった。沢山の脚がばたばたと走り回り、内容まではよく聞き取れないが、怒号が飛び交っている。そのただ事ではない気配に、俺は慌てて階段を駆け上った。
「奴らだ!"血塗れブーツ "だ!」
「まずいぞ、風下だ」
「土手っ腹に突っ込んでくるぞ!面舵!躱せ躱せ!」
男たちは口々に何かを叫ぶ。左舷いっぱいに帆が開かれる。帆は風をはらむ。やがて船体が右に傾いたと思うと、ドオン、という轟音と共に凄まじい衝撃が走った。どこかへ掴まる間もなかった。身体が吹っ飛んで、強かに船縁へ打ち付けられる。周りの水夫たちも同様に倒れたが、俺がやっと起き上がった頃には、皆一斉に武器をその手に取っていた。
またたく間にメインマストには幾重にも鉤縄が掛けられて、ルナ・エルモーサ号は今や完全に相手方の船に捕らわれていた。衝突してきた船体はこちらよりやや小さいように見えたが、その艫 には黒ずんで濁った赤い色の旗がゆらりゆらりとはためいて、何とも言えぬ気味の悪さがあった。
「来たぞ!」
舶刀 の短い刃を高く掲げ、水夫が叫ぶ。すると舷を接したところから、同じような武器を手にした男たちが、どっと乗り込んで来た。
「殺せ殺せ!」
「全員叩っ斬れ!」
甲板の上はあっという間に乱戦になった。肉や骨のぶつかり合う鈍い音、翻る刃の光、生臭い匂い。鮮血が舞う。
丸腰ではどうにもならないと厨房へ取って返したが、あいにく刃物は包丁しかない。思わず菜切り包丁とまな板を握りしめたが、これでは役に立たないだろうか。
「マレ!何やってんだ!」
立ち尽くす俺を見つけたオクトーが、階段をひと息に駆け降りてきた。額には汗が流れている。右手のカトラスの独特の曲線を、血が伝う。その赤い色が目に入った途端、どくりと心臓が波打った。
「船倉にでも隠れてろ!お前じゃ役に立たねえ。とりあえず殺されるなよ!」
それだけ言うと、彼は背を向けて階段に足を掛けた。
「オクトー!ステラは?」
「てめえの身の心配だけしてろ!あいつは大丈夫だ、剣の腕はキャプテンにも引けを取らねえ」
オクトーは半身だけ振り返り、腰に提げていたカトラスを俺に向けて放った。それから「いいか、絶対に隠れてろよ」と念押すと、あっという間に甲板へ戻った。
ステラのことを思うと居ても立ってもいられないような心地だったが、確かに、俺が打って出たところで即座に斬って捨てられるだけだろう。衝動を押し留めオクトーの言ったことを信じて、その忠告に従うことにした。
借り受けた短刀の柄を強く握って、下の階層へ降りる。その最後の段へ足を置いた時だった。がつん、と頭に衝撃を受けた。視界が揺れて、瞬間、燃えるような痛みが広がる。何か硬いもので殴られたらしいと気がついたが、どうすることもできずに床に転がった。頭がぐらぐらする。必死に力を振り絞って身を翻す。と、血塗 れの男がカトラスを手に振りかぶっていた。咄嗟に左へ身体を返す。紙一重で刃を避けた。けれど辺りには帆布が高く積み上げられていて、これ以上逃げ場はない。
──こんなところで殺されてたまるか。
振り方も知らぬ刀を握りしめて、刃を男へ差し向けた。しかし男はそれを恐れる様子も見せずに、得物を構えたまま一歩近づいた。間合いが詰まる。男の手が撓 ったかと思うと、キン、と音がして、俺の刀はあっけなく払われた。刃が回転しながら左方へ飛んでいくのを、思わず目で追う。一瞬で全身の血の気が引いた。反射的に目を瞑る──
けれども痛みはやって来なかった。恐る恐る、目を開ける。すると目の前の男は血を吐いて膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れた。その後ろには、刀を手にひとりの男が立っている──ステラだった。
「マレ!大丈夫か」
「ステラ!」
彼は右手のカトラスを離さないまま駆け寄ってきた。そして片膝をついて屈むと、血だらけの手で俺の顔を包み「怪我はないか」と、険しい目つきでこちらを覗き込んだ。その額には玉の汗。肩で息をしている。滑らかな頬や白いシャツは、真っ赤な血しぶきに汚れていた。
「俺は大丈夫だ。ステラは?その血は?どうしたんだ、どこか、」
「いや返り血だ、俺は斬られてない」
ステラは頬の汚れを袖でぞんざいに拭うと、階段のほうに視線を走らせて言った。
「上はもう大体片付いてるから大丈夫だ。もうしばらく船倉に隠れてろ、マレ。俺が迎えに行くまで出て来るな」
それから、ひとつ息を吸って吐くだけのほんの短いあいだ、片腕で俺を強く抱きしめると、彼は踵を返して階段を駆け上がっていった。
足音が聞こえなくなっても、俺はただぼうっと、その残像を眺めた。足元にはステラに斬られた男の死体が横たわっている。身体からはとめどなく血液が流れ出し、その下の血溜まりを刻々と大きくしていた。
奇妙な興奮は鎮まらなかった。心臓は煩いぐらい大きな音を立てて、早い鼓動を繰り返している。こめかみが脈打って痛み、眩暈がした。
自らの死を覚悟し、けれど既 のところで命拾いし、目の前でひとりの男が死んだ。この頭のすぐ上、甲板では今もまだ数え切れないほどの刃が斬り結び、血が流れているのだろう。
直前の強烈な記憶は次から次へと脳裏に浮かび上がっては消え、俺の頭の中を引っ掻き回した。その中でも、ステラ──そう、ステラだ。眼光鋭く血に濡れたカトラスを握り、全身に返り血を浴びた彼は、恐ろしかった。足が竦んだ。そして、ああ、何てことだろう!身震いするほどに、凄まじく美しかった。全身に殺気を纏い、その瞳の奥に、ルビーよりも透きとおった炎をめらめらと燃やして。すべてを灼き尽くさんとするかのような眸の色に、どうしようもなく魅入られていた。ほんの数瞬前に感じた死の恐怖すら色褪せるほどに。
後頭部がズキリと痛んだ。異様な錯乱の中から目の前の景色へと、痛みが俺をはっと立ち返らせる。
ぞっとした。こんなのはまともじゃあない。この恋の業の深さ。あまりに罪深い恋心。他人の死も、己の死さえも、彼への敬虔な崇拝の前には霞んでしまう。それは狂気の崖の縁 に立つような──果たして、本当に縁だろうか。さながら、自分で御せない何者かを身の裡 に飼うような、底の知れぬ恐ろしいことのように思えた。
何という甘い絶望。溺れ沈みゆく歓び。この恋からはもう決して、逃れられない。
取り落としたカトラスを拾い上げて、船倉を目指す。階段の上からひとの降りてくる気配がないのを確かめてから、慎重に段を下った。船荷のあいだへ身を潜めるように小さくなって座ったが、それでも手の震えは暫くおさまらなかった。
程なくして、騒ぎは止んだ。ボタス・ロハス号の船長は、積んでいた山のような酒樽と金貨を差し出し、代わりに沢山の死体と怪我人を船に乗せて、引き揚げていった。乗組員たちの話では、彼らはもともと因縁のある海賊船で、今までにも数え切れないほど小競り合いがあったのだという。けれど今日のように、ルナ・エルモーサが完全な勝利をおさめたのは初めてのことだと、左腕の包帯に血を滲ませた青年水夫が、誇らしげに話していた。
俺はと言えば、殴られた後頭部は瘤になっていたが、それ以外には怪我もなくピンピンしていた。が、あまりに強烈な出来事の連続に圧倒されてしまい、疲れて寝床へ横になった。周りのハンモックにひとはなく、寝室はがらんとしている。きっと誰もが大勝の美酒に酔い、甲板で大騒ぎしているのだろう。
寝るともなしに軽く目を瞑る。すると「マレ」と耳に馴染んだ声がして、目を開ければ不安そうなステラの顔があった。
「大丈夫か、マレ。痛むのか」
「いや、そんなには。ただ何だか身体に力が入らなくて……」
自分の言い草が情けなくて、頭を掻いて笑ってみせる。でもうっかり手の触れた後頭部は、やはり痛かった。顔を顰めると「痛そうだな」と、ステラがそうっと髪を撫でて頭の後ろを覗き込んだ。
顔を洗いシャツを着替えたステラは、すっかりいつもの彼だった。ぼうっと顔を見つめていると、不思議そうに大きな目をぱちぱちと瞬 かせる子どもっぽい仕草に、何となくほっとした。
「マレ、悪いんだけど食事の支度をしてやってくれないか。腹が減ったってみんなが文句を言ってる。船長から酒が振る舞われて、甲板はどんちゃん騒ぎだ」
「ああ、すぐ行くよ」
慌てて寝床から這い出る。ブーツを履いて顔を上げると、ステラは沈んだ表情で、揺れるハンモックをぼんやりと見つめていた。眉のあたりを憂鬱そうに曇らせたその顔は、勝利の余韻とは程遠いように見えた。
「ステラ。さっきは助けてくれてありがとう」
肩に手を置くと、ステラはゆっくりとした動作で俺のほうを向いて「礼なんかいい」と、力なく言った。その虚ろな目に、胸がざわりと不穏に軋んだ。
「なあ、どこか痛むわけじゃないんだろう?」
何か言って欲しくて、促すように肩をさする。と、ステラは俺の視線を避けるようにきつく目を瞑って、それからひとりごとみたいに、言った。
「……どんな綺麗事言ったって、俺は海賊だ」
誰にも聞かせたくないかのように小さな声だった。揺れて、掠れた声。
「人殺しなんだ……失望しただろ」
ステラの目が見開かれる。それはもう虚ろではなかった。俺を見ているようで、見ていない両の眸。その中には烈火のごとく怒りが燃えていた。──やめろ、やめてくれ。その炎は、激しい憎しみは、彼自身を灼き尽くしてしまう。
咄嗟に頬を掴んで、真っ直ぐに見据えた。
「君が助けてくれなけりゃ、俺は殺されてた!ほかの仲間だって」
「でも!」
なおも言い募ろうとするステラを、強引に腕の中へ掻き抱いた。
「生まれる場所は選べない。自分を憎まないでくれ、ステラ。いつだって生き方は変えられる。君がそう俺に言ってくれたんじゃないか」
こんなふうに苦しむ彼を、もう見たくなかった。頑なな身体を、強く強く抱く。少しでも腕の力を弱めたら、彼がどこか手の届かない遠いところへ行ってしまう気がした。
「なあステラ。やっぱり、一刻も早く俺と船を降りよう。海賊でいることをやめるんだ。トルトゥーガで、何としても新しい生き方を手に入れるんだ」
力なく垂れ下がっていたステラの両腕が、俺の背をきつく抱いた。意思を取り戻したみたいに。それから彼は顔を上げると、俺の目を射抜くようなまなざしで見た。
「──マレ。俺と一緒に来てくれるか。運命を、共にしてくれるか」
生命力に満ちた、光り輝く瞳。俺の好きな、ステラの瞳。
「もちろんだ。君と行くよ。君と一緒なら世界の果てだって。どんなときも、なにが起ころうとも、俺はステラのそばにいる」
額と額を合わせて目を閉じた。そうすると、もう何も言わずとも、ひとつになった気がした。ふたりの体温、息づかい、心臓の鼓動。そういうものたちが、重なって溶け合ってゆく。いまステラもそう感じていることが、合わせた額からはっきりと伝わってきた。その永遠のような一瞬。そこにあるのは、波の音のように、星の瞬きのように、決して失われない確かなもの。
そうして、俺たちはゆっくりとキスをした。永遠の誓い、あるいは、あらかじめ星にえがかれた運命 のように。
静かな夜だった。星明かりの歌が聞こえてくるような静寂 。夜明けまではまだ遠く、恋人を腕の中へ抱いて、ふたり同じ夢を見ている時刻だった。
ドアの開けられる気配がした。すぐに、いくつかの足音。はっと目を開けて身を起こした。ステラも同じように起き上がり、枕元の短刀の柄に手を掛けた。ランタンの暗い灯がゆうらりと揺れている。そこに浮かび上がるふたつの顔。それは、いつだったか俺を殴った男と、能面のように表情を失った船長の顔だった。
「面汚しもいいところだ!この誇り高きルナ・エルモーサの跡取りが、コックなんぞの女にされたなんて!」
船長は声を荒らげ、吐き捨てるように言った。そして、それでも収まりがつかないというように、そばのテーブルに置かれていたグラスを掴むと、力任せに床へ叩きつけた。硝子の破片が辺りに飛び散って、俺の裸足の足元を打つ。俺はまだブーツさえ履いていなかった。
「違う!俺たちは真剣に愛し合って……」
「そんな話、聞きたくもない!」
黙らせるように、船長はステラの頬を強かに殴った。ステラはわずかによろめいて、けれどすぐに顔を上げて、父親の顔を鋭い目つきで睨んだ。先程まで怒りで真っ赤に染まっていた船長の顔は、今はもうそれを通り越して、青ざめているように見えた。
部屋の外がざわめく。深夜にもかかわらず、騒ぎを聞きつけた船員たちが集まり始めていた。
「お前らは、俺の顔に泥を塗ったんだ。とんだ裏切りだ!……この船の掟は知ってるだろう」
なあ、ステラ?と、船長が目を眇めて息子を見る。ステラは応えずに、音がするほど強く奥歯を噛んだ。
「"裏切り者には、死をもって報いよ"……そうだろう?」
「待てよキャプテン!」
船長の後ろで声がした。ドアから顔を覗かせたのは、オクトーだった。
「乗組員を罰する時は、竜骨潜 りって決まってるじゃねえか」
「黙りやがれ、オクトー!」
船長は振り返らぬままに、太い声で怒鳴りつけた。
「酒をちょろまかすのとはわけが違う。竜骨潜りじゃ手ぬるい。処刑する。撃ち殺して海に沈めてやる」
ざわ、と野次馬たちがどよめく。
「ああ、いいぜ!殺せよ、さっさと俺を殺せ!」
ステラが船長の胸ぐらを掴み、食って掛かる。と、船長は鼻で笑った。
「お前は殺さねえよ、コックのほうだけだ。こいつが死ねば、お前の目も覚めるだろう。男相手に愛してるだの何だの、そんな馬鹿なことは言わなくなるはずだ」
「てめえ……!」
拳を振り上げたステラを、オクトーが必死に押さえて止める。
「待て、ステラ!キャプテンも!いくら何でも殺すこたあねえだろ。マレはつい最近この船に乗ったばかりだ。それをいきなり海賊の掟で裁くってのは、いかがなもんか。なあ?」
取りなそうとするオクトーの顔にはいつもの呑気そうな笑みが浮かんでいた。けれど、その目は笑っていなかった。そこに必死な焦りの色を見て取る。たぶん、俺は殺される。ぞくりと背筋が震えた。
オクトーの言葉に、ステラは拳をゆっくりと下ろした。それから父親を真っ直ぐに見て
「──マレを殺さないでくれ」と、呻くように言った。
「後生だ、お願いだ、親父。マレはもともと海賊じゃないんだ。どこかで降ろして、船から追放すれば済む話じゃないか。そうしたら俺は、あんたの望むことは何だってやるよ。仕事も覚える。断ってたエスパーニャとの交渉役だって何だって。だから……!頼む、こいつを、マレを、殺さないでくれ」
声は痛々しくひび割れて、最後には殆ど泣き叫ぶようだった。父親の胸ぐらを掴んでいた手は、力なくシャツを握るだけになって震えていた。
すると船長は長く伸ばした顎髭を何度か撫でて、ステラの顔と俺の顔とを、交互にしげしげと眺めた。そうしてひょいと片眉を上げると、あっけらかんと言った。
「何でも?そうか……わかった。お前に免じて、殺すのはやめてやる。マレはこの船から追放するとしよう」
告げるや否や、船長は長いガウンの裾を翻しステラと俺に背を向けた。扉の前に鈴なりになっていた水夫たちが慌てて道を開ける。それから黒いダイヤ は「オクトー!進路を変えるぞ」と、大声で航海長を呼んだ。
船長が立ち去った後、数人の男たちによって、俺は船の最下層にある狭い牢に入れられた。船倉にこんな場所があったことを、俺は初めて知った。
座れば脚も伸ばせないような狭い牢だった。頑丈な鉄格子で四方を囲まれていて、鍵は船長が持っている。ここから逃げ出せるとも思わなかったが、逃げたところで海上の船の中だ。そもそもが逃げ場などなかった。
船から追放するとキャプテンは言ったが、彼が最後に見せた、ひとを食ったようなあの表情。そんなに簡単な話ではないような気がした。やっぱり俺は殺されるのかも知れない。考えると胃の底のあたりが、ぐうと竦み上がった。
そしてステラのことが気がかりだった。ひとまず彼は殺されることはなさそうだ。でも、これからの彼の立場はどうなる?あの口約束によれば、ステラは海賊で居続けることを強いられるだろう。この船から逃げられない──俺のせいで。
身を引き裂かれるような思いがした。海賊である自分を憎悪していたステラ。あの虚ろな目。瞳の奥に燃えていた昏い炎は、彼をいつの日か蝕んでしまう。想像するだけで胸を掻き毟られるようだった。ステラの未来が、そんな惨めなものでいいはずがない。
──俺は約束したのに。彼と共に新しい生き方を手に入れるのだと。俺は誓ったのに。どんなときにも、彼のそばにいると。
じわりと、目の縁が濡れた。もうじき死ぬのならば、最後にステラに会いたかった。触れられなくてもいい。せめてひと目だけでも。それすらも叶わないのだろうか。
もう二度とステラに会えないのなら、いっそ死んだほうがましだった。彼のいない場所で何の希望もなく生きていくぐらいなら、この船上で処刑され海に沈められるほうが、どれだけいいだろう。俺は精霊のように海を照らす真珠にはなれなくとも、骨になって、この海の一部になる。ああ、そうすれば、ステラとずっと一緒だ。
そう思うと心は少しだけ凪を取り戻した。「ステラ」と彼の名を口の中で転がすように呟いて、俺は膝を抱え目を閉じた。
それから船は、四日走り続けた。
そのあいだ、ステラに会いたいという願いはついぞ叶わなかった。食事はわずかばかりの水と乾いた固いパンが、日に二度与えられた。
ステラと作ったカオマンガイの味が恋しかった。本来の味とは違う、ステラの好みに合わせて変えた、辛味がなく塩気の強いソース。俺がいなくなっても、ステラはあのレシピでカオマンガイを作るだろうか。でもあの危なっかしい手つきで丸鶏を切り分けたら、きっと身がぼろぼろになってしまう。日がな一日、俺はそんなことを考えて過ごした。
「出ろ。ここで船を降りろと、キャプテンが仰せだ」
ギ、ギ、と重苦しいような音を立てて牢の扉を開けたのは、厨房で俺を殴った長身の男だった。黄色い歯を見せてにやにやと笑う顔が、腸が煮えくり返るほど不快だった。殴りつけてやろうかとも思ったが、すぐにどうでもよくなってやめた。もう、どうでもいい。男の薄ら笑いも、恐らくこいつが俺とステラの関係を密告したのであろうことも、腹が減っていることも、死ぬことも。
甲板へ上がると、久しぶりに浴びる強い陽射しは眼球に突き刺さるようだった。空は雲ひとつなく澄み渡り、波は輝いている。美しい日だった。命が終わるのならばこんな日がいい。悪くない、と俺は思った。
二人の水夫に両腕を掴まれ抵抗を封じられる。と、左側の男が「縄梯子を降りて、ボートに乗れ」と言った。おや、と思う。てっきり、ここで撃ち殺されるのだと思っていた。本当に下船させられるのだろうか。しかしもちろん、ここは港ではない。
甲板の上には、乗組員たちが集まっていた。腕を組み無関心そうに眺めている者、憐れむように顔を顰める者、面白そうに笑っている者。その中に、オクトーの顔を見つける。彼は俺を見ていた。口を固く引き結んで、泣き腫らしたように真っ赤な目で。その様子に混乱する。ただ船を降ろされるだけではない、ということなのか。問いかけるように目線を返したが、彼は更に眉をきつく寄せて見つめてくるばかりで、答えは得られなかった。
期待はしていなかったが、いくら探してみても、案の定ステラの姿はなかった。船の縁まで歩かされたところで「マレ」と呼ばれた。船長の声だった。
「約束どおり、お前を船から降ろそう。俺は約束は守る男だからな」
キャプテンは顎髭を指に絡ませながら、愉快そうに言った。
「……ステラは」
「ああ、ステラは自室だ。馬鹿な真似はせんように、何人か見張りをつけてある」
それから彼は、すっと右腕を上げて右舷の方向を指した。
「お前をあの島で降ろす。小さな無人島だ。ああ、助けが来ることは期待しないほうがいい。この海域は暗礁が多くてな、船は滅多なことじゃ近寄らない」
船長の手が、左肩にやさしく置かれた。そして彼は猛獣のような眼をぎらりと光らせて、低くささやいた。
「飢え、渇いて、死ね」
ルナ・エルモーサ号が白沫 を立てゆっくりと引き返していくのを、俺は砂浜に座り込んでぼんやりと見つめていた。ほんの少し前まであの船に乗っていたこと、そして、数日前まではあそこでステラと笑い合っていたことが、ひどく遠い出来事のように感じられた。今となっては、まるですべてが夢だったかのように、美しい記憶の欠片は目の裏側をひらひらと朧 に撫でて消えていった。
俺がこの島で死ぬのを、ステラは知っているだろうか。今は知らなくとも、きっと後々は知ることになる。そして俺が死ねば、ステラの枷は無くなる。彼は機を見て船を降り、海賊でいることをやめられるだろう。そう思うとほっとした。死ぬのは恐ろしい。けれど少なくともこれで、ステラはあの船に縛り付けられ朽ちてゆくことはないのだ。
そう思うことだけが、今の俺にとってただひとつの歓びだった。俺の命が尽きることの、たったひとつの意味だった。
陽は西へ傾き、青かった空は薄っすらと茜色をはらみ始める。それはやがて、焼け爛れたような夕空へと変わり、太陽は赤い硝子玉が熔け崩れるように、水平線に飲み込まれてゆく。世界の終わりのように、美しい夕陽。
辺りがすっかり暗くなると、砂の上に寝転んだ。聞こえてくるのは、漣 が砂浜を洗うやさしい音色だけ。頭上には星々が瞬き、その連なりは神話を紡いで俺の心を慰めてくれた。
ふいに、耳が違和感を拾う。単調に繰り返していた静かな波の音の中に、ざぶり、ざぶりと水を掻くような、馴染まない音が混ざった。月が細い今夜は夜目がきかない。音のするほうを見たが、その正体はよく分からなかった。やがてそこに、何か重たいものを引きずるような音が加わり、ついには砂を踏みしめる足音に変わった。
──ひと。人間だ。
息を呑む。期待と、恐れ。いったい誰が。まさか。でも。違う、そんなはずはない。
「マレ」
波のさざめきにくっきりと浮かび上がる、澄んだ声。
背筋が震えた。身体じゅうの血が心臓に集まったみたいに、胸が苦しい。
顔を上げる。そのひとは、すぐ傍らにいた。星明かりだけでも、見間違えようもない。
「ステラ……!」
ステラの身体が覆いかぶさるようにして、俺を抱きしめた。ステラの腕の感触。ステラの匂い。ステラ。ステラ、ステラ、ステラ。縋り付くように抱き返す。
「ステラ、どうして……!」
見上げた彼の顔が、ぐにゃりと歪む。目の奥が燃えるように熱い。涙は込み上げて、とめどなくあふれた。
「夜を待って、ボートを降ろして漕いで来たんだ。水とパンも少し、持ち出せた」
彼が笑って、俺の涙を掌で拭う。
「そうじゃなくて!どうして来たんだ、こんなところへ……ステラまで、」
「マレ」
ステラは俺を真っ直ぐに見つめた。静かで、穏やかで、愛情深いまなざしで。
「お前が言ったんじゃないか。一緒に新しい生き方を手に入れようって。何があってもそばにいるって」
「それは、俺が勝手に……!」
「お前が望むことは、俺が望むことだ。お前が誓ったことは、俺の誓いだ」
それから俺の首を引き寄せて、ステラは浅く口づけた。
「俺たちはひとつだ。そうだろう?」
ステラの瞳にも涙が光って、煌めいていた。
その光に、甲板でふたり見上げたオリオン座を思い出す。嵐の翌朝の、晴れ渡る海を。本を読んでくれた夜の、あたたかなランタンの灯を。そして、ベッドの中で見つめ合った、愛に満ちた瞳を。
強く抱きしめて口づけた。ステラの唇は、俺と少しも違わずに同じ温度だった。ふたりがひとつであることを、そうやって、唇の熱で幾度も幾度も確かめ合った。
どうして離ればなれになれるだろう。俺たちは共に羽ばたかなければ飛べぬ鳥。寄り添わなければ立つことさえ叶わない若木。共にある運命を、星にえがかれたふたりなのに。もう二度と、離れられるはずなんてなかった。
「望みは、薄い」
身を寄せ合って夜を明かした朝、暗い表情でステラはそう言った。
空は今日もよく晴れていた。白い砂浜は陽に眩く輝き、海は穏やかに凪いでいる。時折りそよぐ潮風が背の高い木々の葉を揺らし、木漏れ日がちらちらと俺たちの足元をからかうように照らす。自分たちの行く先の憂いに引き比べると、そのあまりに爽やかな眺めは妙に白々しく、現実感がなかった。
「この辺りは暗礁も多いし、近くに港があるわけでもないから、どこへ行く航路にも入ってない。滅多に船が通らない場所なんだ」
「ええと、でも、ステラが乗ってきたボートは?あれで沖へ出て助けを求めることは?」
訊いた俺に、ステラはすぐに首を振った。
「手漕ぎ舟で行かれるような距離に、ひとの住んでいる陸地がないんだ。沖へ出てほかの船に見つけてもらうのを待つ手もあるが……そのあいだに海が時化 たりすれば、ひとたまりもない。この無人島で何とか食い繋ぎながら近くを船が通るのを待つほうが、賭けとしては分があると、俺は思ってる」
「……そうなのか」
ここは島とは言っても、満ち潮でも沈まない、という程度のほんの小さな陸地だった。山があるわけでも、川があるわけでもない。水と食糧の確保が難しいことは、容易に想像ができた。
「ただ、ここは何本か椰子が生えてる。食べられる状態の実がなっていれば、かなりいい」
そうしてステラは「これがあれば、実を採って食べられる」と、腰に提げていたカトラスをくるりと回してみせた。
「この場所に詳しいんだな」
「……前にも一度、処刑のために水夫をひとり、ここへ置き去りにしたことがあったんだ」
ステラが苦々しく鼻の付け根に皺を寄せ、目を伏せる。
「その男は何を?」
「船長の愛人に手を出したのさ」
手持ち無沙汰なふうに彼の手が刀の柄をきゅっと握って、そして離した。
──ここはやはり、そういう島だ。
海から生ぬるい風がふうっと吹いて、全身の肌を粟立たせた。
「とにかく、できるかぎりやってみよう」
ステラはそう言うと、俺の手をぎゅっと握った。その瞳は常と変わらずに、強く光っていた。
「俺は何も、お前と死ぬためにここへ来たんじゃないんだ」
「ああ」
手を握り返す。と、ステラは小さく頷いて笑顔を作ってみせた。それはたぶん、俺を勇気づけるためだけの笑みだ。そう思ったら、胸がぎゅうと締め付けられるようだった。
この状況で不安がないはずがなかった。それでも光を失わない彼の瞳は、なんて美しいのだろう。なんて強く、高潔な魂。身が震えるような強さで、誇らしいと思った。この男に出逢えた幸運を、そして、彼を愛したことを。
ステラの持っていた水とパンとチーズで、八日を過ごした。採れた三つの椰子の実と新芽 、浅瀬で獲った小さな魚で、さらに十日。雨は殆ど降らなかった。それから数日が過ぎると、もう日にちを数えることもできなくなった。
飢えと渇きのせいで、断続的な眩暈に襲われる。立ち上がることさえ億劫になっていた。俺とステラは木陰で身を寄せ合って、祈るように沖合を眺め続けた。波は寄せては返し、満ち引きを繰り返し、海は無慈悲と思えるほどに沈黙していた。
そうして、いつまでたっても変わらない景色に倦むと、俺は時々ステラを見つめた。そうすると彼はほんの少しだけ笑った──きれいなステラ。こんなときでも、彼は美しい。俺だけを見つめる眸は潤み、バラ色の唇は俺だけに微笑む。こんなに美しいひとにも、青白く虚ろな死神は忍び寄るだろうか。あるいは、禍々しい神さえもが彼に恋をして、昏い檻の中へ囲ってしまうかも知れない。
「きれいだ……ステラ」
声はがさがさに掠れて、きっと彼の耳には意味を成す言葉として届かなかったと思う。でもステラは、はにかむように頬を緩めて、俺の胸に顔を埋めた。肌が触れ合うと安心して、意識がふっと遠のく。そしてまた引き戻されて、ステラの頭の重みを大切に胸に抱く。
意識は次第に濁っていって、夢と現が斑 に混ざり合う微睡みの中を揺蕩うようだった。その眠りの合間に、見つめ合い、抱きしめ合う。それだけで、不思議なほど心は安らかだった。
「マレ……抱きしめて、離さないでくれ」
「ああ、ずっと、ずっとこうしてるよ」
痩せた背を包むように抱いて、頬と頬を寄せる。
「一緒にいてくれ。死がふたりを分かつまで」
「死神だって俺たちを離せない。君の命が尽きるとき、俺の命も終わるんだ」
満足そうにステラが微笑む。けれど弧を描いた唇は戦慄 いて、歪んだ。細められた瞳からはわずかに涙がこぼれた。眦へ口づければ、ほのかにしょっぱい。俺がこの世で最後に味わうものは、ステラのこの涙なのだろう。満ち足りた気持ちで、頬にもキスをする。
ステラの腕が俺の背を抱いた。持てる力の限りでもって、俺も彼を抱きしめた。決して離れないように抱き合って、唇を結ぶ。このままふたりの身体は朽ち果てて、やがてひとつの土くれになるだろう。それは大粒の真珠になるよりも何よりも、ずっと美しい物語。千の星々の祝福。果てることなき波の音に包まれる、永遠。
「一緒に死んでくれるか、マレ」
「ああ、ずっと一緒だ、ステラ。俺の最愛。俺のきらめく星 」
「愛してる」
「愛してる」
ステラ、ステラ。俺の安らぎ。光、静けさ、夢、俺の愛。俺のすべて。
君の腕の中で、俺は死ぬ。
【或る日の船乗り猫のひとりごと】
ステラとマレがいなくなってから、二年と少し。淋しいかって?そりゃあ淋しいさ。色々と迷惑もかけられたけど、あいつらは俺の大事な友人だ。突然ふたりが船から消えたときには、俺だって驚いて、ずいぶんと心配もしたさ。
知ってるか?ふたりがキャプテンの逆鱗に触れたのは、マレがステラのベッドで眠ってたから、なんだってな。おかしなもんだな。猫だって寒い夜には、兄弟や仲間、恋人と身を寄せ合って眠る。普通のことさ。それの何が気に入らないって言うんだろう。やっぱり人間の考えることは、よくわからねえな。
ふたりが無人島に置き去りにされたって話は、後になってオクトーから聞いた。厨房で奴が仲間とこそこそ話してるのを、いつだったか盗み聞いたんだ。
「このあいだ、あの島に最近立ち寄ったって奴に会ったんだ。そう、トルトゥーガの酒場で」
「……どうだった」
「島をぐるっと回ったが、新しい仏さんはなかったって……」
「ああ!ステラ!……マレ……!」
「きっとどこかの船に拾われたんだ。きっとそうだ。そうだろ……」
オクトーともうひとりの水夫は、そう言って目元をごしごし拭って、それからラム酒の瓶をラッパ飲みした。
なあに、きっとどこかで、ふたりして元気にやってるんだろう。大丈夫だ。なにせマレはステラの、ステラはマレの、幸運の星 なんだからな。
ある時、船は補給のために、穏やかな海の真ん中にある小さな港町に寄った。俺はふだん、船が港へ着いても陸 へ上がることはあまりない。でもこの時は珍しく、ちょっと町を歩いてみようか、という気になった。それというのも、桟橋で会った船乗り猫の仲間から、ここにはえらい美人 がいる、という噂を聞いたからだ。
坂の多い、美しい町だった。鮮やかな赤い花がそこらじゅうで咲きこぼれ、建ち並ぶ家々はどれも、真っ白な壁に青い屋根を乗せて、陽の光に輝いていた。
久しぶりに歩く陸地は、船の上とはまた違った面白いものがある。市場のそばでは、魚や果物や、わけのわからない、しかし美味そうな食べ物の匂い。たくさんの人間と、猫。木には檸檬が実っている。水平線は見えないけれど、道はどこまでも真っ直ぐに続いていくようで、これはこれで悪くなかった。
市場で出会った猫たちによれば、その美しい雌猫は、どうやら港のすぐそばの食堂で飼われているらしかった。小さな町だ、食堂の数はそう多くない。港へ戻り、端から順にいくつかの店を覗いてみると、彼女はすぐに見つかった。
白壁の小さな食堂。扉の横には、鶏の絵の描かれた看板が立っている。辺りには変わったハーブの匂いが漂っていた。どこかで嗅いだことのあるような、懐かしい香り。ちょっと考えてみたが、それが何だったかは思い出せなかった。
その陽当りのいい窓際に、彼女はすまして立っていた。艶やかな黒い毛並み、気高い金色の瞳に、つんとした鼻先。その眼は遠く、海を見ているよう──確かに、そんじょそこらではちょっとお目にかかれない美人だった。
ご機嫌を伺ってみようと、そばの木に登って窓の縁へ近づく。すると店の奥からひとりの男が出てきて「ノックス」と彼女を呼んだ。すると美人 はぴょんと出窓から飛び降りて、彼のほうへ歩いていくと、その腕の中に収まってしまった。せっかくの好機を逃した。そう思いながら何気なく見た、その男の顔。そう、彼女の飼い主の男だ。なあ、信じられるか?ああ、とても信じられないような話さ。それはステラだったんだよ!顔つきは少しだけ大人っぽく男らしくなって、髪は短くなっていたけれど、それは見間違えようもなく、懐かしいステラだった。
俺は枝から落っこちそうなぐらい驚いて、その顔を食い入るように見つめた。美しい黒猫のことはすっかり頭から抜け落ちていた。だって、ステラ!ステラが生きていたんだ!まさかこんなところで彼に会えるなんて。彼の元気そうな顔が、心底嬉しかった。俺がここへ気まぐれに辿り着いたのも、きっと海の神様のお導きだったんだ。見たこともない神様に向かって、俺は両手の肉球をぴったり合わせて拝んだ。
そうするうちに、彼の後ろから長身の男が現れた──マレだった。でも、もう驚かなかった。きっとそうだろうと思ったから。マレは、ステラと黒猫を後ろから抱きしめて、そのこめかみに口づけた。ステラが笑ってマレの身体を突き放す。そうして二言三言なにか話すと、ステラはちょっと背伸びをしてマレの頬にキスをした。ふたりは顔を見合わせて笑って、厨房へ姿を消した。ノックスがそのあとを、足音もなくついてゆく。
それでどうしたんだ、って?それだけだよ。これで、この話は終 いさ。そのあと俺はルナ・エルモーサ号に戻った。だってそうだろ?あいつらに姿を見せたら、きっと別れが辛くなる。ふたりにはふたりの新たな暮らしがあって、俺には俺の暮らしがある。俺は生まれつきの船乗り猫だ。陸 じゃあ生きていかれないのさ。だから、これでいいんだ。ふたりが幸せなら、それで。
俺は相も変わらず船上の日々だ。船倉で鼠を捕り、水夫たちをからかい、波に揺られ、昼寝をし、ロマンチックな夜には星空を眺める。この暮らしに満足している。でも時々は、マレがくれたベーコンの味が恋しくなったりする。そして星も凍る寒い夜には、俺はあのふかふかのベッドで、ステラとマレにぎゅうぎゅうに挟まれて眠る、夢をみる。
ともだちにシェアしよう!

