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③クズの脅しと、残り香

side 神谷 拓実 青木が動き出したら、どう出るか――。 あいつが俺のことまで調べて、行動を監視しているのは間違いない。きっと、相当邪魔な存在だと思っているだろう。 昼休憩の静けさの中、オフィスビルのバルコニーで風を感じながら思考を巡らせていると、軽い足音が近づいてきた。 「失礼します。神谷社長宛に、少しおかしなメールが届きまして」 差し出されたタブレットに目をやる。画面には見慣れた名前――青木。 “神谷、お前の大事なものを壊すことなんて簡単だ。邪魔をするな” 文面は短くても明確だった、はっきりとした脅迫の意図がある。 ……やはり、出てきやがったか。 胸の奥で小さな苛立ちを覚えつつも、社員には微笑みを浮かべて「ただの嫌がらせだ、気にするな」と軽く流す。 視線を遠くの街並みに投げながら、思考はすでに次の一手へ――。 俺がスムーズに動くには、奴の視線を俺から逸らしてやる必要がある。 そのためには、もっと深く仕掛けを組み立てなければ。 社長室に戻り、机の上の資料に目を落としながら考えていた時、控えめなノックの音が響いた。 「神谷社長、お客様です」 「あれ、予定にはないはずだけど」 「はい。ただ……どうしてもと」 少し訝しみながら「通して」と返す。 やがてドアが開き、現れたのは落ち着いた雰囲気を纏ったスーツ姿の女性。年齢は俺と同じくらいだろうか。姿勢も所作も無駄がなく、ただの飛び込み営業には見えない。 「突然の訪問、失礼します。……先日はありがとうございました。どうしても直接お礼が言いたくて」 そう言って差し出された名刺には、ある業界団体の名前が印字されていた。 なるほど――以前、うちの会社が協力した案件で繋がる相手か。 「ご丁寧にどうも。わざわざここまで」 「いえ……上の者から、神谷社長に会ってきちんと挨拶して来い、と言われてましたから」 その一言に、思わず視線を上げる。彼女は柔らかく微笑んでいた。 “業務上の挨拶”にしては、少しだけ熱がこもっているように見える。 「神谷社長のやり方、ずっと注目してたんです。あれだけ強くても、社員や周囲への気配りを忘れない……。簡単にできることじゃないと思います」 褒め言葉。だが、その目は俺個人を見ている。 単なるリップサービスか――それとも。 「……それは、買いかぶりすぎだね」 「いいえ。本心です」 小さく首を振る仕草は、どこか照れくさそうで自然だ。演技には見えない。 「……今日はご挨拶だけですので。これ以上長居はしません」 「そうか。わざわざありがとう」 立ち去ろうとした彼女は、ふと足を止め、振り返った。 「またお話できる機会があると、嬉しいです」 一瞬、目が合う。その瞳には、揺さぶるような柔らかさが同居していた。 ――好意か、それとも。 答えの見えない熱を残したまま、彼女はドアの向こうへ姿を消す。 「……ふう」 椅子にもたれ、深くため息をひとつ。 室内には、残り香のような気配の余韻が淡く漂っていた。 しばらくして、手元のスマホが震える。画面に浮かんだのは、ばあちゃんからのメッセージ。 ――遥のことも、俺のことも、心配してくれている。 内容を読み、緊張が少しだけ和らぐ。 軽く息を吐き、「了解、ありがとう」とだけ返信した。 スマホをテーブルに置き、無意識に唇に微かな笑みが浮かんだ。 *** 数日後。 夜、仕事を終えて会社を出ると、オフィス街のコンビニの前で見覚えのある姿を見つけた。 先日訪ねてきたあの女性だ。 「……神谷社長?」 買い物袋を片手に、少し驚いたような笑顔を浮かべていた。 「あなたは先日の……」 「すみません、また突然。偶然お見かけして……」 「いや、こちらこそ。こんなところで会うなんて。お一人ですか?」 「ええ。残業帰りにちょっと寄っただけで」 彼女は軽く肩をすくめ、袋の中を覗かせてみせる。 中身はペットボトルとサンドイッチ――普通の買い物。妙な不自然さはない。 「あの、よければ、少しご一緒してもいいですか?」 夜風に髪を揺らしながらそう尋ねる声には、遠慮がちな響きがあった。 一方で、その目はやはり真っすぐ俺を見ている。 「……いいよ」 答えると、彼女は嬉しそうに小さく微笑んだ。 コンビニを出てしばらく並んで歩く。 人通りの少ない夜道。街灯の明かりに照らされた彼女の横顔は、昼間よりも柔らかく見える。 歩きながら交わす会話は、仕事や業界のことが中心だった。 だが、不思議とその合間に漂う沈黙さえも、居心地が悪くなかった。 「……神谷社長って、いつも気を張ってるんですね」 ふいにそう言われ、足が止まった。 「え?」 「今日も、さっきも。周りに気を配ってばかりで、自分のことは後回し。……なんだか、少し心配になります」 その言葉に、胸の奥が揺れる。 仕事上の表情しか見せていないはずなのに――なぜ、そんなふうに見抜かれる。 「……俺のことを、そんなふうに思う人は珍しいな」 「ふふ。気になる人だから、かもしれません」 彼女は冗談めかして笑った。 「では、ここで失礼します。……今日はありがとうございました」 「……待って」 俺が引き留めると、少し沈黙が続いたあと、彼女がこっちを見た。 「もう少しゆっくり話がしたい。近々、時間……取れるかな?」 「……はい、喜んで」 彼女の声は控えめだったが、その視線は最後まで逸らさなかった。 「じゃあ、また連絡する」 裏に連絡先を書いた名刺を渡す。心臓の鼓動が、わずかに速まっている。 掴みきれない想いを抱えたまま、俺は彼女の背中を見送った。

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