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②狂気と守護
side 一ノ瀬 遥
神谷メディアに移籍して数日。
新しい環境はまだ慣れないことも多いけど、仕事自体は順調だった。
提出した企画が部長から「期待してる」と言われて、胸の奥で少し誇らしい気持ちになる。
「……よし、悪くねえな」
小さく呟きながら、帰宅後はいつものようにパソコンに向かう。
けれど――ふと視線を窓に向けた瞬間、全身に寒気が走った。
……誰かに見られている。
理由なんてない。ただ、本能的にそう感じた。
思わず立ち上がり、窓の鍵を確認する。指先が少し汗ばんでいる。
「気のせい、だよな」
そう言い聞かせても、胸のざわつきは消えなかった。
翌日。
その不安を引きずったまま、家で資料をまとめていると、スマホが震えた。
見慣れない番号。嫌な予感が背筋を走る。
……でも、仕事関係かもしれない。
神谷メディアに正式に移籍してからまだ日も浅いし、俺は他のスタッフの電話番号を知らない。
意を決して通話を押すと――あの声が響いた。
"……やっと出たな、遥"
背中に冷たいものが流れる。……元彼だ。
「……洋介……」
名前を口にした瞬間、喉がひりつく。
"なあ、早く帰ってこいよ。待ってんだからさ"
低く笑う声。懐かしさなんて欠片もなく、ただ粘ついた執着だけが滲む。
"お前は俺の恋人だろ? 必ず連れ戻すからな"
一瞬、呼吸が止まった。
「……ふざけるな」
無意識に声が出ていた。震えていたけど、飲み込まれるのはごめんだ。
すぐに通話を切り、深呼吸を繰り返す。
手は震えている。でも、頭の奥では冷静さを必死に探していた。
……拓実に、伝えなきゃな。
震える指でメッセージを打つ。すぐに返信がきた。
"落ち着け。すぐ行くから。動くなよ"
その短い文で、体の芯が少しだけ落ち着く。
ソファーに腰を下ろし、スマホを握りしめる。
しばらくすると、玄関の鍵がカチャリと音を立てた。
「……拓実か?」
身構えながら振り返ると、見慣れた人物が立っていた。
「遥、大丈夫か」
落ち着いた低い声。けれど瞳は鋭く、全てを見据えている。胸の奥の恐怖がほんの少し解けた。
「あいつ……また連絡してきた。もしかしたら、近くにいるかもしんねえ」
絞り出すように言うと、拓実は静かに頷いた。
「わかってる。俺が確認する。お前はここから動くな」
きっぱりとした声に、背中を押されるような感覚になる。
「……頼む」
自然にそう言葉が出た。
依存じゃない。自分で立とうとする気持ちと、信じて任せる強さ。
拓実は無言で俺の肩を叩き、玄関へ向かう。
その背中を見送りながら、スマホを握りしめ、深く息を吐いた。
拓実が外へ出てから、ほんの数分。戻ってきた姿は、さっきよりもさらに鋭さを増している。
「遥」
低い声に、自然と背筋が伸びる。
「……ここはもうバレてる可能性がある。このまま留まるのは危険だ」
その言葉に、心臓がひやりと跳ねる。
やっぱり、そうか……。直感で感じていたことを突きつけられ、息が詰まりそうになる。
「……やっぱ、ネカフェ生活か……」
自嘲気味に呟いた俺の言葉に、拓実は少しだけ眉を寄せ、低く続ける。
「何言ってんだよ。ばあちゃんが所有してる物件でちょうど空きが出た。そこに移る。俺が管理もできるし、奴も嗅ぎつけられねえ」
「……拓実」
名前を呼ぶ声が、少し震えた。恐怖じゃない。頼もしさと安心感が混ざったせいだ。
「ありがとな」
俺は自然に、拓実の胸元に軽くもたれかかる。
「……おう」
拓実は思わず視線を逸らす。普段はクールな彼が少し戸惑ってるのを見ると、なんだかくすぐったい。
小さく笑ってみせると、拓実は低く呟いた。
「……かわいいやつだな……マジで食っちまいたいくらい」
普段の口調とは違う、ほんの少し色っぽい熱が混じった声。
「でも今は我慢。よし、じゃあ準備しよう」
その声に背中を押され、俺は心を決めた。
玄関先に置いた鞄を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
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