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エピローグ

【或る日の食堂の看板猫のひとりごと】  このへんじゃ見かけない猫だわ、と窓の外を見て思った。木の枝に登ってこちらの様子を窺っている、大きな白猫。きっとまた私の美貌を拝みに来た雄猫ね。さして興味はそそられなかった。白い毛並みは薄汚れているし、手入れもされてないみたい。ああでも、気位の高そうな水色の瞳は、ちょっと悪くないわね。  そんなことを考えていたら、ステラが「ノックス」と私を呼んで抱き上げた。優しい腕。いい匂い。そしてとってもハンサム。それが私の飼い主のステラ。私は彼が大好き。ステラの前では、どんな美しい雄猫だって霞んじゃうわ。  ステラの頬に額を擦り寄せると、彼が小さく笑って私の顎の下を撫でる。彼は私に夢中よ。相思相愛ってやつね。 「ステラ」  ──ああ、せっかくいい気分だったのに。邪魔が入ったわ。  蕩けそうに甘い声でステラを呼んだ男の長い腕は、彼を後ろからすっぽりと包んで、私ごと抱きしめた。 「マレ」  ステラが嬉しそうに男を見上げる。それが気に入らなくて藻掻いて暴れると「やめろよ、ノックスが嫌がってる」と、ステラはマレの腕から逃れた。マレは不満げに眉を下げる。いい気味だわ。 「そんな顔すんなって」  するとステラはちょっと背伸びをして、背の高いマレの頬に小さく口づけた。マレが分かりやすく機嫌を直して、だらしない顔で笑う。それを、満更でもないふうに微笑んで、ステラは見てる。それはこの食堂──”千の星々(ミル・エストレージャス)”の朝の、お決まりの光景。  そして、夜はと言うと。 「ノックス、そこは俺の場所だ!」  マレが私の胴体を掴んでベッドから引きずり出そうとするのを、必死にシーツに爪を立てて阻止する。 「マレ、やめろって、大人げない。嫌がってるだろ。つーか、やめないとまたシーツに穴が開くって」 「いーや!昨日はノックスに譲ったんだ。今日は俺がステラを抱っこして寝る番なんだよ」  マレが油断した隙に、えいっ!手の甲に爪を立てる。 「痛っ!」 「シャーッ!」  私とマレの毎夜の攻防を、ステラはやれやれって感じでため息を吐きながら眺めてる。そうして私たちを放って、とうとうベッドの端に丸くなって寝てしまった。 「あ、待てよ、ステラ」  マレが情けない声を上げて、ステラの背中に追いすがる。それから何度か首にキスをして、耳許で何かささやいたかと思うと、ステラはちょっと頬を赤くして「んー……」と考え込んでしまった。マレは「ステラ」と、ここぞとばかりに甘い声で口説きながら、彼を後ろから抱きすくめる。  マレがステラの耳や頬に十回ぐらいキスを落とした後。ステラはすっくと立ち上がったかと思うと、私を抱き上げた。それから「ごめんな」と言って、部屋の外へ連れ出した。 「悪いな、ノックス。今日は下の食堂で寝てくれるか。ほら、お気に入りの毛布。ここに敷いとくから」  彼はそう言うと私の額をやさしく撫でて、マレの待つ寝室へ戻って行ってしまった。  ──今日は完敗ね。  こんな夜も、たまにはあるわ。きっとふたりで、何か美味しいものでも食べるつもりなのね。私だけのけ者にするなんて、失礼しちゃう。  諦めて、窓辺に置かれた毛布の上に丸くなる。仕方ないわね。今夜はここで、お月さまと一緒に眠るわ。  私がこの店で暮らすようになって一年ぐらいが経つけれど、ふたりはたぶん、恋人同士ってやつなのね。マレがステラを見つめる目はいつも甘く溶けていて、ステラがマレを見上げると、その瞳にはきらきらと星が瞬く。ちょっと面白くないけど、きっとステラはマレが大好きなのね。  え、私?マレのことが嫌いなのかって?そうね、大好きなステラを取られちゃうのは、ほんとに腹立たしいったらないわ。でもステラの取り合いにならなければ、マレは私にとても親切だし、撫でる手も優しくていい感じ。それに、そう、あの、ベーコン。マレは時々ベーコンの切れ端をくれるの。なに、あの美味しいもの。初めて食べた時にはびっくりしたわ。あんな美味しいものをくれるひとに、悪いひとはいないはず。だからつまりまあ、マレのことだって、嫌いじゃあないのよ。 ────────  食堂の朝はゆっくりと。花ひらいたばかりのジャスミンのように、白い光と澄んだ甘い香りをまとって。そしてささやかな幸福を抱えて、のんびりとやってくる。  ここでは、けたたましい起床喇叭の音は鳴らない。この二年のうちに、そういう暮らしにもすっかり慣れた。  死を覚悟した無人島で、マレと俺は一隻の漁船に助けられた。船が通りかかるのがあと数時間遅かったら、俺たちは死んでいただろう。まさに奇跡だった。そうしてふたりは、この小さな、美しい港町に流れ着いた。もっと港から遠い町へ移ろうと思ったこともあったが、波の音が恋しくて、結局は海のそばを離れられなかった。でも、それも仕方のないことかも知れない。苦しいときも、幸せなときも、俺はいつも海と共にあった。  それから俺たちは仕事を探して金を貯め、少しの借金をして、一年前にこの店を開いた。それはマレの夢だった食堂。そう、俺たちふたりの夢。  店は夜に開ける。だから俺たちは陽が高くなってからやっと起きて、まずは黒猫のノックスに餌をやる──彼女は元々野良猫だったが、ある時マレがベーコンをやったら、すっかりここに居着いてしまった──それから一階の食堂へ降りていって、マレが作ってくれた豆と芋とベーコンのスープと、パンで朝食にする。客席の端のいちばん小さな、けれど陽当りのいいテーブルで、俺たちはのんびりとそれを食べる。ノックスのひげの寝癖とか、食糧庫のパンに黴が生えたとか、鰯が豊漁らしい、だとか。そういう、何でもない話をして、笑い合いながら。  それから市場(メルカド)へ行って食材を買う。赤や黄色や緑に橙、色鮮やかな野菜と果物が並ぶ豊かな市は、毎日見ても見飽きることがない。人々のざわめきは活気に満ちていて、その楽しげな響きを音楽にして、俺の足取りはリズムを刻む。そういう俺の様子を眺めながらマレはにこにこ笑って、たいてい何かひとつふたつ買い忘れをする。  肉屋の女主人はマレのことを気に入っていて、いつも少し負けてくれる。鶏肉はたくさん仕入れるからありがたいけれど、彼に向けられる、どこまで冗談なのか分からない口説き文句は、毎朝俺を少しだけ苛つかせる。マレが俺のことしか見えてないのは充分承知してるけど、それとこれとはまた、別の話だ。  帰ったら仕込みを始める。店の看板メニューはもちろんカオマンガイ。鶏を捌くのを手伝おうとすると、決まってマレは「鍋を洗ってくれ」だとか「客席の掃除を」だとか他の用事を言いつけてくるもんだから、俺の料理の腕はすっかり鈍ってしまった。仕方がないので最近は、俺は給仕に専念することにしている。  毎晩、店は盛況だ。小さな店いっぱいにお客がひしめいて、マレのカオマンガイをみんな美味そうに頬張る。そうして、それを嬉しそうに眺めているマレを、俺はこっそり盗み見る。やわらかく目を細めて、誇らしげに、嬉しそうに笑っている横顔。それを見ると、いつも俺はたまらなく幸せな気持ちになる。 「──今日のはこれでおしまい。続きはまた、あした」  あたたかなオレンジ色の灯が、マレの深い瞼の窪みや高い鼻筋をやわらかく照らして、うっとりするような陰影をえがき出していた。ここでは比較的、質のいい蝋燭が手に入るから、ランタンの灯は明るく、船のベッドで読み聞かせていたときよりも、紙の上の文字はよく見える。  そしてそれは、マレの顔についても同じこと。物語を読むあいだ、俺の手や口元をじっと見つめる眸はどこか色っぽくて、何となく俺は落ち着かない気分になる。  膝の上で本を閉じると、傍らに寝転がって物語を聴いていたマレは、俺を見上げて言った。 「これでおしまい?もう少し、読んでよ」 「嫌だ。けっこう読んだだろ。もう疲れた、寝よう」 「ふふ、わかった」  マレは手の中から本を取り上げると、俺を抱き寄せてすっぽりとブランケットの中へ(くる)んだ。マレと俺のあいだに挟まれたノックスが、にゃあ、と不満げな声を上げる。狭いのなら出ていけばいいと思うのだが、彼女はいつも頑なに俺の隣りで寝ようとする。そう言えばニクスも俺のベッドで寝たがって、よくマレにつまみ出されていたなと、船上の友人のことを懐かしく思った。 「ほんとにマレは、おっさんなのにデカい子どもだな」  頬をやわくつねってからかうと 「おじさんなのは仕方ないけど、子どもじゃないよ」  君の恋人だ、とマレは楽しそうに俺の唇を啄んだ。  この歳上の恋人は、もうどんな物語だって自分で読めるようになったのに、未だに眠る前のを俺にせがむ。でも強請られなくとも、ふたりでベッドへ入ると自然と本を開いてしまう。船の上から続く習慣は、変わらずにふたりの日々の中の、愛おしく大切な時間だった。  本を読んで聞かせてやる、と持ち掛けたときのことを思い出す。あの頃はマレと一緒にいたくて、もっと近づきたくて、必死だった。俺は恋をしていた。  初めてマレのことをオクトーから聞いたときには、気に入らない、と思った。堅気の料理人だったのに、わざわざ海賊になるなんて。俺の欲しいものを持っているはずなのに、自らそれを手放した男。そう思うと腹立たしかった。そいつにニクスがやたらと懐いているのも気に食わなかった。そしてどんな奴なのか、気になった。  でも話してみると、マレはいい奴だった。俺が何を言ったって穏やかに笑って、大丈夫だ、とやさしく諭した。彼といると、俺の心は晴れた朝の海のように穏やかで、その静けさは、それまで船の上で望んでも、決して手に入らないものだった。ふたりで本を読むひととき、俺は生まれて初めて、安らかな幸せを感じていた。 「ステラ……」 「ん、」  唇を深く合わせて、口の中の温度を確かめて。キスを(ほど)くと、マレがとろりと溶けてしまいそうな顔で笑う。そのやさしい目の端に、俺は口づける。  間近に見つめて、なんてきれいな男だろう、と思う。澄んだ瞳。それは夕映えの漣みたいに静かで切ない光を宿して、けれど笑うと柔らかく目尻が下がって、珊瑚の海のようにあたたかい。  マレに出逢って、マレに恋をして、俺の世界は目まぐるしく変わった。ただ漫然と繰り返されていた潮の満ち引き、星々の巡りは、突然眩しいぐらいの輝きで、日々に意味をもたらした。そして変わったのは、俺自身の星回りも。もしも彼に出逢っていなかったとしたら。俺はきっと今もあの船で鬱屈としながらも、罪のない人々を傷付け、海賊や軍人を殺し、奪ったもので腹を満たし暮らしていただろう。考えるだけでぞっとする。  生きる場所は自分の意志で選べるってことに、マレは気づかせてくれた。大海原を前にして、自らの力で針路を決める勇気を、俺にくれた。  ──マレは俺の道標。さながら北極星(ポラリス)だ。  俺はマレにぜんぶ教えてもらったんだ。料理も、暮らしの中にあるたくさんの幸せも、ひとを愛することも。 「なんか楽しそうだな、ステラ」  マレの唇が、耳の縁を喰みながら笑う。吐息がくすぐったくて、俺も笑う。 「俺はマレに教えてもらったことがたくさんあるなと、思ってさ」 「そう?たとえば?」 「秘密だ」  かたちのいい鼻先をかじってやると、マレはにやりと笑って 「キスの仕方とか?」と、わざと音を立てて俺の唇を吸った。 「ばあか」  でも、それも教わったことのひとつだ。キスも、愛し方も、恋人と肌を触れ合わせる歓びも。 「マレ……」  そして、こんなとき、どうやったら言葉に出さずとも欲しいものを手に入れられるのかも。  彼の背中に手を回して、肩甲骨の真ん中をゆっくりと撫でる。そうして、首と肩の境目のあたりに頬を擦り寄せた。 「ステラ」  マレが目を細めて、熱っぽく俺を見つめた。その視線の温度に、目論見がうまくいったことを俺は知る。  あとはもう、思うままにキスをして、抱きしめ合って。愛しているとささやかれて、ささやいた。シーツの波間で笑い合って、ひとつになることの幸福に、ふたりで深く深く沈んでいった。  完璧に満たされて、恋人のあたたかい腕に包まれながら揺蕩う微睡みは、たまらなく贅沢だ。眠いけれど、眠りたくない。この幸せをもう少し感じていたくて、くっついてしまう瞼を、慌ててまた開く。それを見ながらマレは吐息だけで笑って、俺をしっかりと抱き寄せる。  そうして俺のポラリスは、いつものように右の眦に口づけて言うんだ。 「おやすみ、俺のお星さま(ミ・エストレージャ)

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