29 / 36
⑤疑念のスクリーン
side 一ノ瀬 遥
仕事を終え、新しく借りたマンションへ帰ろうと夜の街を歩いていた。
ふと視線が吸い寄せられたのは、シティホテルのラウンジのガラス越し。柔らかな灯りの中、人々が静かに笑い合っている。
……ちょっと羨ましいんだけど。
本来なら俺も拓実と並んで食事をして、他愛ない会話を交わしていたはずだ。けれど今は、それも許されない。
“青木を刺激しないため、しばらく二人では会わないようにしよう”
――拓実にそう言われていた。
ポケットに入れたスマホをそっと握りしめ、ため息を吐きながら歩を進める。
やっとマンションにたどり着き、玄関を閉めると全身から力が抜けた。
「あー……だりぃ」
引っ越してからまだ数日。
家具もほとんど揃っておらず、この部屋はまだ仮住まいのような落ち着かなさがある。
着替えや日用品の一部は前のマンスリーマンションに置いたまま。
――そうしておけば、洋介はまだ自分があの部屋にいると思い込めるだろう。
「さてと……何食おっかな」
しかし、完全に新しい生活に切り替えたわけではない。
荷ほどきも中途半端で、毎日の食事も簡単に済ませている俺の部屋に、ふとインターホンが響いた。
「……っ」
思わず肩が跳ねる。誰だろう、と胸がざわつきながらも、ほんの一瞬――拓実かもしれない、そんな期待が頭をかすめた。
けれど、すぐに自分で打ち消す。
二人で会わないようにしているんだから、来るわけないか……。
苦笑まじりに心の中でそう呟きながら、そっと玄関へ歩み寄る。
「……はい、どなたですか?」
ドアを開けてみると――そこに立っていたのは拓実ではなく、見知らぬ男だった。
「すみません、隣の部屋に越してきた滝沢という者です。ちょっとご挨拶をと思いまして……」
中肉中背で落ち着いた雰囲気。スーツ姿だがネクタイを緩め、微かに疲れを滲ませている。
だが、その目だけは妙に鋭く、観察するように俺を見ていた。
「どうも、一ノ瀬です。俺も最近引っ越してきたところで……よろしく」
「こちらこそ。あの、最近この辺りで事件や不審者の噂もあるのご存知ですか?」
「……いや、特には」
思わず曖昧に返す。
本当はそういう物騒な話に敏感になっているはずなのに、唐突にそんなことを切り出され、少し身構えてしまった。
滝沢さんはわずかに首を傾げ、声を落として続ける。
「夜に女性がつけられたとか、部屋を覗かれたとか……。警察沙汰にはなってないみたいですけど」
「……そう、なんですか」
わざとらしくはない。だが、妙に具体的な言葉が耳に残る。
ただの隣人の挨拶にしては、少し踏み込みすぎている気がした。
「もし困ったことがあれば、気軽に連絡してください」
滝沢さんはそう言って、胸ポケットから名刺大のカードを取り出す。
差し出されたそれには電話番号とメールアドレスだけが記されていて、肩書きも会社名もない。
自然な笑みを浮かべる滝沢さん。
だが、俺の胸の奥には、どうしても拭えない違和感が残った。
「……ありがとうございます」
滝沢さんを見送ったあとも、しばらく玄関のあたりに立ち尽くしてしまった。
――観察されているような、そんな感覚。
受け取ったカードを眺めながら、落ち着かない気持ちを抱えたまま、俺は部屋の奥へと戻っていった。
*
半端に積み上げたダンボールの山に目をやりつつ、気を紛らわせるようにベッドに腰を下ろす。
ポケットから取り出したスマホを開いた瞬間、タイムラインの見出しが目に飛び込んできた。
"大手映像制作会社の神谷 拓実社長が、一般人女性と交際か!?"
「……は?」
指先が止まる。
添えられているのは、拓実と見知らぬ女性が並んで歩く写真。
笑顔で肩を並べるその姿が、胸の奥を一気にざわつかせた。
コメント欄も賑やかで、軽い噂話のように盛り上がっている。
見間違いじゃない。何度見返しても、そこに映っているのは拓実だ。
「……いや……マジかよ」
呼吸が浅くなる。
二人で会うことさえ控えている俺の知らないところで、拓実は――?
スクロールを進めるたびに写真は増え、二人の距離の近さが強調されるように目に入ってくる。
胸の奥のもやもやが重く膨らみ、思わず肩をすくめた。
スマホからは非通知着信。
たぶん、洋介だ。
留守番電話には大量の脅迫メッセージ。
「もうやめてくれ……」
夜の静けさの中、手の中のスマホが、俺の心をさらにかき乱していく。
ともだちにシェアしよう!

