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1.出会いはベンチで、運命はそこから
side 一ノ瀬 遥(いちのせ はる)
恋人と同棲を始めて、もうすぐ三ヶ月。
俺は毎朝、スーツに袖を通して家を出る。彼は、その横で布団にくるまったまま、スマホをいじってる。
「いってきます」と声をかけても、返事はない。
……まぁ、そういうもんか、と無理やり自分を納得させてきた。
けど、今夜は無理だった。
俺が仕事から疲れて帰ってきたら、テーブルにコンビニ弁当がそのまま置かれていて、洗濯物も、シンクの中の食器もそのまま。
まるで時間が止まったみたいな部屋に、俺は思わず口を開いた。
「……なあ。少しくらい、家のことしてほしいんだけど」
彼は、ソファーに寝転がったまま、スマホをいじっていた。
「は? 何それ。俺に主婦でもやれって?」
「そういう意味じゃなくてさ……ちょっとは協力しようとか、思わねえの?」
すると彼は、ようやく顔をこちらに向けた。
「お前ってさ、ほんっとめんどくさいよな」
彼のその言葉は、笑いながら投げつけるには重すぎた。
「……めんどくさいとかじゃねぇだろ。働いてないなら、せめて家のことくらいやってくれよ。俺は毎日仕事行って残業も……」
言い終わる前に、彼が立ち上がる気配がして、次の瞬間――頬に痛みが走った。
衝撃より、音より、スッと心臓の奥に冷たいものが流れ込んでくるような感覚だけが残った。
「……っ、いってぇな……殴んなよ」
「俺に命令すんな」
彼は低くそう言って、またスマホをいじりだした。
……呆れる、を通り越して、もう何を感じればいいのかわからなかった。
「命令なんかしてねぇよ。ただ、話をしてるだけだろ」
できるだけ、冷静に言葉を返した。けど、声が少し震えたのは、自分でもわかる。
言い返しても、彼は背中を向けたままだ。
いつものことだ。俺が何か言っても、まともに向き合ってくれることはほとんどない。
気に入らないことがあると、すぐ手が出るし――
抱くときも、優しさなんてなかった。乱暴で、こっちの気持ちなんて無視で。
ひどい時は、腕とか背中とか、あとが残るくらいだった。
鏡見るたび、情けなくて……惨めで。
何が“恋人”なんだろうな。
肩を並べてるのに、どんどん遠くなってく感じがしてた。
――このまま一緒にいて、何か変わるのか?
そんな疑問が、ずっと心の奥で燻ってた。
けど、口にしたら終わる気がして黙ってた。
それが、今日。
言葉のひとつひとつが引き金みたいに噛み合わなくなって、思わず声を荒げた。
「っ、もういい!」
そう言いながら、勢いのままに玄関に向かった。
手が震えるのを誤魔化しながら、鍵を掴んでドアを開ける。
「……は? おい、遥!」
背後から声が飛んできた。
でも、追いかけてくる音はしなかった。
なんとなく予想してた通りの反応に、苦笑いが漏れそうになる。
そのまま、振り返らずに階段を下りた。
*
ふらふらと歩いていたら、駅前の広場に出た。
真ん中にでかい木があって、それを囲うようにベンチが並んでる。
とりあえず、空いてる端っこに腰を下ろした。
「……はぁ」
吐いた息がやけに重い。
スマホも財布も置いてきたから、今が何時かもわからない。
じっとりした夜の暑さが、肌にまとわりついて不快だった。
ふっと、浮かんでくるのは、付き合いはじめた頃のこと。
たしかに、最初はお互い好きだった……ような気がする。
でもそれって、ただ「ひとりじゃなかった」ってだけだったんじゃないか?
彼は俺の顔が好みだって言ってた。
エリートだって褒められた。なんか、ちゃんと人間として認められた気がして、浮かれてたんだよな。
でも――本当に、あいつは俺のこと好きだったか?
……優しくされた記憶、あったっけ。
思い出そうとしても、なんかもう霞んでて、よくわからねぇ。
ああもう、考えるのもしんどいって。
連勤続きで、ただでさえ体はガタガタだし。
あんなやつのことで頭使うの、バカみたいだ。
ぼんやり、木の影を見上げたところで、どっと眠気が押し寄せた。
頭ががくんと下がって、まるで電源が落ちるみたいに、意識が途切れていく。
気づけば、夜風に包まれながら、俺は静かに眠りに落ちていた。
「……ちょっと、おにいさん?」
「ん……?」
誰かの声に呼び戻されて、目を開ける。
ぼんやり視界が合ってきた先に、明るい髪の――イケメンが立っていた。とにかく、目立つ。
「うわっ……え?」
「寝てたけど、大丈夫?」
そう言って、イケメンは片手にレジ袋を持ったまま、俺の顔を覗き込んできた。
香水か、柔軟剤か――ほんのりいい匂いがする。
「……あ、俺……」
「めちゃくちゃ寝てたよ? てっきり酔っ払いかと思った」
「ちがう……疲れてただけ。ごめん、声かけてくれてありがとな」
「そっか」
軽くうなずいて、男はレジ袋をベンチに置いた。
しかし、すげーイケメン。チャラい外見だとは思ったけど、どこか柔らかい空気もある。
「俺も座っていい?」
「ああ、どうぞ」
「じゃ、遠慮なく」
ひょいと俺の隣に腰を下ろす。人懐っこいというか……変わった奴だな。
「……で、なんかあったの? 悩み事とか」
「は?」
「疲れてるって言ってたしさ。顔も、限界きてる感じだった」
「……まあ、ちょっとな」
言葉を選ぶ余裕なんて、もうなかった。
なんかもう、全部どうでもよくなってて。
でも、このよく知らない男には、なぜか普通に話せそうな気がした。
「そうだ、酒飲める?」
男はレジ袋をごそごそと漁って、缶チューハイを取り出した。
パッケージがやけにポップで、なんか笑いそうになる。
「……ありがと。ちょっとだけ、もらう」
「ん、どうぞー」
缶を受け取って、とりあえず乾杯。
駅前のベンチ、木の下のちょっと薄暗いとこで、知らない男と並んで缶チューハイ飲むなんて、今朝の自分には絶対想像できなかった。
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